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第5話 変化(冬真)
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酒が入った叶芽は素直だった。
本人はネガティブであることを気にしていると、酔った時に教えてくれたが、冬真からすれば、どんな叶芽も叶芽に違いなかった。
確かに普段は何も言わない叶芽が愚痴をこれでもかと吐き出した時は、驚いたこともあったが、内心をぶつけてくれることは、むしろ良い傾向だと思った。
自分の知らないところで吐き出されるよりはずっと良い。たとえ自分の知る誰かだったとしても、叶芽を独占されるくらいなら、自分が愚痴の捌け口になりたいとさえ思った。
そんな風に叶芽の独占権を手に入れた冬真だが。一緒に呑むようになってからというもの、決まってやることがあった。
それは、甘やかな罪だった。
「……今日も反則してごめん」
愚痴をひと通り聞き終えた冬真は、今日も深夜を過ぎると、叶芽をソファに押し倒した。
ほとんど眠っている叶芽に、唇を重ねると、叶芽はウトウトしながらも応えてくれた。
酒を飲んだ翌日には叶芽が何も覚えていないと知って、冬真はキスを繰り返すようになっていた。
叶芽の唇はまるで綿菓子のように甘く、堪えきれずに貪りたい気持ちに駆られるもの、そんな衝動を懸命に堪えて、ゆっくりと離れた。
叶芽はまだ、眠っている。いっそ全部食らってしまえばいいのに——なんて、悪魔のような囁きが冬真の耳元を掠める。
だが、寝言で冬真の名を呼ぶ無邪気な顔を見ていると、僅かな理性が冬真を押しとどめた。
触れるだけでは物足りない——そう思いながらも、臆病な冬真はキス以外のことをする勇気がなった。
それからも、冬真の悪戯は続いた。
ある日は叶芽を膝に乗せて口づけを交わし、ある時は壁に追い詰めたりもした。それでもギリギリのところで、理性を保ちながら叶芽と唇を重ねた。
「……叶芽、好きだよ」
「おれもとうま、すき」
いつものようにソファに身を埋めながら、赤ら顔でくにゃりと笑う叶芽に、冬真はもうどうしようもなく苦しくなる。
たとえそれが酔った上での言葉だったとしても、好きと言われると天にも昇る気持ちになった。
だが口づけを重ねるほど、冬真自身が壊れていく感覚もあった。
悪いことをしている自覚はあるが、もう後戻りはできない。ここまで触れてしまうと、逆に触れない日が辛かった。
だがこのままではいけないこともわかっていた。
これがもし叶芽にバレたら、どんな風に思われるだろう、そんな心配をしながらも、甘い口づけを繰り返した。もはや中毒症状だ。
やめないといけないのに、やめることができない。そして親友を騙している心の痛みに耐えきれず。叶芽に触れるだけ触れた冬真は、必ず強い酒を飲んだ。
いっそ自分も記憶がなくなれば、罪悪感で怯えることもないだろう。
そんな風に現実逃避したところで、冬真が記憶をなくすこともなかった。
そして酔った叶芽に触れる行為は、三ヶ月続いた。
***
「あーあ、そろそろ卒論に就活か……めんどくさっ!」
講義室で叶芽は資料の束を机に叩きつける。
(今日は叶芽に触れられる日だ)
そんなことばかり考えてぼんやりしていた冬真も卒論と聞いて現実に引き戻される。さすがに卒業できなかったら、洒落にならないだろう。冬真は、焦ったようにスマホを開くと、メモを確認する。資料は揃えたもの、要点をまとめて放置したままだった。
「卒論、俺も進んでない」
「しかもゼミの教授があの教授なんだよね」
「あの教授って……叶芽にセクハラまがいなことをした、あの教授?」
「そうなんだよ。人気のゼミだから、うっかり入っちゃったけど、卒論は落とせないし……って、あれ? 教授のこと言ったっけ?」
