35 / 63
寝間に忍び込まれる茶の間女の話──『我衣』より
1
しおりを挟む
墨田川の東岸、本所(いまの墨田区本所)は、五代将軍綱吉の御代より、百五十ほどの旗本屋敷がずらりとならぶ武家地となっていた。
その地に拝領を受けたのは、半分が禄高千石を越えるいわゆる大身旗本で、屋敷地は千坪、ときには二千坪にも垂んとした。残りの半分も五百石を上回るものがほとんどであった。
さて、このお話は六百石取り、本所ではありふれた禄高だが、それでも屋敷の広さは三百坪におよび、家臣が上下十一人、奥女中七人を抱える御家を舞台とする。そこで茶の間女(腰元と下女の中間にあたる女中)として奉公する二十歳の娘にふりかかった珍事を伝える。御家の名前が明かされていないのは、当時の人にも一概には信じられないような話であったからかもしれない。
文政二(1819)年の新春、その御屋敷に茶の間女の母が礼物をたずさえ尋ねてきた。娘のすずが昨年から世話になっている御礼もかねて、年始の挨拶に伺ったのである。
すずは貧乏御家人の次女で、苦しい家計の事情でこの御家に勤めることとなった。富裕な町人・百姓の娘のように、武家の格式高い作法、しきたりを身につけさせようと、給金の多寡にかまいなく奉公にあがったわけではない。貧たりとも幼少より武家の子女として厳しく躾けられ、諸事に一応の嗜みはありはした。ただ、家格の高い御家に出入りすれば、すこしでも良い縁談ににつながりはしないかという期待があったのは、町人・百姓たちとかわるところがなかった。
玄関で掃除をしていた下女に用向きを伝えると、その小娘は中に姿を消して、次にでてきたのは、奥様ではなく、おとな(奥女中の頭)の吉弥だった。年始の挨拶だけに、奉公が決まって一度お会いして以来また奥様の尊顔をおがめるのでは、と期待していた母は少し残念な気持ちとなった。茶の間女の母と軽んじられたと悔しかったのではない。うまれてこのかた、あれ以上に美しい顔を持つ女にあったことがなく、女同士ながらにもういちどじっくりとあのすさまじい美貌をながめてみたいものだと期待していたのである。
吉弥は武家の女らしいキビキビとした挙措の中年増(娘盛りを過ぎてやや年をとった女性)で、奥様は体調がすぐれないからと言って、代理で挨拶を交わし礼物を受け取った。そうして、当家からもお渡しするものを用意するので、そのあいだすずと会うのがよろしかろうと、さきほどの下女に案内をするよういいつけた。
吉弥が前もって知らせてくれていたのだろう。すずは茶の間で湯を沸かしていた。久し振りに会うすずは、他人の家で働く苦労でやつれているのではという心配を裏切るように、前とかわりなく、いえむしろごくごくわずかたが体つきが丸くなったようにさえ、母には見えて安心の吐息を漏らした。だが、挨拶の口上をのべる顔つきに憂いが含まれているのに気づいた。
そうして二人でお茶を飲み、分かれて暮らしてからの互いのことを語り合ってい知るうちに、腰元がやってきて、そのうち侍(御家の陪臣)もそこに姿をみせた。母もすずも、そのたびに日頃の世話と年始の挨拶を繰り返し、吉弥からここで待つよういわれたことを口上した。微禄のすずの家ではあり得ないことだが、旗本の屋敷にある茶の間というのは、家のさまざまな使用人、そして当主家族も出入りする、家内の社交の一画なのだった。
そうやって次々と人がやってくるので、親子の会話は途切れ途切れとなったが、数ヶ月のつとめで御家の事情に通じてたすずの話で、奥様の人となりの端っこは飲み込めた気がした。
とかくからだが弱いということで、奥向きの一切を使用人任せにしているらしい。何千石の大身ならともかく、この規模の御家では奥様は家向きの取り纏めが求められ、先頭に立って家政を取り仕切るのが普通だ。なのに日がな一日、猫の相手をしたり、浮世草子などを読んで隠居女のようにすごしているらしい。家中では、社交の席であまりに美しい容貌をふいに曝して、雲間が晴れた瞬間の夏の太陽がうっかり直視した者を目くらませるように、客達を恐れ入らせるより他の役割がないという。弱いのは体ではなく心、およそいっさいのことにやる気をもたない意欲の薄い人、すずは遠回しにそう匂わせるのだった。
下女がまた二人を呼びにやってきて吉弥のところに案内しようとしたが、すずは下女にそれは不要だからと元の仕事にもどらせた。すずは勝手知ったる屋敷のなかをしずしずと歩きだしたが、ふとあたりをきょろきょろと見回し、裏門へ続く道からそれて、人目につきにくい植え込みの陰に母を連れてきた。
「母上がここに来られる日を心待ちにしてりました。……おりいっての密かごと(秘密)がございます」
とすずが思いつめた表情で切り出した。
