江戸の夕映え

大麦 ふみ

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寝間に忍び込まれる茶の間女の話──『我衣』より

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 墨田川の東岸、本所(いまの墨田区本所)は、五代将軍綱吉の御代より、百五十ほどの旗本屋敷がずらりとならぶ武家地となっていた。

 その地に拝領を受けたのは、半分が禄高千石を越えるいわゆる大身旗本で、屋敷地は千坪、ときには二千坪にもなんなんとした。残りの半分も五百石を上回るものがほとんどであった。

 さて、このお話は六百石取り、本所ではありふれた禄高だが、それでも屋敷の広さは三百坪におよび、家臣が上下十一人、奥女中七人を抱える御家を舞台とする。そこで茶の間女(腰元と下女の中間にあたる女中)として奉公する二十歳の娘にふりかかった珍事を伝える。御家の名前が明かされていないのは、当時の人にも一概には信じられないような話であったからかもしれない。

 文政二(1819)年の新春、その御屋敷に茶の間女の母が礼物をたずさえ尋ねてきた。娘のすずが昨年から世話になっている御礼もかねて、年始の挨拶に伺ったのである。

 すずは貧乏御家人の次女で、苦しい家計の事情でこの御家に勤めることとなった。富裕な町人・百姓の娘のように、武家の格式高い作法、しきたりを身につけさせようと、給金の多寡にかまいなく奉公にあがったわけではない。貧たりとも幼少より武家の子女として厳しく躾けられ、諸事に一応の嗜みはありはした。ただ、家格の高い御家に出入りすれば、すこしでも良い縁談ににつながりはしないかという期待があったのは、町人・百姓たちとかわるところがなかった。

 玄関で掃除をしていた下女に用向きを伝えると、その小娘は中に姿を消して、次にでてきたのは、奥様ではなく、おとな(奥女中の頭)の吉弥だった。年始の挨拶だけに、奉公が決まって一度お会いして以来また奥様の尊顔をおがめるのでは、と期待していた母は少し残念な気持ちとなった。茶の間女の母と軽んじられたと悔しかったのではない。うまれてこのかた、あれ以上に美しい顔を持つ女にあったことがなく、女同士ながらにもういちどじっくりとあのすさまじい美貌をながめてみたいものだと期待していたのである。

 吉弥は武家の女らしいキビキビとした挙措の中年増(娘盛りを過ぎてやや年をとった女性)で、奥様は体調がすぐれないからと言って、代理で挨拶を交わし礼物を受け取った。そうして、当家からもお渡しするものを用意するので、そのあいだすずと会うのがよろしかろうと、さきほどの下女に案内をするよういいつけた。

 吉弥が前もって知らせてくれていたのだろう。すずは茶の間で湯を沸かしていた。久し振りに会うすずは、他人の家で働く苦労でやつれているのではという心配を裏切るように、前とかわりなく、いえむしろごくごくわずかたが体つきが丸くなったようにさえ、母には見えて安心の吐息を漏らした。だが、挨拶の口上をのべる顔つきに憂いが含まれているのに気づいた。

 そうして二人でお茶を飲み、分かれて暮らしてからの互いのことを語り合ってい知るうちに、腰元がやってきて、そのうち侍(御家の陪臣)もそこに姿をみせた。母もすずも、そのたびに日頃の世話と年始の挨拶を繰り返し、吉弥からここで待つよういわれたことを口上した。微禄のすずの家ではあり得ないことだが、旗本の屋敷にある茶の間というのは、家のさまざまな使用人、そして当主家族も出入りする、家内の社交の一画なのだった。

 そうやって次々と人がやってくるので、親子の会話は途切れ途切れとなったが、数ヶ月のつとめで御家の事情に通じてたすずの話で、奥様の人となりの端っこは飲み込めた気がした。

 とかくからだが弱いということで、奥向きの一切を使用人任せにしているらしい。何千石の大身ならともかく、この規模の御家では奥様は家向きの取り纏めが求められ、先頭に立って家政を取り仕切るのが普通だ。なのに日がな一日、猫の相手をしたり、浮世草子などを読んで隠居女のようにすごしているらしい。家中では、社交の席であまりに美しい容貌をふいに曝して、雲間が晴れた瞬間の夏の太陽がうっかり直視した者を目くらませるように、客達を恐れ入らせるより他の役割がないという。弱いのは体ではなく心、およそいっさいのことにやる気をもたない意欲の薄い人、すずは遠回しにそう匂わせるのだった。

 下女がまた二人を呼びにやってきて吉弥のところに案内しようとしたが、すずは下女にそれは不要だからと元の仕事にもどらせた。すずは勝手知ったる屋敷のなかをしずしずと歩きだしたが、ふとあたりをきょろきょろと見回し、裏門へ続く道からそれて、人目につきにくい植え込みの陰に母を連れてきた。

「母上がここに来られる日を心待ちにしてりました。……おりいっての密かごと(秘密)がございます」

 とすずが思いつめた表情で切り出した。

 ──まさか、もう止めたいと言い出す気かしら。

 と母は咄嗟に思いついた。

 不満、文句を垂れ流しにするような娘ではない。とはいえ、芯が強くて、辛いことでも、じぶんなりに飲み込んで乗り越えていくというわけでもいない。とにかく従順で、流れに身をまかせてしまうようなところがある。これまで外に出しても恥ずかしくないよう鍛えてきたつものだったが、やはり本当に人様の家に奉公するのはたやすいことでない。

 だが、すずの話し出したのは、母の想像を超えるものだった。

「わたくし、若殿様に見初められたのです」

 そういって顔を真っ赤にして、瞳を潤ませている。

 そこまでなら、まだ母も落ちついて話を聞こうという気にもなっただろう。だが、すずは続けて言った。

「秘密でございますよ、若様のお子が私のお腹に……」

 母は絶句するよりなかった。

 ──まさか、うちのすずが……。

 不義、密通。それはあってはならないこと。ただあってはならないが、ままあることとすずの母は知っていた。町人、百姓達のあいだでは、それはもう銭金で解決するだけのありふれた厄介ごとになっているとも聞く。武家のばあい、恥の意識は下々のものより強く、そこまであけすけに不義、密通が表沙汰とはならない。それでも、しかるべき家の新造が突然実家に帰され、よくよく聞くとその以前に家中の小者、男振りのいい若党が抱えを放たれているといったことは、ときどきは耳にするのだ。武家の女は世界がせまく、起こるとすれば家中の男との色事になってしまいがちだった。

 とはいえ、母にはすずの打明は、まったくの不意打ちで、青天の霹靂といった大げさな言い方がぴたりと当てはまる気がした。

 ──よりによって、うちのすずに。しかも、女に飢えた下郎どもではなく、こんなりっぱな御家の若殿に……。そんなこと……、あるのか……。

 湧き上がる疑問の内声を押し殺して、まずは娘を落ちつかせようとする。

「そんなことは、世の中でまったくないことではありません。わたしがなんとかしてあげます。それが母親のつとめです。くよくよ思い悩んで板つく(病気になる)ようなことがあってはなりませんよ」

 母親のその言葉ですずはにっこりと破顔した。そう元々深く思い悩むような質でもこの子はないのだ。母は急かして、吉弥の待つ部屋へとすずに案内させた。

 ──あのしっかり者にみえたおとなに頼むするよりほかはない。

 母はそう考えていたのだった。
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