「酔っぱらいの叶芽から聞いたよ」
「教授にセクハラされるとか、俺かっこ悪いよな……」
「叶芽が可愛いから仕方ないよ」
「はあ?」
驚いて見開く叶芽に、冬真はしまったと口を押さえる。
(やっぱり、友達に可愛いって言うのはおかしいよな)
つい、酒を飲んだ時の癖が出てしまった。酒で叶芽の意識が飛んでいる時は、何度も愛のように可愛いと囁く冬真だが、さすがにシラフの叶芽は複雑な顔をしていた。
「……ごめん叶芽、変なこと言って」
「別にいいけど……可愛いとか初めて言われた」
知らぬは本人ばかりだった。
***
「次は何飲む?」
「じゃ、ハイボール」
その日はいっそう寒い日だった。
授業日程を終えた後、いつもは居酒屋を数軒はしごする冬真と叶芽だが。その日は最初から冬真の自宅で飲んでいた。
「食べたいものがあれば、デリバリー頼むけど」
冬真が宅配ピザのチラシを眺めていると、叶芽はまるで自分の家のようにソファを占領して告げる。
「いいよ。コンビニで買った冷凍のつまみがあるから」
「そんなもので腹ふくれる?」
「オニギリもあるし──それより聞いてくれよ」
すでに出来上がっている叶芽は、冬真に懇願するような視線を向ける。
すると冬真も苦笑しつつ、ビールを手に叶芽の隣に座った。
相変わらず、弾丸のように愚痴を言う叶芽は、活き活きとしていたが、冬真の方はというと、どこか落ち着かない様子だった。
それから二時間ほど他愛ない愚痴が続いて、深夜を回った頃。冬真は時計に視線をやる。そろそろ頃合いだと、喉を鳴らした。
だが、そんな冬真の変化に気づかない叶芽は、相変わらず愚痴が止まらず。自分のことばかり話していた。
「——でさ、あの子が冬真狙いなのは知ってたけど、俺に対しては異常に冷たくてさ。頭にきたから、もう冬真との仲介はしないって言ったら泣いてやんの。けどあの子が泣いてるのを見て、女の子たちが寄ってきてさ……ひどいだのなんのって面倒くさいことを言い始めて……」
深酒が進み、叶芽の目が眠そうに瞬くのを見て、冬真がビールをテーブルに置いた。我慢の限界だった。愚痴を聞くのが辛いわけじゃない。近くにいるのに触れられないのが、辛いのだ。だから冬真は、行動を起こした。
「……ねぇ、叶芽」
体を寄せて、叶芽が持つビールを取り上げる冬真。
「ちょっと聞いてる? 冬真」
愚痴を中断され、おかんむりな叶芽に顔を寄せると、叶芽は驚いた顔をしていた。そして息がかかるほど近くに寄りながら告げる。
「目を閉じて」
すでに悪いことをしている感覚すら薄れている冬真は、当然のように待っていた。
そして叶芽の方は何も考えていない様子で、素直に目を閉じる。
無防備な叶芽の顔を両手で捕まえて、冬真がゆっくりと唇を味わい始めると──叶芽は大人しくされるがままに脱力していった。
だが、その日はいつもと同じようで、何かが違っていた。
(今日はなんだか叶芽の唇が震えているような……)
叶芽の強張った体に気づいていながらも、冬真は触れるだけ触れると、珍しく先に眠ってしまった。
***
「──起きて、冬真」
「……ん、なんだ?」
いつものように叶芽に触れた翌日。起きて最初に目に入ったのは、昨日と同じトレーナーにパンツ姿の叶芽だった。
どうやらリビングソファで眠っていたらしい。いつの間にか、膝掛けを布団にして横になっていた。
だがそれよりも、寝起きに見た叶芽の姿に釘付けになる。
相変わらず広い襟からのぞく肩は無防備で、触ってくださいとばかりに見せつけられているような気さえした。冬真は叶芽に触れすぎて、自分の感覚が麻痺していることに気づき、ため息を吐く。
「……昨日は二人ともソファで寝たのか?」
「あ、ああ。冬真が気持ちよさそうに眠ってるのを邪魔したくなかったから」
「ごめん」
「俺はソファでじゅうぶんだよ」
「そうだ、スムージー作るから待ってて」
