ヤバい奴に好かれてます。

たいら

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「森田くんに何か言いました?」
 久保田に唐突に聞かれた。
「……なんで?」
「これ以上村上くんに嫌がらせをしたら、あなたに危害を加えると言われましたよ」
「…………」
 そうか。久保田の弱点は俺なのか。なるほど。
「突然森田くんがそんな子供っぽいことを言うのはおかしいと思いまして」
 悪かったな、子供っぽくて。
「村上くんのことは業務においては足手まといだと思っていますが、正直どうでもいいですし、もしあなたが何かをされたら僕はそれ以上のやり方でやり返すつもりです」
「…………」
「ですが、あなたが森田くんに何か口添えをしたのなら、僕とあなたとの関係に問題が生じてしまうかもしれませんね?」
「最初から俺とお前の間は問題だらけだろ」
「いいえ。僕たちは恋人同士なのですから、問題などあるはずがありませんし、もし問題が起きたら即排除するだけです」
「…………」
「僕はあなたにとって最高の恋人になるつもりですから」
 久保田の柔らかい指が、小さな円を描き、揉み込むように頭皮を撫でる。
「僕はあなたを好きになった時からどうやったらあなたと付き合えるだろうと考えていたんです。前の恋人と僕はタイプがかけ離れていますから」
 別に好きになった人がタイプになるだけで、リョータがタイプというわけではないけど。
「僕はどうしてもあなたの恋人になりたかったんです。やり方は多少強引だったかもしれませんが、結果が良ければ問題はないでしょう」
「ある」
「あなたはすごく傷ついていて、新しく人を好きになることなんてできなさそうだったじゃないですか」
「…………」
「僕はどうしてもあなたに近づきたかったんです。まずはあなたの視界に入りたかった。そしてあなたにとって一番優しい人間になりたかったんです。そうすればあなたが僕を好きになってくれるんじゃないかと思いました」
 ……それにしてもやり方が強引過ぎるだろ。何もかも。
「流しますよ?」
「…………」
 俯いた頭にかけられたシャワーが、髪についた泡を洗い流していく。
「僕は今まで人に対して嫉妬も憎悪も愛情も感じたことがありませんでした。でもあなたにだけはすごく未練があるんです。もしまたあなたが誰かに傷つけられて一人で泣くことがあったら、僕は初めて人のために涙を流せるかもしれません」
「…………」
 やっぱりこいつは異常だ。なんで俺なんかにそんなことを。
「これが恋ってやつでしょう?」
「ちがう」
 恋なんて生っちょろいものじゃない。
「僕はあなたがまた誰かに傷つけられたら、そいつをめった刺しにしてこの世から抹殺しようと思っています。そんな強い気持ちを持てたことが嬉しいです。恋って素敵ですね」
「…………」
 それは恋でもないし、素敵でもない。森田くん逃げて。
「人のために生きようと思ったのも初めてなんです。あなたのためになんでも買ってあげたいと思いますし、あなたのために毎日栄養のあるご飯を作ろうと思います。これがあと何十年も続くのかも思うと幸せで堪らないんです。こんなに幸せを感じたのも初めてです」
「…………」
 俺はもう二度とこいつから逃げられないと確信した。逃げたとしてもきっと地の果まで追いかけてくるだろう。恐ろしい。こんなサイボーグが死ぬまで追いかけてくるのか。
「なんで俺?」
 ずっとずっと気になっていたことだ。俺なんてどこにでもいる人間なのに。人より秀でているところなんて何もないのに。
 久保田が俺の頭にタオルを被せ、滴る水滴を拭った。
「まずはあなたの頼りなく見える見た目でした。あなたを見ているとどうしようもなく放っておけない気持ちにさせられるんです」
「ふーん? 村上くんみたいな感じ?」