──まさか、もう止めたいと言い出す気かしら。
と母は咄嗟に思いついた。
不満、文句を垂れ流しにするような娘ではない。とはいえ、芯が強くて、辛いことでも、じぶんなりに飲み込んで乗り越えていくというわけでもいない。とにかく従順で、流れに身をまかせてしまうようなところがある。これまで外に出しても恥ずかしくないよう鍛えてきたつものだったが、やはり本当に人様の家に奉公するのはたやすいことでない。
だが、すずの話し出したのは、母の想像を超えるものだった。
「わたくし、若殿様に見初められたのです」
そういって顔を真っ赤にして、瞳を潤ませている。
そこまでなら、まだ母も落ちついて話を聞こうという気にもなっただろう。だが、すずは続けて言った。
「秘密でございますよ、若様のお子が私のお腹に……」
母は絶句するよりなかった。
──まさか、うちのすずが……。
不義、密通。それはあってはならないこと。ただあってはならないが、ままあることとすずの母は知っていた。町人、百姓達のあいだでは、それはもう銭金で解決するだけのありふれた厄介ごとになっているとも聞く。武家のばあい、恥の意識は下々のものより強く、そこまであけすけに不義、密通が表沙汰とはならない。それでも、しかるべき家の新造が突然実家に帰され、よくよく聞くとその以前に家中の小者、男振りのいい若党が抱えを放たれているといったことは、ときどきは耳にするのだ。武家の女は世界がせまく、起こるとすれば家中の男との色事になってしまいがちだった。
とはいえ、母にはすずの打明は、まったくの不意打ちで、青天の霹靂といった大げさな言い方がぴたりと当てはまる気がした。
──よりによって、うちのすずに。しかも、女に飢えた下郎どもではなく、こんなりっぱな御家の若殿に……。そんなこと……、あるのか……。
湧き上がる疑問の内声を押し殺して、まずは娘を落ちつかせようとする。
「そんなことは、世の中でまったくないことではありません。わたしがなんとかしてあげます。それが母親のつとめです。くよくよ思い悩んで板つく(病気になる)ようなことがあってはなりませんよ」
母親のその言葉ですずはにっこりと破顔した。そう元々深く思い悩むような質でもこの子はないのだ。母は急かして、吉弥の待つ部屋へとすずに案内させた。
──あのしっかり者にみえたおとなに頼むするよりほかはない。
母はそう考えていたのだった。
その地に拝領を受けたのは、半分が禄高千石を越えるいわゆる大身旗本で、屋敷地は千坪、ときには二千坪にも垂んとした。残りの半分も五百石を上回るものがほとんどであった。
さて、このお話は六百石取り、本所ではありふれた禄高だが、それでも屋敷の広さは三百坪におよび、家臣が上下十一人、奥女中七人を抱える御家を舞台とする。そこで茶の間女(腰元と下女の中間にあたる女中)として奉公する二十歳の娘にふりかかった珍事を伝える。御家の名前が明かされていないのは、当時の人にも一概には信じられないような話であったからかもしれない。
文政二(1819)年の新春、その御屋敷に茶の間女の母が礼物をたずさえ尋ねてきた。娘のすずが昨年から世話になっている御礼もかねて、年始の挨拶に伺ったのである。
すずは貧乏御家人の次女で、苦しい家計の事情でこの御家に勤めることとなった。富裕な町人・百姓の娘のように、武家の格式高い作法、しきたりを身につけさせようと、給金の多寡にかまいなく奉公にあがったわけではない。貧たりとも幼少より武家の子女として厳しく躾けられ、諸事に一応の嗜みはありはした。ただ、家格の高い御家に出入りすれば、すこしでも良い縁談ににつながりはしないかという期待があったのは、町人・百姓たちとかわるところがなかった。
玄関で掃除をしていた下女に用向きを伝えると、その小娘は中に姿を消して、次にでてきたのは、奥様ではなく、おとな(奥女中の頭)の吉弥だった。年始の挨拶だけに、奉公が決まって一度お会いして以来また奥様の尊顔をおがめるのでは、と期待していた母は少し残念な気持ちとなった。茶の間女の母と軽んじられたと悔しかったのではない。うまれてこのかた、あれ以上に美しい顔を持つ女にあったことがなく、女同士ながらにもういちどじっくりとあのすさまじい美貌をながめてみたいものだと期待していたのである。
吉弥は武家の女らしいキビキビとした挙措の中年増(娘盛りを過ぎてやや年をとった女性)で、奥様は体調がすぐれないからと言って、代理で挨拶を交わし礼物を受け取った。そうして、当家からもお渡しするものを用意するので、そのあいだすずと会うのがよろしかろうと、さきほどの下女に案内をするよういいつけた。