冬真がキッチンに入ろうとすると、叶芽は慌てたように言った。
「今日はいいよ。コンビニで何か買って帰るから」
「え? 叶芽、こんな早い時間に……もう帰るの?」
「う、うん。卒論やりたいし」
なぜか目を合わさない叶芽を見て、冬真は怪訝な顔をするもの、理由を聞く前に、叶芽はそそくさと帰ってしまった。
それから冬真と叶芽は卒論と就活の準備でお互い忙しい日々を過ごしていた。あんなに呑んだ酒も、嘘のように呑まなくなり、現実に畳み掛けられる日々が増え、顔を合わせることすら難しくなった。
専攻が違うというのは、辛いものである。冬真は叶芽に触れたいと思いながらも、酒の力がなければ触れられないことが切なかった。
今となっては、叶芽の愚痴すら恋しくなる。
そして、ようやく卒論がひと段落して久しぶりに余裕が出来た頃には一ヶ月が経っていた。お互い内定も取れて、少し気が楽になっていたこともあり、冬真は久しぶりに叶芽と呑む約束をした。
「叶芽、今日はうちで飲む?」
ゼミを終えた頃には、大学の外はすでに暗い。
気持ちに余裕が出来たことで、冬真がいつになく笑顔で誘うもの、叶芽はなぜか大きく見開いて大袈裟に驚いて見せた。
「え⁉︎ 飲むの⁉︎」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……うん、いつもみたいに呑もう、かな……あはは」
「なんだか今日はあまり楽しそうじゃないよね」
「そんなことはないよ。今日も呑んで呑んで呑みまくるぞ!」
「そこまで気合いいれなくても……」
キャンパス内の並木道に雪がちらつき始める中、冬真は白い息を吐き出して笑った。
「それでさ、あの先輩が──」
久しぶりに冬真の家へ移動した二人は、相変わらずだった。
どれだけ叶芽の中に積もっているのか、吐いても吐いても終わらない愚痴に、嫌気がさすどころか、真剣に聞く冬真。
どんなにつまらない話でも、冬真は楽しそうに聞いていた。冬真は叶芽が目の前で話しているだけで幸せだった。
だが、夜も更けてくると、冬真の視線が動きだす。
叶芽のトレーナーから覗く首から肩、そして微笑みを湛えた口元に釘付けになる中、とうとう我慢の限界が来た。
深酒で赤くなった顔から、頃合いだと察した冬真は、叶芽の顎を持ち上げると、そのまま何も言わずに口付けた。
甘い唇はやや強張っているような気がした。だが冬真自身も酔っぱらっていることもあり、叶芽の些細な変化には気づかなかった。
ガタガタと震える肩ごと抱きしめる冬真。
しかも触れるだけ触れた後、眠ってしまった冬真は、その後、叶芽がどうしているのかも知らなかった。
「……おはよう、叶芽」
「あ、うん。おはよう、冬真……」
朝になると、叶芽は冬真と目を合わせないまま帰っていった。
いつも作っていたスムージーも飲まず、まるで逃げるようにして帰った叶芽を不思議に思いながらも、冬真はそれほど気にすることもなく。
叶芽に触れられた満足感に満たされて、ぼんやりとした朝を過ごしていたが——。
叶芽がいつもと違うのは、その日だけではなかった。
翌日。大学でも、どことなくぎこちない様子は続いて、少し触れただけでも叶芽は大袈裟に驚くようになっていた。
「なぁ、叶芽……どうしたんだ?」
叶芽の様子に違和感を覚えた冬真は、講義室で叶芽を見つけるなり、詰め寄った。避けられているように感じた冬真は、その理由を知るべく、叶芽を追い詰める。
すると、叶芽はわざとらしくとぼけた声を出した。
「何が?」
「最近、あまり目を合わせてくれないから」
「そんなことないよ。それより、冬真ってさ……お酒を呑むと……」
「何?」
「いや、なんでもない」
「気になるんだけど」
「冬真、呑みすぎはよくないよ」
「叶芽に言われたくない」
「でも俺は……」
「今日も呑むんでしょ?」
「……うん」