「あなたと村上くんは似て非なる存在ですが、外見以外でも全く違うところがあります」
「…………」
 どっちだ? つまり似てるってことか? 俺も足手まといってか。てことはこいつに惚れられてなかったら俺もいじめられていたかもしれないのか? じゃあ惚れられて良かった。いや、やっぱり良くない。
「それはあれです」
「あれ?」
 久保田が初めて言葉を濁した。
 顔を上げると、久保田が俺の髪を拭きながらこちらを見ていた。
「運命」
「はぁ?」
「僕にとっての特別です」
 なんと、サイボーグの口から恐ろしい言葉が出てきた。
 俺の中がざわざわと鳥肌のようにざわめいた。この恐怖とこれからも付き合っていかなくてはならないのか。






「所長お話があります」
 所長が戻ってきたところで席を立ち、所長のデスクに向かった。
「契約期間はまだ残っているのですが、来月で辞めさせていただきます」
 所長は広い額の汗をハンカチで拭っていた手を止めた。新たな汗が浮き出る。
「……ちょっと待って。私の命はどうなるの?」
「知りません」
「君がいるのといないのとでは久保田くんの態度が全然違うんだよ」
「久保田さんが怖いのはご自分のせいですよね?」
「そんなこと言わないでよぉ。給料上げるから。ね?」
 所長は立ち上がると俺の前で正座をし、頭を床にこすりつけた。
「頼みます!」
「申し訳ありません!」
 俺は土下座をする所長に向かって頭を下げ、自分のデスクに戻った。
 もう久保田とプライベートでも職場でも同じ場所にいるのは限界だった。正直言ってまだ次の仕事は全く決まっていない! しかし絶対に何とかしてみせる! 俺はもう生きる屍と化していたあのころとは違うんだ!
 俺の中にやっと生命力が戻って来ているのを感じていた。もう久保田の言いなりになんかにならないぞ。あと一ヶ月と少しで仕事を決めて、久保田のいるこの職場から離れるんだ!
「えっ、野坂さん辞めちゃうんですか⁉」
 戻って来た村上に辞めることを伝えると、村上は驚いた声を上げた。
「うん。もう少し先だけど」
「次の仕事は決まったんですか?」
「ううん。まだ」
 村上は一時逃亡したが、また戻ってきていた。本社に異動願いを出し、辞令が出るのを頼りに頑張ることにしたらしい。
「……寂しくなります。野坂さんがいなくなったら俺はもう無理かもしれません……」
 泣き言を言い出した村上を必死で励ました。
「だ、大丈夫だよ。たぶん。俺も森田くんも応援してるから」
「……森田ですか」
 村上がそこでため息をついた。いかにも森田との間に何かがあったという感じだ。
「前から気になってたんだけど、結局村上くんと森田くんてどういう関係なの?」
「……僕と森田ですか?」
 村上が言いにくそうに顔をしかめた。
「たぶん。野坂さんは知らない方がいいと思います」
「えっ、なんで?」
 森田とは違う反応に驚いた。なんだよ、余計に気になるじゃないか。
「……お互い好きあってるとか、そういうことではないんです、……たぶん」
「ふーん?」
 二人とも謎が謎を呼ぶような答え方しやがって。
 結局はキスはするのに恋人ではないということか。この間森田に勢いであんなこと言ってしまったけど、やっぱり付き合えなかったのか。その辺もっと詳しく知りたかったが、村上があまりにも言いにくそうにしているので聞くことができなかった。 
 それに俺は今、人に構っている余裕はないのだ。
 あと一ヶ月と少しで無職になるため尻に火がついたのか、久しぶりにやる気に満ち満ちていた。もう心には向上心しかない。
 これからどんどん稼いでやる。次は俺が久保田に高い飯を奢ってやるんだ。俺だって二十代でまだまだ若いし、やろうと思えば何だってできるはずだ。うじうじ落ち込んでいた時間は終わりだ。いつか久保田をぎゃふんと言わせてやる!






