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「何なの、まだ支度できてないの?」
普段着の茜とスウェットの秀一は、聡子の「きちんとした」服装にたじろいだ。
「聡子さん、お茶……」
「ああ、自分で淹れるから、ふたりとも支度して頂戴。今日は忙しいのよ」
「支度って、あとバッグ持つだけ……」
「ショートパンツは似合うけどね、茜ちゃん。ワンピースかなんか、ない? 兄さんも、ブレザー羽織って」
レストランをまわるとは聞いていても、茜はその目的も知らない。カジュアルフレンチかイタリアン、なんて言っていたから、街をウロウロする程度にしか考えていなかった。服装に拘らない会社を退職した後、ファーストフードでアルバイトをする茜は、カジュアルでない服なんて礼服くらいしか持っていない。秀一の実家にはじめて挨拶に行ったときは、リクルートスーツのブラウスを替えただけだった。チェストの前で悩む茜の後ろで、秀一は仏頂面で着替えている。
「秀さん。着るもの、ない」
「山ほどあるじゃねえか。暇さえあれば買ってんだから」
人聞きが悪い。月に一枚か二枚、軽いものを買っているだけだ。さっさとチノパンツを穿いた秀一は襖を開け、どうにかそれらしく組み合わせた茜は、慌てて着替えはじめた。
「たまには夫婦で食事に出るとか、コンサート行くとか……茜ちゃんの年じゃ、お友達とはそんなことしないだろうから、兄さんが連れて出ないと」
茜が身支度を整えるのを待つ間、秀一は聡子の淹れたお茶を啜って、煙草に火を点けた。
「やなこった」
一刀両断に、秀一は返事する。慣れていない相手ならばここで怯んで口を噤むところだが、実の妹には通じない。
「兄さんが嫌でも、茜ちゃんは喜ぶと思うよ。早い結婚させちゃったんだから、足りなくなりそうな社会経験は、兄さんが足さなくちゃ」
理詰めで来られると、女には勝てない。聡子が生まれてから四十年、勝てたことはない。口の中で返事を濁しているうちに、茜は化粧を終えた。
「沿線がいいと思って、いくつかピックアップして予約入れてきたの。後は、話次第かな」
スマートフォンの画面を確認しながら、聡子は秀一の車のナビに所在地を入力する。後ろの座席に座る茜には、ちんぷんかんぷんだ。
「いくつかって……そんなにレストランに行って、何するの?」
えっと驚いた聡子が、座席越しに振り返る。
「兄さん、茜ちゃんに何も言ってないの?」
ウウとかアアとか口の中で呟く秀一に、聡子が畳み掛けた。
「信じられないっ! 主役が知らない結婚式なんて、ありえない!」
「結婚式?」
逆に驚いたのは、茜のほうだった。
「いや、お袋から言われてたことは言われてた……けど、そんなに明確な話だとは」
「じゃあ、なんで私が五時起きして、電車ではるばる来たと思ってんのよ。そこで言っとかなくちゃ、茜ちゃんだって驚くじゃない」
「いや、だって俺はいいとも悪いとも言ってないし」
「結婚式の主役は花嫁のほうなんだから、兄さんは横に立ってればいいの!」
暴言である。
「えっと、結婚式って?」
茜に当然の疑問は、まだ解決されていない。
「茜ちゃんの二十歳のお祝いに、うちの両親からプレゼント。受け取ってやって」
「私の?」
ぼんやりと茜が訊き返す。夢想したことはあっても、現実にはないものだと思っていた。真っ白なドレスと丸いブーケ、その日のためだけの装い。自分だけが夢想しても、それに裂く時間もお金も――
「だってそんな、一日だけのために大金を」
「だから、身内だけでささやかに。ドレス、着たいんじゃない?お母さんも見たいと思ってるよ、きっと」
着たいか着たくないかと問われれば、当然着たい。
「でも私のために、そんな無駄遣い……うちの実家だって、妹が進学したいって……」
「プレゼントだってば。茜ちゃんみたいなお嫁さん貰って、何かしたいのよ。兄さんみたいな、もう一生独身でいるしかないような男、両親も半分諦めてたのに。だから、受け取ってやって」
「いい、んですか?」
おそるおそる訊くのは、まだ現実味がないからだ。