躊躇いがちに頷いた叶芽を不審に思いながらも、冬真はそれ以上何も言わなかった。
本人はネガティブであることを気にしていると、酔った時に教えてくれたが、冬真からすれば、どんな叶芽も叶芽に違いなかった。
確かに普段は何も言わない叶芽が愚痴をこれでもかと吐き出した時は、驚いたこともあったが、内心をぶつけてくれることは、むしろ良い傾向だと思った。
自分の知らないところで吐き出されるよりはずっと良い。たとえ自分の知る誰かだったとしても、叶芽を独占されるくらいなら、自分が愚痴の捌け口になりたいとさえ思った。
そんな風に叶芽の独占権を手に入れた冬真だが。一緒に呑むようになってからというもの、決まってやることがあった。
それは、甘やかな罪だった。
「……今日も反則してごめん」
愚痴をひと通り聞き終えた冬真は、今日も深夜を過ぎると、叶芽をソファに押し倒した。
ほとんど眠っている叶芽に、唇を重ねると、叶芽はウトウトしながらも応えてくれた。
酒を飲んだ翌日には叶芽が何も覚えていないと知って、冬真はキスを繰り返すようになっていた。
叶芽の唇はまるで綿菓子のように甘く、堪えきれずに貪りたい気持ちに駆られるもの、そんな衝動を懸命に堪えて、ゆっくりと離れた。
叶芽はまだ、眠っている。いっそ全部食らってしまえばいいのに——なんて、悪魔のような囁きが冬真の耳元を掠める。
だが、寝言で冬真の名を呼ぶ無邪気な顔を見ていると、僅かな理性が冬真を押しとどめた。
触れるだけでは物足りない——そう思いながらも、臆病な冬真はキス以外のことをする勇気がなった。
それからも、冬真の悪戯は続いた。
ある日は叶芽を膝に乗せて口づけを交わし、ある時は壁に追い詰めたりもした。それでもギリギリのところで、理性を保ちながら叶芽と唇を重ねた。
「……叶芽、好きだよ」
「おれもとうま、すき」
いつものようにソファに身を埋めながら、赤ら顔でくにゃりと笑う叶芽に、冬真はもうどうしようもなく苦しくなる。
たとえそれが酔った上での言葉だったとしても、好きと言われると天にも昇る気持ちになった。
だが口づけを重ねるほど、冬真自身が壊れていく感覚もあった。
悪いことをしている自覚はあるが、もう後戻りはできない。ここまで触れてしまうと、逆に触れない日が辛かった。
だがこのままではいけないこともわかっていた。
これがもし叶芽にバレたら、どんな風に思われるだろう、そんな心配をしながらも、甘い口づけを繰り返した。もはや中毒症状だ。
やめないといけないのに、やめることができない。そして親友を騙している心の痛みに耐えきれず。叶芽に触れるだけ触れた冬真は、必ず強い酒を飲んだ。
いっそ自分も記憶がなくなれば、罪悪感で怯えることもないだろう。
そんな風に現実逃避したところで、冬真が記憶をなくすこともなかった。
そして酔った叶芽に触れる行為は、三ヶ月続いた。
***
「あーあ、そろそろ卒論に就活か……めんどくさっ!」
講義室で叶芽は資料の束を机に叩きつける。
(今日は叶芽に触れられる日だ)
そんなことばかり考えてぼんやりしていた冬真も卒論と聞いて現実に引き戻される。さすがに卒業できなかったら、洒落にならないだろう。冬真は、焦ったようにスマホを開くと、メモを確認する。資料は揃えたもの、要点をまとめて放置したままだった。
「卒論、俺も進んでない」
「しかもゼミの教授があの教授なんだよね」
「あの教授って……叶芽にセクハラまがいなことをした、あの教授?」
「そうなんだよ。人気のゼミだから、うっかり入っちゃったけど、卒論は落とせないし……って、あれ? 教授のこと言ったっけ?」
「酔っぱらいの叶芽から聞いたよ」
「教授にセクハラされるとか、俺かっこ悪いよな……」
「叶芽が可愛いから仕方ないよ」
「はあ?」
驚いて見開く叶芽に、冬真はしまったと口を押さえる。
