江戸の夕映え

大麦 ふみ

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江戸に奉公にでる熊谷農夫の話 ― 『譚海』より

1 江戸へ

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 ─一晩だけならかまわねえ、泊まっていけ。

 無骨だが人のよさそうな百姓の親切に、太平次は泣きたくなるほど嬉しくなった。ここがだめならもう野宿だ、そう覚悟した矢先だった。

 中山道桶川おけかわ宿に旅籠はたごはたくさんあった。なのに百姓の一人旅を嫌ったのか、どこも太平次を泊めようとはしなかった。熊谷くまがやから江戸に奉公をさがしにいくのだと正直に告げたのもよくなかったのかもしれない。いかにも落ちぶれた様子が、とかく客の厄介やっかいごとを嫌う宿屋に良い印象を与えなかったのだろう。

 町のはずれに、一夜の宿を許してくれる百姓家を探し当てたときには、晩秋の空はもうたっぷりと暮れなずんでいた。迫り来る夕闇を背中に、太平次は男に従って戸口をもぐり、土間に進んだ。

 家の広さも作りも太平次のにそっくりだった。水呑みずのみ(農地を持たない貧農)ではなくとも、そうはなるまいと家族が一つとなって日々をしのいでいる、そういう我が身と同じ暮らしぶりが想像できた。

 土間の奥にこしらえられたかまどの前に女の子が座り込んでいた。いっしんに火の加減をみている。十二、三才くらいだろうか、き口からもれる炎の明かりがその顔を照らしてみせた。囲炉裏いろりの際では百姓の女房とおぼしき小柄な女が、食事の準備をしていた。

「御世話になります」

 女たちに聞こえるよう挨拶して、ナカノマのかまちに腰掛けた。すると父親との話し声が聞こえていたのだろう、娘が小さな桶を手にすたすたと太平次の方に近づいて、手ぬぐいを差し出した。

 手渡された手ぬぐいが良く絞ってあった。汗と土埃で汚れた顔を拭うと生き返る気がして、ここまでたかだか六里(24km)ほどの移動に過ぎなかったことが嘘のようにおもえた。

 娘はひざまずいて、太平次の草履ぞうりを脱がせた。足をおけの中につけ、お湯で丁寧ていねいにその汚れを落とし始めた。上客をもてなす高級宿のやり方だった。太平次は驚き、信じられない思いがした。

 この家、娘の親切ぶりはそれだけにとどまらなかった。食事も、家族と同じものをあつらえてくれた。娘は給仕として飯をよそい、汁のおかわりをついだ。

 食事の合間にしぜんと身の上を語ることになった。

 ──田地を借金のかたに質にいれた。それを取り返すために、江戸で三、四年死ぬ気になってで働くつもりだ。置いてきた母と女房には申し訳ないが、それしかねえ。

 娘は目を伏せてそれを聞いていた。

 床につく頃合いとなった。太平次は、土間でわらの上で寝るのをいとう気はまったくなかった。しかし、娘が是非にと父母に言って娘の夜着よぎ(着物の形をしたふとん)が貸し与えられた。座敷でみなといっしょに眠れというのだ。娘は母に寄り添って眠ることになった。寒さに苦しめられることなくぐっすりと眠れた。

 翌朝、当然のように昼の握り飯まで用意してくれているのが分かると、一宿の礼として米、それに加えて二百文を紙に包んた。これはあの女の子にお願いしますと言い添えた。

 男は、なかなか受け取ろうとしなかった。本当に世間れしておらず、困っているものを助けるのはあたりまえ、百姓どうしならなおさらだという。

「江戸なんぞに一人で稼ぎにでるのがどれほど心細いもんか、ぬしら、それがわかって、あんだけのことしてくれた。そのお返しはこんなもんじゃ足りねえくらいだあ」

 子供のいない自分には、娘の親切ぶりがひどく嬉しかったこと、これはその娘のためのものだと、強い口調で押しつけて、男はようやく受け取った。

 その百姓家を後にしたとき、太陽はすでに昇り始めていた。はや冬の訪れを感じさせる肌寒さが、太平次の体をすくませた。

 けれど、昨夜の夜着の温もりを思い出したとき、心の中に

 ──なんとかなるのだ、やってみせる。

 そういう心持ちが太平次の体を熱くして、江戸への歩みを踏み出したのだった。
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