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オナラを訴えでた長屋の住人たちの話──『我衣』より
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文化二年(1805)、九月。
このころ、関東の村々でやりたい放題の悪党どもを退治する関八州取締出役が置かれたり、蝦夷地攻撃するロシアへの警戒が沿岸諸藩に出されたりしていたが、江戸に暮らす多くのものは、そんな事など知らぬ様子で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりの毎日を送っていた。
そんな市井の者たちにも、もめごとはしょっちゅう起こり、日々その解決に頭を悩ませていたのである。そういった時、お上の裁きを煩くおもい、なんとかして内々に済ませようとするものだが、同月五日、おなじ長屋に住む者どうしが、南町奉行所に公事(裁判)を訴えでた。
この一件は、根岸鎮衛『耳囊』にも残るが、南町奉行所に治療に出向いた、西丸の奥医師太田玄良から聞いて、そのままを書き留めたとする、『我衣』により詳しい。
神田の裏長屋に暮らす三人家族、棒手振り渡世の亀太郎とその女房くま、七つになる娘るい、そして隣家の独り者とのあいだでのことである。
その日くまは戸口ですずきものをしていた。すこぶる機嫌がよい。亀太郎はとっくにいない。朝からくまが炊いた飯を、納豆汁と売れ残りの胡瓜を家で漬けた香の物で腹をいっぱいにして、千住ちかくの青物市場に担い棒と駕籠をもって仕入れに行った。馴染みのいる湯島あたりを足がすり切れるまで廻って、売り物がなくなる夕方まで帰ってこない。昼飯も握り飯を持たせてやっている。
働き者だが、ちまちま細かい亭主が外出すると、きれい好きなくまはようやっと部屋の隅々まで埃とよごれを追い出すことができるとこころがはずむのである。
長屋にようやく射し込んできた秋の光を浴びて、たらいにはった井戸水で仏具を洗っていると、煤じみた汚れが落ちていくたびに功徳を積んでいるような気分になる。未来のしあわせが形もなく思い浮かぶようで、いっこうに手伝いをせず側で遊んでいるるいが可愛くて仕方なく思えてくる。凍えた指先をほどよいお湯につけるような心地よさに全身が痺れるようで、心だけでなく、からだのあらゆるこわばりがとれて、締まりがゆるんでしまう。
そのとき、「あっ」という間もまい早さで、そいつがかめの下腹を襲ってきた。ふだんなら、肛門周りにぐっとちからを入れて、菊門をすぼめて、けっしてそいつを放り出したりはしない。もう他人からなにを言われようが気にしない、立小便でもしかねないハバアでもなければ、裏長屋のかかあ風情といわれようが、江戸の女が屁を人前でひったりはしないのだ。
「ぶほほほおおお。ばっすん、ぱっすん」
我ながらびっくりするような轟音と振動のあと、いっしゅん間があって、横からだんだんと畳をうつ音が聞こえてきた。そちらに目をやると、さっきまで遊んでいたるいが倒れ伏して、苦しそうに体をよじりながら、握りしめた右拳で床を叩いている。悪い発作でないのは、顔を真っ赤にしながらも、
「かかが……、かかが……、屁、屁、へ、ひひ、へ、……」、と言っているのでわかった。そのちに足までばたばたと動かしはじめた。
「おだまりぃ」
と恥ずかしさをこらえて、るいをだまらせようとするが、おさまる気配はまったくない。笑い止んだかと思うと、またくまをじっとみているうちに、顔がくずれたようになって、ひいひいと喘息のような息をしだして、くまを許そうとはしない。
屁は、子供から年寄りまで、相手を選ばない最高のお笑いのタネなのだ。普段とりすましている身分、立場のものが、まぬけな音を漏らしたりすると愉快このうえない。
どうにも笑いのとまらないるいに、くまは困ってしまった。そのとき、釜の上に置いておいた梨が目に入った水菓子屋(果物屋)の店先に、山のように積まれているのをみて、すこし値ははったが、水気たっぷりのとりたてだとのせられて、ついつい二つ買ってしまった。仏様にお供えするのだから、この程度はいいのだ。
そのひとつをルイの眼の前に差し出した。ぴたりと笑いはとまった。
「欲しいか」
るいは目をピカピカと光らせながらうなずいて、猿のごとく、母親の手から獲物をもぎとろうとした。さっと、くまはその攻撃をかわした。
「あのこと、黙ってられるか」
るいのはいっしゅん、なにを言われたのか分からない様子だったが、瞳がきらめいて、
「あたし、なんにも聞こえなかった。かかが、なに言っているのかわからん。それ、はやく、くれ」と、ずるがしこそうな笑いを浮かべて答えた。
こんどこそ、梨をくまの手から奪い取ると、るいはそれにむしゃぶりついた。しゃくしゃく乾いた音を立てて、果汁をくちからほとばらせながら、むさぼっていくく。歯が抜けて、むせたりしないかくまは心配したが、無用だった。
くまは、ようやくもとの洗い物にもどることができるわいと、戸口にもどって、盥の前に腰を落とそうとするとき、一生の不覚がまたもあった。
「ぐあ、ずば、すぼ、ぼぼーん」
先ほどの一発のあととは思えない、体が半分に縮んでしまうかとおもわれるほどの腹の気が、こんどは短時間のうちに、爆発するかのように、一挙に吹き出された。くま自身にも、いっしゅん、からだが宙に浮かび上がるよな錯覚がめばえた。すくなくとも、直下の地面にいた虫、葉っぱが吹き払われたのは確実だとおもえた。
あっと思って、くまがるいのほうへ振り替えろうとした矢先、