「嫌じゃなければ、うちの両親にも茜ちゃんが家族になる儀式、見せてよ。プレゼントなんて言ってるけど、うちのお母さんが一番喜んでる」
「あ……ありがとうございます」
茜の潤んだ声を聞きながら、秀一も少々もの思う部分はある。前の結婚のときは、実はささやかながら結婚式も挙げたし新婚旅行にも行ったのだ。結果的に出て行った女には未練なんかなかったし、あまり意味のない儀式だったなという感想しかないので、茜とのことについては形式よりも実を取ったつもりでいた。若い娘らしい希望なんて、きっと生活の中に取り紛れてしまうものだろうと。
「で、兄さんは文句ないわね?」
聡子の念押しに、また口の中でアアとか呟く。泣くほど喜ぶようなことなんて、一生に何度も体験はできない。茜がそう望むのなら、異存はない。
近場をいくつか回り、「経験はないけど、やってみましょう」と受け付けてくれた小さなレストランに決めて、聡子はやっと座る気になったらしい。朝から運転手をした秀一はもちろん、結婚式なんて出席経験のない茜もクタクタだ。
「入籍した後だから、人前式っていっても形だけだね。親戚のお食事会みたいになっちゃうかな」
「充分です」
「茜ちゃんは、欲がないね。親兄弟に、もっと甘えていいのに」
母子家庭のつましい家計と、母が仕事に出た後の姉妹の生活は、そのまま茜の性格を形作っている。自分が我儘を通し続けることはできないこと、必要なものと不必要なものを区別し、はっきりと自己主張すること。
「ありがとうございます」
若すぎる妻は、結婚によって「身内」が増える感覚は、まだ掴めない。けれど秀一の実家は、確かに「他人」とは言えない。
満足した顔の聡子を、駅まで送る。
「ドレスのレンタルブティック、ネットから予約してあるから。私は来られないから、お母さんか妹さんと決めてきてね? 楽しみにしてるから」
聡子はそこで、一度言葉を切った。
「兄さんも、ちゃんとタキシード借りるんだよ?」
「わかってる」
「見ものだわね、兄さんのタキシード」
余計な一言を残して、聡子は帰っていった。
普段着の茜とスウェットの秀一は、聡子の「きちんとした」服装にたじろいだ。
「聡子さん、お茶……」
「ああ、自分で淹れるから、ふたりとも支度して頂戴。今日は忙しいのよ」
「支度って、あとバッグ持つだけ……」
「ショートパンツは似合うけどね、茜ちゃん。ワンピースかなんか、ない? 兄さんも、ブレザー羽織って」
レストランをまわるとは聞いていても、茜はその目的も知らない。カジュアルフレンチかイタリアン、なんて言っていたから、街をウロウロする程度にしか考えていなかった。服装に拘らない会社を退職した後、ファーストフードでアルバイトをする茜は、カジュアルでない服なんて礼服くらいしか持っていない。秀一の実家にはじめて挨拶に行ったときは、リクルートスーツのブラウスを替えただけだった。チェストの前で悩む茜の後ろで、秀一は仏頂面で着替えている。
「秀さん。着るもの、ない」
「山ほどあるじゃねえか。暇さえあれば買ってんだから」
人聞きが悪い。月に一枚か二枚、軽いものを買っているだけだ。さっさとチノパンツを穿いた秀一は襖を開け、どうにかそれらしく組み合わせた茜は、慌てて着替えはじめた。
「たまには夫婦で食事に出るとか、コンサート行くとか……茜ちゃんの年じゃ、お友達とはそんなことしないだろうから、兄さんが連れて出ないと」
茜が身支度を整えるのを待つ間、秀一は聡子の淹れたお茶を啜って、煙草に火を点けた。
「やなこった」
一刀両断に、秀一は返事する。慣れていない相手ならばここで怯んで口を噤むところだが、実の妹には通じない。
「兄さんが嫌でも、茜ちゃんは喜ぶと思うよ。早い結婚させちゃったんだから、足りなくなりそうな社会経験は、兄さんが足さなくちゃ」
理詰めで来られると、女には勝てない。聡子が生まれてから四十年、勝てたことはない。口の中で返事を濁しているうちに、茜は化粧を終えた。
「沿線がいいと思って、いくつかピックアップして予約入れてきたの。後は、話次第かな」
