ヤバい奴に好かれてます。

たいら

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「…………っ」
 ここは前に食べそびれたすき焼きの老舗料亭。久保田がまた俺のために予約したのだ。
 障子を開けた縁側から、きれいな庭の見えるだだっ広い部屋には、俺と久保田しかいない。着物の女性に注文が終わると、鍋が用意され、肉や野菜の皿もテーブルに置かれた。
 鍋がくつくつと煮える中で、俺の横に移動した久保田に押し倒された。久保田の体を押し返そうとしても、手首を掴まれ、畳の上でのしかかられる。
「……やめろっ……!」
 理性の抜けた男を制するのは容易なことじゃない。しかも久保田は俺よりも体がでかくて力も強い。上から体ごと押し潰されるように唇が合わさった。
「……んっ……」
 止める間もなく舌が入ってきた。両手首を畳に縫い付けられ、腹の上に乗った久保田に下半身をホールドされ、好きなだけ口の中を蹂躙され弄ばれたあと、やっと解放された。
「……すみません。我慢できなくて」
 そう言うと久保田は眼鏡をかけ直し、何事もなかったかのように俺の前の席に座り直した。
「さ、食べましょう」
「…………」
 俺は畳の上で寝転がったままになっていた。とんでもなく手首が痛いし、とんでもなく疲れていた。
「野坂さん?」
「……もういい」
「え?」
「好きにしたらいい」
「…………」
「でも俺は仕事を辞める」
 元はといえば、脅されるようなネタを持っていた俺が悪い。楽な仕事に齧り付こうとしていた俺が悪いんだ。
 村上、ごめんな。
「そうすればお前はもう俺を脅せなくなる」
「そうですか。それでも僕はあなたのことをずっと好きですよ? あなたが僕から逃げ出せなくする方法は他にもいくつか考えてありますし。それよりも契約期間はまだ一年以上ありますからその間に新しい仕事を探すべきでしょう。焦って探すとまたブラック企業に勤めて精神を病むという、二の舞いになるだけですから」
 ……こいつ。
「一生フリーターから抜け出せなくてもいいと言うのなら話は別ですが」
 恐ろしい現実を突きつければ俺が怖がると思ってやがるな。
「あなたはもっとズルくなった方が良いです。僕はあなたのためならなんだってするって言ってるんですから」
「…………」
「キス一つで僕を思いのままに使えるんですから、僕から何も出なくなるくらいまで搾り取ればいいんですよ。むしろ僕はそうしてもらいたいと思っているくらいです」
「…………」
「僕もあなたになら振り回されてみたいです」
 上半身を起こし、テーブルから顔を出すと、久保田はまだ食べ始めておらず、いつもの表情で俺を見ていた。
「これから時間をかけて一緒に仕事を探しましょう。協力しますから」
「…………」
 俺が飄々とした顔の久保田を睨み付けていると、久保田は箸を持ち上げ、すき焼きを食べ始めた。卵を絡めた肉が久保田の口に入り込む。
「野坂さん、美味しいですよ?」
「…………」
「早く食べてください」
「…………」
 俺はすき焼きの甘い誘惑に耐え切れなかった。






