江戸の夕映え

大麦 ふみ

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北町奉行所でひとを殺める百姓の話──『街談文文集要』より

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 そこで陽光を金左衛門は見た。外へ、この未知の恐ろしい囲い地の外へでなければならない。自裁という考えは消え果てていた。まだどこかで泣き叫ぶ子供の声がしている。

 また辻に立って、元来た方にふり返ると、井戸が建物の真ん前にあった。とつぜん激しい喉の渇きを自覚した金左衛門は、走り寄って、釣瓶を落とした。それを引上げ、冷たい水をむさぼっていると、ふと建物のうちに土間が見えた。

 その建物は、奥玄関から走り抜けた時の左翼の棟、ここはその北端だと、全体像が思い浮かんだ。広大な奉行所の大まかな見取り図が描けるほどに、金左衛門は落ち着きを取り戻していた。

 金左衛門は土間に歩を進めて、ふたたび奉行所の内へと侵入した。表門から離れるが、与力、同心、門番とも遠ざかるよう思われたのである。いくつも竈が並んでいるのを見つけた。裏口がきっと、この近くにある。そう直感した。おそらく、ここらは奉行の食事や、家向きの仕事のための一画だろう。ならば、米だの、炭だのを運んでくる、低い身分のものの出入口があるはずだ。それこそが自分にふさわしい出口だ。

 台所は近くにはそこで働く女たちの居室がずらりと並んでいた。狼藉者が奉行所を自在に歩き回り、乱心を尽くしている知らせはすでに届いていた。仕事を止めて女たちは部屋へと戻り、障子戸を閉ざして、事が収束するのを祈っていた。そのうちの一人が、ここより物置の方が安全だといいだして、同室のものの止めるを聞かずに廊下に出た。折悪しく、それは金左衛門が回廊のごとく坪庭にそった廊下を奥玄関を捜して彷徨してるところに出会った。

 女は見合った瞬間に転ぶように全身を投地して、強く胸をうった。しかし刃の回旋から身を躱すことができた。その無防備となった背中にとどめの一撃はくだされなかった。奉行の家族の居室警護にいた同心早川鉄太郎が、騒ぎを聞きつけ、そこに駆け付けたからである。金左衛門は、この時はじめて抜刀する武家と真正面から対峙することとなった。金左衛門は頭に血が昇った状態が続いていたが、これまでかとばかりにも存分に人をきっていた。はじめて人に刀を向ける早川より、遥かに得物を振るうことに馴染んでおり、それになんの躊躇するところもなかった。先に斬り掛けた金左衛門の太刀を早川は受け損ね、肩先から七寸の瑕を負って膝を折った。

 女たちの悲鳴、助けを求める声が、館内の者にに金左衛門の居所を伝えた。さまざまな方角から、ばたばたと廊下を駆ける音がした。もう訳も分からず人の気配のない方向に走り出した。すると見覚えのある廊下に出た。内玄関は、玄関から続く公務の棟と、奉行の奥向きのための棟とのつなぎ目に位置していた。このとき金左衛門は、最初に内玄関へと彼を導いた廊下を、逆の方向から辿っていたのである。

 こうして元の地点に戻ってきた金左衛門は、奥玄関を一顧だにせず通りすぎた。廊下のまっすぐ先に見える継ぎの間から、正門へと続く前庭が望まれたからである。その視界になんらの動くものもみあたらなかったことも、この大胆な選択を後押しした。

 継の間から張り出した縁側から、飛び降りようとして、金左衛門は横殴りの突風にあおられたがごとく、よろけて着地した。あやうく取り落としかけた脇差を杖にして、体勢を取り戻そうとした。が思うにまかせない。金左衛門はなにかが背中から自分を拘束しているのだとようやく理解した。空に浮いている無防備の隙を見逃さず、組み付いた者がいたのだ。

 金左衛門の腰をぐるりと巻く二本の腕は、いよいよ引き絞られながら、彼の下半身を後方に引き寄せる。一方、見えない襲撃者の肩、胸、そして顔までが、金左衛門の上半身を前方に向かって押し出してきた。力を余すことなく伝えるため、二人の上体は張り合わされたように透き間なく密着した。

 金左衛門は体をよじって逃れようとしつつ、刀を天に向かって突き上げ、背中の敵に瑕を与えようと肩越しに肘を折って、手応えを捜した。幾つかの打撃に成功した感触があったが、致命的なものを与えるより前に、金左衛門の膝は滑りだそうとする足底を押さえ切れなくなった。前のめりに地面に倒れていくあいだ金左衛門は、力のひしめきから脱した開放感を瞬刻味わって、そうして地に落ちた。

 玄関際の前庭で下男の佐助が金左衛門を取り押さえたのを見て、遠巻きにうかがっていたいた二本差しがどっと押し寄せた。同心藤田幸太郞は、いまだ脇差を握りしめている金左衛門の拳を、飛び上がるようにして踵で踏みしめ、ゆるんだところで奪いとった。大勢が決したと見えてから、多くのものが棒やさまざまなもので、犬ころを撲つかのように、めったうちにした。ついに抵抗の意欲を失った金左衛門は、横臥のまま縄目に掛けられ、彼を突き動かしていた思念の奔流もいっしょに止んだ。

 一件の始末は、南町奉行根岸肥前守鎮衛がつけた。金左衛門には獄門か申しつけられ、脇差を放置して席を離れた芥川は扶持を放たれた。ほかに当番であった与力、同心らへの押込の処罰だけでなく、身代わりの出頭を頼んだ百姓、金左衛門を残し帰村した組頭も手鎖が課された。船宿利兵衛に下された罰は三貫文という罰金にすぎなかった。

 下番が取り押さえるまで、百姓ひとりに蹂躙を許した町奉行所の無様さは狂歌となるほど嘲られ、多くの随筆に跡をのこした。しかし、根岸の『耳囊』は、この一件について触れていない。
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