(やっぱり、友達に可愛いって言うのはおかしいよな)
つい、酒を飲んだ時の癖が出てしまった。酒で叶芽の意識が飛んでいる時は、何度も愛のように可愛いと囁く冬真だが、さすがにシラフの叶芽は複雑な顔をしていた。
「……ごめん叶芽、変なこと言って」
「別にいいけど……可愛いとか初めて言われた」
知らぬは本人ばかりだった。
***
「次は何飲む?」
「じゃ、ハイボール」
その日はいっそう寒い日だった。
授業日程を終えた後、いつもは居酒屋を数軒はしごする冬真と叶芽だが。その日は最初から冬真の自宅で飲んでいた。
「食べたいものがあれば、デリバリー頼むけど」
冬真が宅配ピザのチラシを眺めていると、叶芽はまるで自分の家のようにソファを占領して告げる。
「いいよ。コンビニで買った冷凍のつまみがあるから」
「そんなもので腹ふくれる?」
「オニギリもあるし──それより聞いてくれよ」
すでに出来上がっている叶芽は、冬真に懇願するような視線を向ける。
すると冬真も苦笑しつつ、ビールを手に叶芽の隣に座った。
相変わらず、弾丸のように愚痴を言う叶芽は、活き活きとしていたが、冬真の方はというと、どこか落ち着かない様子だった。
それから二時間ほど他愛ない愚痴が続いて、深夜を回った頃。冬真は時計に視線をやる。そろそろ頃合いだと、喉を鳴らした。
だが、そんな冬真の変化に気づかない叶芽は、相変わらず愚痴が止まらず。自分のことばかり話していた。
「——でさ、あの子が冬真狙いなのは知ってたけど、俺に対しては異常に冷たくてさ。頭にきたから、もう冬真との仲介はしないって言ったら泣いてやんの。けどあの子が泣いてるのを見て、女の子たちが寄ってきてさ……ひどいだのなんのって面倒くさいことを言い始めて……」
深酒が進み、叶芽の目が眠そうに瞬くのを見て、冬真がビールをテーブルに置いた。我慢の限界だった。愚痴を聞くのが辛いわけじゃない。近くにいるのに触れられないのが、辛いのだ。だから冬真は、行動を起こした。
「……ねぇ、叶芽」
体を寄せて、叶芽が持つビールを取り上げる冬真。
「ちょっと聞いてる? 冬真」
愚痴を中断され、おかんむりな叶芽に顔を寄せると、叶芽は驚いた顔をしていた。そして息がかかるほど近くに寄りながら告げる。
「目を閉じて」
すでに悪いことをしている感覚すら薄れている冬真は、当然のように待っていた。
そして叶芽の方は何も考えていない様子で、素直に目を閉じる。
無防備な叶芽の顔を両手で捕まえて、冬真がゆっくりと唇を味わい始めると──叶芽は大人しくされるがままに脱力していった。
だが、その日はいつもと同じようで、何かが違っていた。
(今日はなんだか叶芽の唇が震えているような……)
叶芽の強張った体に気づいていながらも、冬真は触れるだけ触れると、珍しく先に眠ってしまった。
***
「──起きて、冬真」
「……ん、なんだ?」
いつものように叶芽に触れた翌日。起きて最初に目に入ったのは、昨日と同じトレーナーにパンツ姿の叶芽だった。
どうやらリビングソファで眠っていたらしい。いつの間にか、膝掛けを布団にして横になっていた。
だがそれよりも、寝起きに見た叶芽の姿に釘付けになる。
相変わらず広い襟からのぞく肩は無防備で、触ってくださいとばかりに見せつけられているような気さえした。冬真は叶芽に触れすぎて、自分の感覚が麻痺していることに気づき、ため息を吐く。
「……昨日は二人ともソファで寝たのか?」
「あ、ああ。冬真が気持ちよさそうに眠ってるのを邪魔したくなかったから」
「ごめん」
「俺はソファでじゅうぶんだよ」
「そうだ、スムージー作るから待ってて」
冬真がキッチンに入ろうとすると、叶芽は慌てたように言った。
「今日はいいよ。コンビニで何か買って帰るから」
「え? 叶芽、こんな早い時間に……もう帰るの?」
「う、うん。卒論やりたいし」