スマートフォンの画面を確認しながら、聡子は秀一の車のナビに所在地を入力する。後ろの座席に座る茜には、ちんぷんかんぷんだ。
「いくつかって……そんなにレストランに行って、何するの?」
えっと驚いた聡子が、座席越しに振り返る。
「兄さん、茜ちゃんに何も言ってないの?」
ウウとかアアとか口の中で呟く秀一に、聡子が畳み掛けた。
「信じられないっ! 主役が知らない結婚式なんて、ありえない!」
「結婚式?」
逆に驚いたのは、茜のほうだった。
「いや、お袋から言われてたことは言われてた……けど、そんなに明確な話だとは」
「じゃあ、なんで私が五時起きして、電車ではるばる来たと思ってんのよ。そこで言っとかなくちゃ、茜ちゃんだって驚くじゃない」
「いや、だって俺はいいとも悪いとも言ってないし」
「結婚式の主役は花嫁のほうなんだから、兄さんは横に立ってればいいの!」
暴言である。
「えっと、結婚式って?」
茜に当然の疑問は、まだ解決されていない。
「茜ちゃんの二十歳のお祝いに、うちの両親からプレゼント。受け取ってやって」
「私の?」
ぼんやりと茜が訊き返す。夢想したことはあっても、現実にはないものだと思っていた。真っ白なドレスと丸いブーケ、その日のためだけの装い。自分だけが夢想しても、それに裂く時間もお金も――
「だってそんな、一日だけのために大金を」
「だから、身内だけでささやかに。ドレス、着たいんじゃない?お母さんも見たいと思ってるよ、きっと」
着たいか着たくないかと問われれば、当然着たい。
「でも私のために、そんな無駄遣い……うちの実家だって、妹が進学したいって……」
「プレゼントだってば。茜ちゃんみたいなお嫁さん貰って、何かしたいのよ。兄さんみたいな、もう一生独身でいるしかないような男、両親も半分諦めてたのに。だから、受け取ってやって」
「いい、んですか?」
おそるおそる訊くのは、まだ現実味がないからだ。
「嫌じゃなければ、うちの両親にも茜ちゃんが家族になる儀式、見せてよ。プレゼントなんて言ってるけど、うちのお母さんが一番喜んでる」
「あ……ありがとうございます」
茜の潤んだ声を聞きながら、秀一も少々もの思う部分はある。前の結婚のときは、実はささやかながら結婚式も挙げたし新婚旅行にも行ったのだ。結果的に出て行った女には未練なんかなかったし、あまり意味のない儀式だったなという感想しかないので、茜とのことについては形式よりも実を取ったつもりでいた。若い娘らしい希望なんて、きっと生活の中に取り紛れてしまうものだろうと。
「で、兄さんは文句ないわね?」
聡子の念押しに、また口の中でアアとか呟く。泣くほど喜ぶようなことなんて、一生に何度も体験はできない。茜がそう望むのなら、異存はない。
近場をいくつか回り、「経験はないけど、やってみましょう」と受け付けてくれた小さなレストランに決めて、聡子はやっと座る気になったらしい。朝から運転手をした秀一はもちろん、結婚式なんて出席経験のない茜もクタクタだ。
「入籍した後だから、人前式っていっても形だけだね。親戚のお食事会みたいになっちゃうかな」
「充分です」
「茜ちゃんは、欲がないね。親兄弟に、もっと甘えていいのに」
母子家庭のつましい家計と、母が仕事に出た後の姉妹の生活は、そのまま茜の性格を形作っている。自分が我儘を通し続けることはできないこと、必要なものと不必要なものを区別し、はっきりと自己主張すること。
「ありがとうございます」
若すぎる妻は、結婚によって「身内」が増える感覚は、まだ掴めない。けれど秀一の実家は、確かに「他人」とは言えない。
満足した顔の聡子を、駅まで送る。
「ドレスのレンタルブティック、ネットから予約してあるから。私は来られないから、お母さんか妹さんと決めてきてね? 楽しみにしてるから」
聡子はそこで、一度言葉を切った。
「兄さんも、ちゃんとタキシード借りるんだよ?」
「わかってる」
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