最後の女

蒲公英

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 茜が高遠にもう一度会ったのは、その週末だ。責めるようなメールの末尾に、とりあえず話をしたいと、時間と場所が指定されていた。高校生の頃には、「つきあって」「つきあえません」そんな言葉で済んでいた筈なのに、手順が違うような気がする。そして茜の根底には幾分、「私のせいじゃないもん」ってのが、無きにしも非ずである。高遠が勝手に思い込んで、話を進めようとしたのだ。結婚してるっていうのは想定外でも、彼氏の有無さえ聞かれたことはない。高校生時代のセオリーでは、「今、彼氏いる?」ってのが先に来たものである。そんなものは、思春期の恋愛ごっこでしかなかったのだと、悲しいことに茜は知らない。その後に茜が出会ったのは秀一であり、必死のアプローチの結果に受け入れられてしまったものだから、恋愛が始まる機微なんて覚える時間はなかったのだ。
 茜の膝上数センチには、まだくっきりと歯形が残っている。見るたびに、自分が何か間違っていたらしいとか、いい気になってたなーとかの反省はある。

「来てくれたんだね」
「話があるんでしょう?」
「本当は、酒の席のほうが良かったんだけど」
「家事があるから」
 家事と、はっきりそう言った。今日は週末で仕事が三時頃終わる秀一が、夕方の買出しにつきあってくれるのだ。
「この前は、夕食作るって言ったね。茜ちゃんの家って……」
「私、主婦だもん」
 一瞬止まった高遠が、複雑な顔をする。
「もしかして、お母さんが早くに亡くなって、兄弟の食事の世話とか?」
 普通の連想である。
 ここで言わなければ、また続いてしまう。それくらいは、茜にもわかる。
「違うの。言わなくて、ごめんね。私、結婚してるの」
「はああぁ?」
 呆れた顔の高遠は茜を凝視した後に、面白い冗談を聞いたとでもいうように、笑い出した。
「それが、つきあえないって答え? 言うに事欠いて、何それ。そんな嘘、誰が本気にする?」
 そして真剣な顔で、カウンターの隣に座る茜の上腕を掴んだ。
「痛いよ」
「嘘吐いてまで、断ろうって言うの? 俺に何が足りない? 楽しそうだったじゃないか、ずっと」
「痛いって。離して」
 腕を振り落とすと、他の客がこちらを見ている気がした。

 目を惹く容姿、女の子の好きそうな話題を仕込んだ会話。泥臭くなくスマートな、都会らしくて若者らしい関係性を、高遠は持っている。今までにもきっと、こんな風にするりと女の子と仲良くなって、それについて自信を持っていたのかも知れない。
「嘘じゃないの。旧姓は三沢」
「証拠なんてないじゃないか。指輪もしてない」
 茜は自分の左手を広げた。尤も、茜が左手の薬指に指輪をしていたところで、ファッションリングにしか見えないだろうが。
「K女のホームページでも、チェックして。私、学年代表で卒業文寄せてるから」
 高遠はまだ疑わしそうに、茜をまじまじと見ていた。
「友達なら楽しいけど、つきあうっていうのは、無理。だって、結婚してるんだもん」
「本当に?」
「さっきから、嘘なんて吐いてない。主婦なの、私」
 毒を吐かずに節度を保った高遠を、褒めてやって欲しい。

「せめて指輪くらいしてないと、リアリティないじゃないか。騙されるのは俺だけにして欲しいね」
 そう言って店の前で別れ、茜は膝から力が抜けそうになった。言葉は鋭くなかったが、怖い顔してたなと思う。これが酒の席や人気のないところならば、逆上されていても不思議じゃなかったかも知れない。やっぱり、私はひどいことをしたんだ。
 店を変え、しばらくひとりでぽつんと座っていた。自覚しなくちゃいけないのは、結婚してるんだって事実じゃなくて、私が既婚者に見えないってことだ。

 気がつくと、秀一がそろそろ仕事を終える時間だ。出たついでだから、買い物を済ませてしまおうと携帯電話を呼ぶと、会社を出るところだと言う。隣の駅の駅前にいると言うと、そちらにまわると返事があった。
 到着時間までの三十分ほどの間、エキナカ――ってほどでもない、駅とくっついた小さなビルだ――の中をウロウロしていると、小さな宝飾店が目についた。そういえば、ピアスのチラシがはいってたな、なんて見ていると、リングのケースが並んでいる。
 せめて結婚指輪くらいしてないと。つい一時間ほど前の、高遠のせりふである。実際、「形から入る」ことを思えば当然なのだろう。茜が欲しかった印は秀一には気の進まないもののようだったし、話を振ってもノッて来ない秀一を説得する自信はなかった。
 なんだ、そんなに高価なものでもないんだ。私の貯金でどうにかなるくらい。一瞬、買っちゃおうかなと思い、その後にふと考える。
 結婚指輪ってのは片方だけがしていても、あんまり意味がないんである。揃いのリングに刻印してもらうからこそ、価値が生じるのだ。

 到着したと携帯電話が鳴ったとき、駐車場に入れて出てきてくれと、茜は秀一に頼んだ。上半身はポロシャツに着替えているだろうが、多分作業着に履きつぶしたスニーカーの秀一と、ファッションビルの中で待ち合わせる。
 でもね、秀さんの作業着姿は、かっこいいんだもん。無愛想な怖い顔と太い腕が、絶妙マッチ。
 そう考えるのは、茜ひとりだということを、茜は知らない。そうでなければ、外で嬉しそうに腕を絡めたりできない。
 結婚指輪、買ってもらうんだもん。秀さんが嫌がったって、ちゃんと証拠で提示できるものが欲しいって言わなくちゃ。

 きらびやかな宝飾店で、やたらめったら嬉しそうな茜の隣に、眉間に皺を寄せた吽仁王が立っていたことは、後々に見かけたアルバイト仲間の語り草になるのだが、それはまた別の話である。
「傷になるから、普段はできねえぞ」
「そういうお客様は、他にもいらっしゃいます。首から下げられても良いのですよ。その場合、お客様は首が逞しくていらっしゃいますから、これくらいボリュームのあるチェーンが良いかと」
 宝飾店のお姉さんは、もちろん販売のプロである。プロの営業の話術と、茜の懇願するような顔のダブルに、秀一が敵うはずがない。ああでもないこうでもないと迫られ、店員と茜が盛り上がってデザインを決めるのをよそに、秀一は所在無く立っていた。
 サイズを測られて、刻印の確認をされ、受け取りを受け取ると、茜は大切そうにそれを財布に入れた。
「一生大事にする! 秀さんも大事にしてね!」
 抱きつくように腕にすがる茜の顔を見下ろして、「ま、しょうがないか」と秀一も眉間の皺を解いた。

 茜が結婚指輪を手に入れたのは、こんな経緯だった。
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