 そう。俺だってやればできるんだ! 久しぶりに本気を出した。
 退職してから一月経ち、小さな印刷会社ではあるがなんとか再就職をすることができた。
「昨日、お母さんと電話で話しました」
「そう」
「お母さんあなたの仕事が決まったのをとても喜んでいましたよ」
「そう」
「また一緒に温泉に行きたいそうです」
「……そう」
 起きぬけに母さんの話をされて頭痛がした。睡眠時間は足りているはずなのに、全然寝た気がしない。たぶん一ヶ月、昼寝も含めてたっぷり眠る生活をしていたからだろう。
「野坂さん、大丈夫ですか?」
「なにが?」
 久保田はすでに起きていてワイシャツにピンクのエプロンをし、両手におたまとフライパン返しを持っている。朝から元気な久保田を見て今度は目眩がした。
「毎日帰りが遅過ぎます」
「これくらい普通だろ?」
 別に日付を跨ぐほど遅くなったわけじゃない。転職したばっかりなんだから。頑張らなきゃ。
 顔を洗い、久保田が用意したタオルで顔を拭いた。
 アイロンがかけられたワイシャツを着て座ると、テーブルにはグリーンスムージーとヨーグルトと目玉焼きと玄米ごはんと味噌汁が置かれていた。
 ……こいつは俺をスーパーモデルにするつもりなのか?
 俺は久保田に惑わされることなくちゃんと自分で転職先を見つけた。
 規模は小さいし、社長は怖いけど、前の前の会社のようにブラックではない。職場には年下もいるけど、俺が一番の新人だから雑用を押しつけられるのは仕方がない。
 定時で帰れないのは仕事が終わらないからで、それは俺の仕事が遅いからだし、それはまともに働く勘を取り戻すのに時間がかかっているせいだから、残業代が出ないのも仕方がないし、休日出勤も仕方がない。
 それになぜだか職場の人間がみんな冷たくて全く仲良くなれそうにないのは、きっと俺に余裕がないからだろう。慣れればきっと全部上手くいくはずだ。
 もう誰でもできる簡単な仕事をのんびりとやっていたころとは違うんだから頑張らなきゃ。
 暇があったら勉強しなきゃ。早く、久保田にぎゃふんと言わせなきゃ。
「野坂さん。お弁当です」
「あ、ありがとう」
 俺は久保田から手渡された弁当を鞄に入れた。そして玄関のドアを開けようとしたが、その前にため息が出た。
「野坂さん、大丈夫ですか? 送っていきましょうか?」
「……大丈夫」
 自分だってすぐに出勤のくせに久保田には全く焦りがない。俺より遅く帰る日もあるのに、いつも俺が起きるより先にうちに来て、俺が放り出した家事をして、朝食と弁当まで作っていて、改めてこいつの超人ぶりに驚かされる。サイボーグのくせに、社会人としては俺よりもずっと上なのだ。正直こいつの鋼の精神と肉体が羨ましくてたまらなかった。
 もう一度ドアを開けようとしたが、忘れ物をした気がして振り返ると、久保田がまだエプロンをしておたまを持ったまま、マネキンのような等身で立っていた。
「野坂さん、あんまり頑張らないでくださいね」
「なんで?」
 今頑張らなきゃ、いつ頑張るんだよ。
「僕はあなたに生きていてもらえるだけで十分なんですよ?」
「…………」
 だめだ。騙されるな。これがこいつの手なんだ。
「何かあったら必ず僕に言ってくださいね。僕はあなたのためならなんでもするんですから」
「…………」
 こうやってこいつがどこまでも俺を甘やかすから、一人じゃ何もできなくなりそうになる。それがこいつの狙いなんだ。こいつには弱点を突かれて、付け込まれて、今までさんざん酷い目にあってきただろ。忘れるな。
「そろそろ急いで再就職先を決めてしまったことを後悔しているんじゃありません? だから言ったでしょう?」
「…………」
「正直言ってあなたにはまだ忙しい仕事は早いと思っていました。本当はあなたにはまだ休みが必要なんですよ」
「…………」
 だめだ、だめ。聞いちゃだめだ。これは甘い戯言だ。
「戻ってきませんか? あなたの場所はまだありますよ。うちでまたのんびりとやればいいじゃないですか」
「…………」
 久保田はピンクのエプロンをしているくせに、目は全く笑っていない。
 頭の中で警告音がなった。こいつはまた俺の弱いところに付け込もうとしているぞ! これ以上こいつの思い通りになっちゃだめだぞ! 
