最後の女

蒲公英

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『あ、三沢ちゃん? 平野さんが珍しく酔っ払ってるから、タクシーで帰すよ。寝ないで待ってて』
 元同僚から連絡が来たのは、十一時過ぎだ。飲んで帰ると聞いていたので、遅くなることはわかっていた。普段よりも少し遅いなーなんて思ってはいたのだが、突拍子もない時間ではない。茜と一緒に暮らすようになってからは幾分つきあいが減ったようだが、会社に車を置いて帰ってくることは、そんなに珍しくない。
 生理前で眠いんだけどな、なんて茜は目をこする。立てないほど酔ってなければ良いけど。

 アパートの前で車の停まった音がして、茜は玄関ドアを開けた。タクシーの中からよろめき出てくるのは、秀一だ。足元が危ない。上着を羽織ってサンダルをつっかけ、茜は玄関を出る。寄っただけで、秀一からは酒の匂いがした。
「やだ、そんなに酔って」
「お? ああ、だいじょーぶだ。そんなに……」
 言いかけて秀一は大きくよろけ、慌てた茜が腕をとった。
「大丈夫じゃないじゃないの! どれだけ飲んだのよ」
 酔っ払いにそんなことを質しても、無駄である。
「ほんの五合くらいもんだ、大して酔ってない。うるさい母ちゃんがいるからなあ」
 呂律は当然、回っていない。弱冠二十歳の乙女に向かって「うるさい母ちゃん」は暴言だが、酔っ払いにそれを言っても仕方ない。
「ほら、こっち……何してんのっ!」
「いや、しょんべん……」
「家でトイレ入って!」
 ベルトのバックルを外した秀一に、茜が悲鳴を上げる。こんなに酔っていることなんて、滅多にない。

  引きずるように靴を脱がせ手洗いに押し込むと、大きなマグカップに氷水を入れて茜はふうっと溜息を吐いた。何日か前の夜から、秀一は妙に考え込みがちになっている。あれから布団の中で手を伸ばしてくることもないし、結婚式の話も(といっても、準備なんてないのだが)全然聴いてくれない。同じ職場にいたから、秀一が不機嫌な顔をしているのは現場が上手く回らない時だと、大概の場合は見当がつく。それでも、今回はそんな様子じゃない。
 手洗いから水を流す音が聞こえ、ガタンと大きな音がして秀一がドアを開けた。
「大丈夫?」
 肩を貸すつもりで前に立つと、抱きすくめられた。
「秀さん、お酒くさいっ! まず、水飲もう?」
「水じゃなくて、ビール……」
「だめっ! どうしたのよ?」
 無理矢理身体を傾けて、座卓の前に秀一を座らせて水を飲ませる。手が掛かるったらない。

 おとなしくマグカップの氷水を飲み終えた秀一は、茜をもう一度抱き寄せた。茜は酒臭さに思わず、鼻の頭に皺を寄せる。秀一がこんな風にべたべたすることなんて、今までにはないことだ。
「茜」
 アルコールに火照った顔を寄せ、秀一は茜の唇を探す。
「俺はな、世界で一番おまえが可愛い。いい年して、こうやって可愛い女ができるってのは」
 言葉の途中で茜の唇を塞ぎ、更に腕に力をこめる。
「苦しいよ、秀さん」
 はじめて聞いた甘い言葉は、酒の臭いの立ちこめる中だ。
「俺と一緒は、退屈じゃないか」
「退屈なんてしないよ、秀さんといて幸せだよ?」
 ますます強くなる抱擁で、身体の芯がせつなくなる。秀一らしくない言葉と行動は、ただ酔っているだけなのだろうか。
「秀さんが、世界で一番好き」
 茜の答えに秀一は満足の息を吐き、手を緩めた。

 翌朝、二日酔い気味の胃を抑えながら、秀一は出勤していった。掃除機をかけながら、茜は前夜の秀一の言葉を思い出す。
 世界で私が一番可愛いんだって。たまには、正体不明になってもらうのは悪くないかも。
 普段と違う秀一にいささかの不安はあっても、それを上回る嬉しさがある。一緒に暮らすときだって、茜が「秀さんと一緒にいる」と強く主張したのだ。猫の子じゃないんだから身柄だけを移すわけには行くまいと、入籍を決めたのは秀一だが。秀一があんな風に言葉に出してくれたことなんてないし、あまりにも似合わない。
 心の中の大事箱に、しっかりしまっとかなくちゃ。なんだか、年がら年中取り出しそうだけど。

 一方、いつもより早めに着いた会社のデスクで、沼みたいに濃いお茶を啜りながら、秀一には「やっちゃった」感がある。翌々日が肝臓の再検査でも、結果が出るのは更に一週間後だ。その不安が深酒を呼んだのは確かだが、あまり良い酒じゃなかったようだ。
 いや、思ってもいないことを口に出したんじゃないぞ。
「うえ。平野さん、今日は女子供と目を合わせない方がいいよ。確実に泣かれるから」
 同僚の言葉で、自分の形相がわかる。茜も女子供だけど、別に泣かないぞ?底の一番濃い部分のお茶を啜り終え、秀一はもう一度胃を抑えた。今日は運転は、若い奴に頼もう。
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