最後の女

蒲公英

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 さて、レンタルブティックで衣装を決め(タキシードの試着をしたときに誰もいなかったのが、秀一の救いである)、結婚式らしき食事会は一ヶ月先だ。秀一は茜のドレスにあまり関心はないし、妹とあーでもないこーでもないと選んでいるのにつきあってはいられないので、とっとと帰宅してテレビをつける。結婚前とあまり変わらない日曜の午後である。
 茜がいないと、やけに静かだな。
 ふと、そう思う。以前に較べれば格段に整えられた部屋や、華やかになったファブリック類以外にも、何か変わったものがあるらしい。安アパートの一室に溢れる茜の気配に、秀一自身が馴染んで埋まっている。
 小娘に取り込まれて、振り回されて。自分の感情に苦笑するが、別に気分は悪くない。むしろ、変化を面白がっていさえする。自分も気づかなかった一面が、次々露呈していくような気分だ。

 会社の定期健康診断で半日ドッグに行ったのは、秀一の意思じゃなくて規定である。四十代前半で身体に不調を感じていない人間は大抵、自分が病気になったり死んだりはしないものだと思っているものだ。コレステロール値やら血圧やらと加齢による小さなエラーはあっても、多寡を括れる程度のものである。だから総務の女の子が持ってきた結果の封筒の厚さに、ちょっと驚いてしまった。
「平野さん、何か引っかかったみたいだね。何もない人は、ぺったんこだから」
 数値云々ってのは秀一にはわからないから、見るのは判定結果だけだ。不思議な気分で内容を読み、衝撃を受けた。
 腫瘍マーカー、結果。肝疾患の可能性あり。要検査。
 ちょっと待て。腫瘍マーカーって、ガンの検査だよな? ガンの検査で肝疾患って、肝臓ガンか?肝臓ガンって死亡率高いって、この前保険のおばちゃんが――
 先走った考えは、「可能性」の文字を落とした。

「平野さん、何引っかかった?」
 封筒が膨らんでいない若い同僚が、平野の検査結果を覗き込む。
「お、腫瘍マーカーがプラス? 平野さん、ガン?」
 衝撃を受けた頭に、その言葉は重い。咄嗟に立ち上がりそうになり、無理やり抑えるとひどい顔つきになったらしい。慣れている同僚は、却って面白がった。
「おお、怖。怒んないでよ。平野さんに何かあったら、俺が三沢ちゃんの面倒……」
「決定じゃない。来週、再検受けてくる」
 感情の揺れを、低い声に隠した。リアリティの感じられない文字の中、ガンなのかとそればかりが気になる。結婚したあと、すぐに保険は見直した。確かガンだと確定すれば、過剰なくらい治療費が下りるタイプだ。でも、茜と子供が一生食べて行けるほどの死亡保障じゃない。まだ茜は妊娠していない。つまり今のうちなら、茜に負担をかけずに死んでいける……そこまで考えて、頭を横に振った。再検査が必要と書いてあるだけだ。

 寝床の中で抱き寄せると、茜は素直に身体を預けた。パジャマの上からゆっくり身体の線を辿れば、布越しに弾力のある肌を感じる。秀一の首筋にやわらかい唇が触れ、茜の指がパジャマのシャツの中に潜る。
「秀さん、あったかい」
 そろそろ肌寒くなってきて、部屋の温度も下がっている。茜のパジャマの前を開くと、肌理の細かい肌が僅かに粟立った気がした。胸に唇を這わせ、早くなった鼓動を聞く。
「ん……」
 小さな溜息は、いつもながらに可愛らしい。にも拘らず。
「……」
 ショーツに手を進めようとした秀一は、動きを止めた。これはまずいかも知れないと若干の危惧があり、慌てて自分に落ち着くよう言い聞かせたりする。そして誤魔化すように、茜の胸の先端を噛んだりするのである。
「しゅう、さん?」
 普段と違う手順に、茜が不審な声を出す。ちょっと、いや、かなり――前を肌蹴たままの茜が、秀一の顔を覗き込む。顔、見るなよ。

「悪りい。今日はダメだ」
 これを言うことが屈辱なのは、女にはわからない。
「え、えっと?」
「疲れてるらしいや。今日はオシマイ」
 理解できない顔のまま、茜はパジャマのボタンを閉める。
「今日は、って? 何か、難しい現場だった?」
「いや、仕事じゃなくて……ああっもう! 勃たねえ日もあんだよ!」
 そう言ったきり、秀一は後ろを向いて布団を被った。取り付くしまもなく、茜も布団を被る。腑に落ちない八つ当たりをされたような気分だ。
 なんなのよ。私、何かした?
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