「……いっ……んっ……いんぁぁっ……!」
 俺は久保田の腕から逃れようと、胸を締めつける太い腕を引き剥がそうとしたが、しかしビクともしない。
「野坂さん、そんなんじゃ先に体力が尽きてしまいますよ」
 久保田の顔が首筋に当たる。
「静かにしてください。人が来ます」
「……いっ!……」
 なおも俺は腕から抜け出そうとしたが、さらに締めつけられただけだった。こいつプロレスラーか! 何かの達人か! どうなってんだこの体は!
「すぐに終わりますから。少しだけ我慢してください」
 頬に息がかかって、また後ろから被さるようにキスをされた。お互いの息が荒い。抗おうとすると顎を掴まれ、久保田の肩にもたれ掛からせられる。またも俺は久保田のなすがままになってしまったのである。
 くそっ、今日から筋トレしてやる。プロテイン飲んでやる。走り込みで体力付けてやる!
「……は……っ」
 久保田の力が緩んで、やっと口と腕が離れた。俺はとっくに疲れ果てて一反木綿のようにヨロヨロになっていた。
「すみませんでした。じゃあ、また夜に」
 そう言いながら久保田は眼鏡をかけ、ネクタイを直し、トイレの個室を出て行った。俺はそれを見ながらトイレの壁にもたれ、しゃがみ込んだ。
 あいつ、涼しい顔で仕事に戻りやがったぞ。
 俺はというと、髪はぐちゃぐちゃで、ネクタイはヨレヨレだ。今もし他の社員が戻って来たら、とても見せることはできない状態だった。
「……はぁ……」
 こんなんであと一年以上も同じ職場で大丈夫か?
 久保田って奴は人のスマホを勝手に見る奴なんだぞ? 人の元カレにも母親にも勝手に連絡しやがったし、勝手に合鍵作られたし、人の家に勝手に上がり込むし、そんな奴、絶対無理だろ。
 振り回されたいとか言っといて、振り回されてるのは俺じゃねーかっ!
「あれ? 美味しくなかったですか?」
「…………」
 適当に電子レンジで作ったんじゃない茶碗蒸し。うちの粗末なキッチンでどうやって作ったのか分からない物が目の前に置かれていた。
 断っても断っても久保田は仕事終わりに買い物袋を下げてうちへやって来る。合鍵を持たれてるんだからどうにもならない。
 小さなテーブルに、サラダ、茶碗蒸し、鶏のから揚げ、味噌汁とごはんが新婚家庭のようにカラフルに盛り付けられて並んでいる。キッチンには見たこともない調理器具が増えていた。
「野坂さん、今度一緒にお揃いの食器を買いに行きませんか?」
「…………」
 俺は無言で唐揚げを口に放り込んだ。
 ……美味しい。間違いなく美味しい。こいつ、どんどん腕を上げてやがる。バクバクと一気に口に食べ物を放り込み、味噌汁で流し込んで食べ終えると、寝転がって目をつぶった。
「お茶飲みますか?」
 テーブルにお茶の入ったコップが置かれる音がした。しばらくすると久保田も食べ終わったのか、背中の方から食器を洗う音が聞こえた。その間も俺は横になって眠ったふりを続けていた。
「じゃあ野坂さん、僕そろそろ帰ります」
「うん」
 さっさと帰ればいいのに、久保田はわざわざ寝転がってる俺のそばまでやって来た。
「野坂さん」
 無視していると耳に息がかかった。口へキスをされる。
「…………」
 仰向けに転がされ、問答無用で舌が入ってきた。ゆっくりと舌が動き出し、たまらず俺が久保田の体を押し退けようとすると、またも手首を畳に押さえ付けられた。
「…………っ」
 噛み付くように口が合わさり、久保田の舌が俺の中を征服するように動き、さんざん容赦なく生気を吸われる。
 ようやく口が離れると、俺は思わず叫んでいた。
「……もう、はやく帰れよっ……!」
 心臓が走ったあとのように苦しい。
 それなのに、久保田は冷静な顔で、鼻先の当たりそうな距離で、眼鏡のない目で囁いた。
「でも野坂さん、僕のこと生理的に無理ってわけじゃ、なさそうですよね?」
「……ち……、ちがっ」
 何言ってんだこいつ。
 思わず首を左右に振り、逃げようとすると手首を頭の上で押さえつけられた。だからなんつー力してんだ、こいつはっ! 久保田に体を跨がられ、顔がまた近づく。
「そうですか?」
「…………」
 尋常じゃない力なのに顔はマネキンのように整ったままだ。でも久保田の体はとても熱い。尋常じゃなく熱い。
 その熱い体が、密着していて、ヤバい。
 この、お互いの熱が、お互いに伝わる感じ、ヤバい。内側の熱が上がるのを感じた。
「僕はいつまでも待ってますよ」
「……なにを?」
 久保田がギリギリと畳に俺の手首を押し付けながら締めつける。
「あなたが、僕しかいないことに気づくことをです」
「はぁっ⁉」
 力では圧倒的に不利でも、俺は負けじと久保田を睨み付けた。至近距離で睨み合う。
 お互いの熱が合わさり、触れてない場所にまで久保田を感じ始めたころ、突然久保田が力を抜いた。
 そしてあっさりとした顔で眼鏡をかけ直し、腕時計で時間を確認し、ネクタイを直してスーツの上着を着たのである。
「じゃあ、明日また会社で」
 そう言うとあっさりと家を出て行ってしまった。
「…………」
 放り出された俺は、徐々に冷めていくさっきまであったはずの久保田の熱に、悶え苦しむことになった。
 だから、だからなんであいつはいつも、あんなキスをしたあとなのに、あんなにあっさりと帰れるんだよ⁉
 頭がおかしいのか⁉ モンスターか⁉






 職場に着いた途端、思わず自分の机に突っ伏してしまった。
「野坂さん、寝不足ですか?」
「え?」
 顔を上げると、村上がいつもならあっけらかんとしている顔を心配そうにして、俺に話しかけていた。
 最近、朝起きた時から疲れている。睡眠時間も短いし、眠りが浅いのは自覚していた。おかげで通勤電車の中でおじさんに寄りかかって寝てしまうし、仕事のミスも増えている。久保田が上司じゃなかったら大目玉をくらっていただろう。
「野坂さん、つらいなら早めに早退してくださいね。野坂さんにまた病気になられたら困りますから」
 村上が本気で心配しているみたいな口調で言った。
「そんなことになったら、また久保田さんが荒れ狂うんで。あの人、人格が破綻しているから他にも病人が出てしまいますよ」
 よほど久保田が恐ろしいのか、村上が自分の両腕を抱きながら身震いをした。
 俺がいない間に何があったんだ……。考えるのも恐ろしい。
 しかし俺はそんな久保田にも負けるわけにはいかなかった。これはもう俺と久保田との戦いだ。俺は絶対に久保田には屈しない!
 絶対にだ!
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