吉弥が前もって知らせてくれていたのだろう。すずは茶の間で湯を沸かしていた。久し振りに会うすずは、他人の家で働く苦労でやつれているのではという心配を裏切るように、前とかわりなく、いえむしろごくごくわずかたが体つきが丸くなったようにさえ、母には見えて安心の吐息を漏らした。だが、挨拶の口上をのべる顔つきに憂いが含まれているのに気づいた。
そうして二人でお茶を飲み、分かれて暮らしてからの互いのことを語り合ってい知るうちに、腰元がやってきて、そのうち侍(御家の陪臣)もそこに姿をみせた。母もすずも、そのたびに日頃の世話と年始の挨拶を繰り返し、吉弥からここで待つよういわれたことを口上した。微禄のすずの家ではあり得ないことだが、旗本の屋敷にある茶の間というのは、家のさまざまな使用人、そして当主家族も出入りする、家内の社交の一画なのだった。
そうやって次々と人がやってくるので、親子の会話は途切れ途切れとなったが、数ヶ月のつとめで御家の事情に通じてたすずの話で、奥様の人となりの端っこは飲み込めた気がした。
とかくからだが弱いということで、奥向きの一切を使用人任せにしているらしい。何千石の大身ならともかく、この規模の御家では奥様は家向きの取り纏めが求められ、先頭に立って家政を取り仕切るのが普通だ。なのに日がな一日、猫の相手をしたり、浮世草子などを読んで隠居女のようにすごしているらしい。家中では、社交の席であまりに美しい容貌をふいに曝して、雲間が晴れた瞬間の夏の太陽がうっかり直視した者を目くらませるように、客達を恐れ入らせるより他の役割がないという。弱いのは体ではなく心、およそいっさいのことにやる気をもたない意欲の薄い人、すずは遠回しにそう匂わせるのだった。
下女がまた二人を呼びにやってきて吉弥のところに案内しようとしたが、すずは下女にそれは不要だからと元の仕事にもどらせた。すずは勝手知ったる屋敷のなかをしずしずと歩きだしたが、ふとあたりをきょろきょろと見回し、裏門へ続く道からそれて、人目につきにくい植え込みの陰に母を連れてきた。
「母上がここに来られる日を心待ちにしてりました。……おりいっての密かごと(秘密)がございます」
とすずが思いつめた表情で切り出した。
──まさか、もう止めたいと言い出す気かしら。
と母は咄嗟に思いついた。
不満、文句を垂れ流しにするような娘ではない。とはいえ、芯が強くて、辛いことでも、じぶんなりに飲み込んで乗り越えていくというわけでもいない。とにかく従順で、流れに身をまかせてしまうようなところがある。これまで外に出しても恥ずかしくないよう鍛えてきたつものだったが、やはり本当に人様の家に奉公するのはたやすいことでない。
だが、すずの話し出したのは、母の想像を超えるものだった。
「わたくし、若殿様に見初められたのです」
そういって顔を真っ赤にして、瞳を潤ませている。
そこまでなら、まだ母も落ちついて話を聞こうという気にもなっただろう。だが、すずは続けて言った。
「秘密でございますよ、若様のお子が私のお腹に……」
母は絶句するよりなかった。
──まさか、うちのすずが……。
不義、密通。それはあってはならないこと。ただあってはならないが、ままあることとすずの母は知っていた。町人、百姓達のあいだでは、それはもう銭金で解決するだけのありふれた厄介ごとになっているとも聞く。武家のばあい、恥の意識は下々のものより強く、そこまであけすけに不義、密通が表沙汰とはならない。それでも、しかるべき家の新造が突然実家に帰され、よくよく聞くとその以前に家中の小者、男振りのいい若党が抱えを放たれているといったことは、ときどきは耳にするのだ。武家の女は世界がせまく、起こるとすれば家中の男との色事になってしまいがちだった。
とはいえ、母にはすずの打明は、まったくの不意打ちで、青天の霹靂といった大げさな言い方がぴたりと当てはまる気がした。
──よりによって、うちのすずに。しかも、女に飢えた下郎どもではなく、こんなりっぱな御家の若殿に……。そんなこと……、あるのか……。
湧き上がる疑問の内声を押し殺して、まずは娘を落ちつかせようとする。
「そんなことは、世の中でまったくないことではありません。わたしがなんとかしてあげます。それが母親のつとめです。くよくよ思い悩んで板つく(病気になる)ようなことがあってはなりませんよ」
母親のその言葉ですずはにっこりと破顔した。そう元々深く思い悩むような質でもこの子はないのだ。母は急かして、吉弥の待つ部屋へとすずに案内させた。
──あのしっかり者にみえたおとなに頼むするよりほかはない。
母はそう考えていたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる