江戸の夕映え

大麦 ふみ

文字の大きさ
27 / 63
オナラを訴えでた長屋の住人たちの話──『我衣』より

1

しおりを挟む
 文化二年(1805)、九月。

 このころ、関東の村々でやりたい放題の悪党どもを退治する関八州取締出役が置かれたり、蝦夷地攻撃するロシアへの警戒が沿岸諸藩に出されたりしていたが、江戸に暮らす多くのものは、そんな事など知らぬ様子で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりの毎日を送っていた。

 そんな市井の者たちにも、もめごとはしょっちゅう起こり、日々その解決に頭を悩ませていたのである。そういった時、お上の裁きを煩くおもい、なんとかして内々に済ませようとするものだが、同月五日、おなじ長屋に住む者どうしが、南町奉行所に公事(裁判)を訴えでた。

 この一件は、根岸鎮衛『耳囊』にも残るが、南町奉行所に治療に出向いた、西丸の奥医師太田玄良から聞いて、そのままを書き留めたとする、『我衣』により詳しい。

 神田の裏長屋に暮らす三人家族、棒手振り渡世の亀太郎とその女房くま、七つになる娘るい、そして隣家の独り者とのあいだでのことである。

 その日くまは戸口ですずきものをしていた。すこぶる機嫌がよい。亀太郎はとっくにいない。朝からくまが炊いた飯を、納豆汁と売れ残りの胡瓜を家で漬けた香の物で腹をいっぱいにして、千住ちかくの青物市場に担い棒と駕籠をもって仕入れに行った。馴染みのいる湯島あたりを足がすり切れるまで廻って、売り物がなくなる夕方まで帰ってこない。昼飯も握り飯を持たせてやっている。

 働き者だが、ちまちま細かい亭主が外出すると、きれい好きなくまはようやっと部屋の隅々まで埃とよごれを追い出すことができるとこころがはずむのである。

 長屋にようやく射し込んできた秋の光を浴びて、たらいにはった井戸水で仏具を洗っていると、煤じみた汚れが落ちていくたびに功徳を積んでいるような気分になる。未来のしあわせが形もなく思い浮かぶようで、いっこうに手伝いをせず側で遊んでいるるいが可愛くて仕方なく思えてくる。凍えた指先をほどよいお湯につけるような心地よさに全身が痺れるようで、心だけでなく、からだのあらゆるこわばりがとれて、締まりがゆるんでしまう。

 そのとき、「あっ」という間もまい早さで、そいつがかめの下腹を襲ってきた。ふだんなら、肛門周りにぐっとちからを入れて、菊門をすぼめて、けっしてそいつを放り出したりはしない。もう他人からなにを言われようが気にしない、立小便でもしかねないハバアでもなければ、裏長屋のかかあ風情といわれようが、江戸の女が屁を人前でひったりはしないのだ。

「ぶほほほおおお。ばっすん、ぱっすん」

 我ながらびっくりするような轟音と振動のあと、いっしゅん間があって、横からだんだんと畳をうつ音が聞こえてきた。そちらに目をやると、さっきまで遊んでいたるいが倒れ伏して、苦しそうに体をよじりながら、握りしめた右拳で床を叩いている。悪い発作でないのは、顔を真っ赤にしながらも、

「かかが……、かかが……、屁、屁、へ、ひひ、へ、……」、と言っているのでわかった。そのちに足までばたばたと動かしはじめた。

「おだまりぃ」

 と恥ずかしさをこらえて、るいをだまらせようとするが、おさまる気配はまったくない。笑い止んだかと思うと、またくまをじっとみているうちに、顔がくずれたようになって、ひいひいと喘息のような息をしだして、くまを許そうとはしない。

 屁は、子供から年寄りまで、相手を選ばない最高のお笑いのタネなのだ。普段とりすましている身分、立場のものが、まぬけな音を漏らしたりすると愉快このうえない。

 どうにも笑いのとまらないるいに、くまは困ってしまった。そのとき、釜の上に置いておいた梨が目に入った水菓子屋(果物屋)の店先に、山のように積まれているのをみて、すこし値ははったが、水気たっぷりのとりたてだとのせられて、ついつい二つ買ってしまった。仏様にお供えするのだから、この程度はいいのだ。

 そのひとつをルイの眼の前に差し出した。ぴたりと笑いはとまった。

「欲しいか」

 るいは目をピカピカと光らせながらうなずいて、猿のごとく、母親の手から獲物をもぎとろうとした。さっと、くまはその攻撃をかわした。

「あのこと、黙ってられるか」

 るいのはいっしゅん、なにを言われたのか分からない様子だったが、瞳がきらめいて、

「あたし、なんにも聞こえなかった。かかが、なに言っているのかわからん。それ、はやく、くれ」と、ずるがしこそうな笑いを浮かべて答えた。

 こんどこそ、梨をくまの手から奪い取ると、るいはそれにむしゃぶりついた。しゃくしゃく乾いた音を立てて、果汁をくちからほとばらせながら、むさぼっていくく。歯が抜けて、むせたりしないかくまは心配したが、無用だった。

 くまは、ようやくもとの洗い物にもどることができるわいと、戸口にもどって、盥の前に腰を落とそうとするとき、一生の不覚がまたもあった。

「ぐあ、ずば、すぼ、ぼぼーん」

 先ほどの一発のあととは思えない、体が半分に縮んでしまうかとおもわれるほどの腹の気が、こんどは短時間のうちに、爆発するかのように、一挙に吹き出された。くま自身にも、いっしゅん、からだが宙に浮かび上がるよな錯覚がめばえた。すくなくとも、直下の地面にいた虫、葉っぱが吹き払われたのは確実だとおもえた。

 あっと思って、くまがるいのほうへ振り替えろうとした矢先、

「ぐへへへ、ひい、ひい、ほっほお、ほほほほほほ」

 という笑い声が思わぬ方から飛び込んで来た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...