江戸の夕映え

大麦 ふみ

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オナラを訴えでた長屋の住人たちの話──『我衣』より

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 薄い土壁一枚をへだてて暮らす、隣家の独り者の、ほがらかな笑い声であった。こちらの屁の返礼として、おなくじくらいよく響いてくまの部屋に笑い声が入り込んできた。

 きっと、一部始終、るいを梨で買収するところまで、聞いていたのに違いない。一発目には、かろうじて笑いを堪えたのだろうが、まさかの二発目で、いっばつめにため込んでいたいた分の笑いがとまらないのだろう。

 くまは裸足のまま表にでると、隣の腰高障子を跳ね飛ばすようにあけて、そのまま男がいる部屋へと飛び込んだ。

 男は居間であぐらをかいてすわり、右手に小さな刃物をもっていた。鰹節を掻いていたのである。男は、くまが鬼のような形相でとひこんできたのにぎよっとした。

「うっかり、漏らすのは、仕方ないだろうが。それを、なんだあ、お前は。笑いくさりやがって」

 そういいながら、男の側に寄って、握りしめた拳で男の頭を、二三発殴りつけた。頭を守ろうとしてあげたその手には、まだ小刀が握られている。

 男を殴るうちにますます興奮の募ったくまは、それを奪い取ろうと男の右手にしっかと手を伸ばした。まるでそれでこちらを突き刺してやろうかという勢いに、男は体を右に左にひねって、渡してなるものかと抵抗する。くまは、そのうなぎを素手で捉えるようにその動きに追随する。もみあっているうちに、その刀は男の腕に二箇所擦過して、出血させた。

 ふたりの大人が命を争って暴れるほどの音が、裏長屋で聞き逃されることはない。男がなんとか、くまの手からふたたび刀をとりもどしたときに、

「なにやってんだい、おくまさんよお」、と、もういっぽうの隣家の大工の女房ふきが、なお腕をふりあげて男を襲おうとするくまを羽交い締めにして、男から引き離した。

 そのとき、はじめてくまは我を取り戻したように、体から力が抜けて、ふきに体をあずけるようぐにゃりと力が抜けた。

 長屋にいた者は残らずやってきた。大家も来て、番太郎までちらと顔を見せた。たいへんな騒ぎとなって、事をおさめようとする大家は、いったいなにがはじまりで、こんな大騒ぎになったのかと聞き出そうとする。

 しかし、くまは、私の屁が馬鹿にされたからだとはいいだせない。

「この男が、この男が」、とだけ繰り返している。

 そのうち、はっとしたようにあたりを見回した。

 るいを見つけ出した。母親が大人達にとりかこまれ、なにか尋問でも受けている様子を見かけると、心配そうに見守っていた。

 くまは、わかっているな、余計なことをすればただでは住まないぞという、厳しい目つきをして、言葉にならない言葉を送った。

 さて男のほうも、くまが屁のことを言い出さないのがわかると、「いや、はなはだ面白しものを耳にしましたからな、いや、こんな感じの音がですなあ、二発も……」とは、さすがに言い出せず、秘密をまもる共犯者の表情のまま押し黙っている。

 ものわかりのいい大家は、疵を負った男の側がくまを責める様子がいっかにないのをみて、喧嘩の原因やら、どちらが悪いかを裁定したところて役には立たないと考えたのだろう。普段から小使いのようにつかっている長屋住みの吉蔵にめくばせした。

 さっと大家の元にいった吉造は、こしょこしょと耳打ちされると、「まかせておくんなせえ」と消えたが、しばらくすると何かをぶら下げて帰ってきた。

「源左衛門」と大家の名前が釘書きされた、大ぶりの通い徳利である。それを見ただけで、喧嘩の仲裁に集まっていた長屋の者たちのあいだに、ちょっと浮かれた空気がうまれた。強ばっていたくまの態度も緩んだのは、日頃のくまの酒好きを知っている大家の予想したとおりだった。

 中身はまだ満々と入っているのだろう、吉蔵はがらになく慎重な手つきで、二つの湯飲みに酒をついだ。酒の香がすると、ますます場の空気はさきほどのとげとげしたものからうってかわった。

 集まって来た者みなにまで一献が注がれた。大家がとどめなければ、勝手な宴会が始まってしまいかねなかった。

「では、これをもって、二人の手打ちの儀といたします。集まってもらった皆さんがその請人です」

 そうして、みながぐっと一気に盃をあけて、それから一本締めをした。そこから、もう一杯だけ大家からの振るまいがあったが、まだ昼下がりでみなに家に戻ってやることをやりなさいと暇を告げて、お開きとなった。

 くまの一家とまったく同じ間取りの男の部屋に、二人が残るだけとなった。長屋のみなをまきこんだ騒ぎが終わってみると、くまは妙な静けさの中に置き去りにされたような気分になった。

 赤子の泣き声、姉弟の口げんか、叱り声、振り売りとの掛け合い、読経や謡い、夫婦喧嘩、なまめかしい女房の声。

 賑やかとも言える人様の音、これを気にせず耳をすり抜けさせる。そうやってこそ、ここに暮らすと言うことなのだ。だからこそくは、男の笑い声に見境がつかくなくなった。だが、うっかり人殺しにも成りかねないほどのはげしい心の動きがなくなってみると、くまにはこの静けさが寂しいとすら思えてくる。

 男のほうも、刀で疵まで負わされたのに、もうそれに含むとところがない様子にみえて、このまま部屋に帰る気になれず、くまは思わず言ってしまった。

「ちょいと、あたし、もうちょっと飲みたいんだけどさあ」

 るいが待っているだろうのも、すっかり忘れていた。

 男の反応に迷うところはみられなかった。さっと立って、土間に置かれた水瓶のところにいくと、なかに吊していた徳利を引き上げた。嫌いな口でないのをくまは当然知っていた。

「すまんことをした」

 男のこの言葉で、くまは恥ずかしくもなった。

「飲もう、飲もう、飲み足りないよ、あんなんじゃあ、二人で飲もう」

 そこから二人は、半升ほどを、さしつさされつ酌み交わす。

 秋の昼下がりの光はようやく長屋にも射し込んできて、酔いがからだのすみずみにまで行き渡るようで、緊張と諍いではりつめたものが、今度は小唄になって口をついた。

 ああ、この人のとなり住んでよかったなあ。酔いのせいで、無性に愉快になったくまは、そんなことまで思ったりしている。
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