 でも歯止めをかけたいのに、久保田の方へ逃げ出したい自分もいて、慌てて鞄を抱きしめ、家を出た。






「ふーっ!」
 目をつぶり、一息ついた。首まで浸かったお湯は、体全体を温めてリラックス効果をもたらしてくれるちょうどいい温度だった。
「こんなところで良かったんですか? 週末になれば温泉だって行けたのに」
「遠くなんて行きたくない」
 ここはバスで十分の二十四時間営業のスーパー銭湯。
 平日の仕事が終わったあとに来たから、客はまばらにしかいない。大浴場にはいくつもお風呂があり、俺は軽く背泳ぎしながら片っ端から入っていた。
 毎日の疲れを癒やすのにいちいち温泉なんて行ってられない。スーパー銭湯で十分だ。風呂上がりに食堂でビールを飲んで家に帰れば、今日はぐっすり眠れるはずだ。ストレスはこうやって自分で解消できるんだ。久保田の戯言に乗ってしまうのは絶対にだめだ!
 一番広いお風呂で、目をつぶって入っているおじいちゃんの前を平泳ぎしていると、久保田の姿が目に入った。露天風呂を模して作られたお風呂の岩に腰掛けている。
 眼鏡をかけていない久保田の顔はマネキン度が増しているし、いつ鍛えているのか分からない体は、マネキンのように均整がとれている。
 しかし中身はひどい。平気な顔で人を脅すし、部下はいじめるし、上司さえも脅す。絶対に付き合いたくないタイプだ。
 久保田の方だってどうして俺を好きになったのか分からない。俺なんてどこにでもいる人間なのに。顔だって普通だし、中身だって人より秀でているところなんて一つもない。なんで俺なんかを。
「野坂さん」
 クラゲのように湯船の中をたゆたって久保田のことを考えていると、眼鏡のない久保田の顔が視界に入ってきた。
「…………」
「もう出ましょう。のぼせますよ?」
「…………」
 湯船の中を立ち上がると、おじいちゃんはいつの間にか消えていた。
 早くビールが飲みたくて、急いで脱衣場に向かった。貸し出されたバスタオルで体を拭き、作務衣みたいな館内着を着た。
 見ると久保田はまだバスタオルを腰に巻いたまま鏡の前で髪にドライヤーをかけていた。
「俺先に行ってるから」
 そう言って行こうとすると久保田に止められた。
「ちょっと待ってください」
「え?」
「髪は乾かさないんですか?」
「いいよ。このままで」
 俺は犬のように首を振って水気を飛ばした。これで大丈夫。しかし久保田に手首を掴まれ引っ張られた。
「だめです。風邪引くと困るのは自分ですよ?」
「…………」
 そう言われ、無理やり髪をぐしゃぐしゃにしながらドライヤーをかけられる。
「僕は野坂さんのそういうところが好きなのかもしれません」
 どういうところだよ!
「実は最近、野坂さんの会社の取引先の方と知り合いになったんですよ」
「…………」
「いろいろ話を聞いてしまいまして、どうやら今の二代目社長はやり方が強引みたいで、あまり会社の状態は良くないようです。社員の入れ替わりも激しいとか」
「…………」
 まだ髪は乾いていないのに、なぜか久保田がドライヤーを止めた。耳に久保田の息がかかった。
「知り合いの会社が、あなたの会社から手を引いたら一発で終わりです」
「…………」
「どうしますか?」
 久保田の声は、相変わらずサイボーグのように心がこもっていない。
 どうしますか? って何? まるで俺に決定権があるような言い方じゃないか。
 ……こいつは今度はいったい何をしようとしているんだ? 
 温まったはずの体が、急激に冷えていくのを感じた。これはのんびりビールなんて飲んでる場合じゃないかもしれない。
 誰か助けてください!
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