なぜか目を合わさない叶芽を見て、冬真は怪訝な顔をするもの、理由を聞く前に、叶芽はそそくさと帰ってしまった。
それから冬真と叶芽は卒論と就活の準備でお互い忙しい日々を過ごしていた。あんなに呑んだ酒も、嘘のように呑まなくなり、現実に畳み掛けられる日々が増え、顔を合わせることすら難しくなった。
専攻が違うというのは、辛いものである。冬真は叶芽に触れたいと思いながらも、酒の力がなければ触れられないことが切なかった。
今となっては、叶芽の愚痴すら恋しくなる。
そして、ようやく卒論がひと段落して久しぶりに余裕が出来た頃には一ヶ月が経っていた。お互い内定も取れて、少し気が楽になっていたこともあり、冬真は久しぶりに叶芽と呑む約束をした。
「叶芽、今日はうちで飲む?」
ゼミを終えた頃には、大学の外はすでに暗い。
気持ちに余裕が出来たことで、冬真がいつになく笑顔で誘うもの、叶芽はなぜか大きく見開いて大袈裟に驚いて見せた。
「え⁉︎ 飲むの⁉︎」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……うん、いつもみたいに呑もう、かな……あはは」
「なんだか今日はあまり楽しそうじゃないよね」
「そんなことはないよ。今日も呑んで呑んで呑みまくるぞ!」
「そこまで気合いいれなくても……」
キャンパス内の並木道に雪がちらつき始める中、冬真は白い息を吐き出して笑った。
「それでさ、あの先輩が──」
久しぶりに冬真の家へ移動した二人は、相変わらずだった。
どれだけ叶芽の中に積もっているのか、吐いても吐いても終わらない愚痴に、嫌気がさすどころか、真剣に聞く冬真。
どんなにつまらない話でも、冬真は楽しそうに聞いていた。冬真は叶芽が目の前で話しているだけで幸せだった。
だが、夜も更けてくると、冬真の視線が動きだす。
叶芽のトレーナーから覗く首から肩、そして微笑みを湛えた口元に釘付けになる中、とうとう我慢の限界が来た。
深酒で赤くなった顔から、頃合いだと察した冬真は、叶芽の顎を持ち上げると、そのまま何も言わずに口付けた。
甘い唇はやや強張っているような気がした。だが冬真自身も酔っぱらっていることもあり、叶芽の些細な変化には気づかなかった。
ガタガタと震える肩ごと抱きしめる冬真。
しかも触れるだけ触れた後、眠ってしまった冬真は、その後、叶芽がどうしているのかも知らなかった。
「……おはよう、叶芽」
「あ、うん。おはよう、冬真……」
朝になると、叶芽は冬真と目を合わせないまま帰っていった。
いつも作っていたスムージーも飲まず、まるで逃げるようにして帰った叶芽を不思議に思いながらも、冬真はそれほど気にすることもなく。
叶芽に触れられた満足感に満たされて、ぼんやりとした朝を過ごしていたが——。
叶芽がいつもと違うのは、その日だけではなかった。
翌日。大学でも、どことなくぎこちない様子は続いて、少し触れただけでも叶芽は大袈裟に驚くようになっていた。
「なぁ、叶芽……どうしたんだ?」
叶芽の様子に違和感を覚えた冬真は、講義室で叶芽を見つけるなり、詰め寄った。避けられているように感じた冬真は、その理由を知るべく、叶芽を追い詰める。
すると、叶芽はわざとらしくとぼけた声を出した。
「何が?」
「最近、あまり目を合わせてくれないから」
「そんなことないよ。それより、冬真ってさ……お酒を呑むと……」
「何?」
「いや、なんでもない」
「気になるんだけど」
「冬真、呑みすぎはよくないよ」
「叶芽に言われたくない」
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「今日も呑むんでしょ?」
「……うん」
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