「ぐへへへ、ひい、ひい、ほっほお、ほほほほほほ」
という笑い声が思わぬ方から飛び込んで来た。
このころ、関東の村々でやりたい放題の悪党どもを退治する関八州取締出役が置かれたり、蝦夷地攻撃するロシアへの警戒が沿岸諸藩に出されたりしていたが、江戸に暮らす多くのものは、そんな事など知らぬ様子で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりの毎日を送っていた。
そんな市井の者たちにも、もめごとはしょっちゅう起こり、日々その解決に頭を悩ませていたのである。そういった時、お上の裁きを煩くおもい、なんとかして内々に済ませようとするものだが、同月五日、おなじ長屋に住む者どうしが、南町奉行所に公事(裁判)を訴えでた。
この一件は、根岸鎮衛『耳囊』にも残るが、南町奉行所に治療に出向いた、西丸の奥医師太田玄良から聞いて、そのままを書き留めたとする、『我衣』により詳しい。
神田の裏長屋に暮らす三人家族、棒手振り渡世の亀太郎とその女房くま、七つになる娘るい、そして隣家の独り者とのあいだでのことである。
その日くまは戸口ですずきものをしていた。すこぶる機嫌がよい。亀太郎はとっくにいない。朝からくまが炊いた飯を、納豆汁と売れ残りの胡瓜を家で漬けた香の物で腹をいっぱいにして、千住ちかくの青物市場に担い棒と駕籠をもって仕入れに行った。馴染みのいる湯島あたりを足がすり切れるまで廻って、売り物がなくなる夕方まで帰ってこない。昼飯も握り飯を持たせてやっている。
働き者だが、ちまちま細かい亭主が外出すると、きれい好きなくまはようやっと部屋の隅々まで埃とよごれを追い出すことができるとこころがはずむのである。
長屋にようやく射し込んできた秋の光を浴びて、たらいにはった井戸水で仏具を洗っていると、煤じみた汚れが落ちていくたびに功徳を積んでいるような気分になる。未来のしあわせが形もなく思い浮かぶようで、いっこうに手伝いをせず側で遊んでいるるいが可愛くて仕方なく思えてくる。凍えた指先をほどよいお湯につけるような心地よさに全身が痺れるようで、心だけでなく、からだのあらゆるこわばりがとれて、締まりがゆるんでしまう。
そのとき、「あっ」という間もまい早さで、そいつがかめの下腹を襲ってきた。ふだんなら、肛門周りにぐっとちからを入れて、菊門をすぼめて、けっしてそいつを放り出したりはしない。もう他人からなにを言われようが気にしない、立小便でもしかねないハバアでもなければ、裏長屋のかかあ風情といわれようが、江戸の女が屁を人前でひったりはしないのだ。
「ぶほほほおおお。ばっすん、ぱっすん」
我ながらびっくりするような轟音と振動のあと、いっしゅん間があって、横からだんだんと畳をうつ音が聞こえてきた。そちらに目をやると、さっきまで遊んでいたるいが倒れ伏して、苦しそうに体をよじりながら、握りしめた右拳で床を叩いている。悪い発作でないのは、顔を真っ赤にしながらも、
「かかが……、かかが……、屁、屁、へ、ひひ、へ、……」、と言っているのでわかった。そのちに足までばたばたと動かしはじめた。
「おだまりぃ」
と恥ずかしさをこらえて、るいをだまらせようとするが、おさまる気配はまったくない。笑い止んだかと思うと、またくまをじっとみているうちに、顔がくずれたようになって、ひいひいと喘息のような息をしだして、くまを許そうとはしない。
屁は、子供から年寄りまで、相手を選ばない最高のお笑いのタネなのだ。普段とりすましている身分、立場のものが、まぬけな音を漏らしたりすると愉快このうえない。
どうにも笑いのとまらないるいに、くまは困ってしまった。そのとき、釜の上に置いておいた梨が目に入った水菓子屋(果物屋)の店先に、山のように積まれているのをみて、すこし値ははったが、水気たっぷりのとりたてだとのせられて、ついつい二つ買ってしまった。仏様にお供えするのだから、この程度はいいのだ。
そのひとつをルイの眼の前に差し出した。ぴたりと笑いはとまった。
「欲しいか」
るいは目をピカピカと光らせながらうなずいて、猿のごとく、母親の手から獲物をもぎとろうとした。さっと、くまはその攻撃をかわした。
「あのこと、黙ってられるか」
るいのはいっしゅん、なにを言われたのか分からない様子だったが、瞳がきらめいて、
「あたし、なんにも聞こえなかった。かかが、なに言っているのかわからん。それ、はやく、くれ」と、ずるがしこそうな笑いを浮かべて答えた。
こんどこそ、梨をくまの手から奪い取ると、るいはそれにむしゃぶりついた。しゃくしゃく乾いた音を立てて、果汁をくちからほとばらせながら、むさぼっていくく。歯が抜けて、むせたりしないかくまは心配したが、無用だった。
くまは、ようやくもとの洗い物にもどることができるわいと、戸口にもどって、盥の前に腰を落とそうとするとき、一生の不覚がまたもあった。
「ぐあ、ずば、すぼ、ぼぼーん」
先ほどの一発のあととは思えない、体が半分に縮んでしまうかとおもわれるほどの腹の気が、こんどは短時間のうちに、爆発するかのように、一挙に吹き出された。くま自身にも、いっしゅん、からだが宙に浮かび上がるよな錯覚がめばえた。すくなくとも、直下の地面にいた虫、葉っぱが吹き払われたのは確実だとおもえた。
あっと思って、くまがるいのほうへ振り替えろうとした矢先、
「ぐへへへ、ひい、ひい、ほっほお、ほほほほほほ」
という笑い声が思わぬ方から飛び込んで来た。
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