最後の女

蒲公英

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「冷えてきたから、今年初お鍋」
 目の前にぐつぐつ煮えている水炊きを見下ろし、秀一は溜息を吐く。よりにもよって酒を飲めない日に鍋っていうのは、どんな拷問だ。
「酎ハイにする? ソーダ買ってきといた」
「いや、メシ」
「お酒は?」
「……いらない」
 座卓の前で胡坐をかくと、茜の不思議そうな顔が見えた。翌日肝臓の検査だとは告げていなかったので、茜としては理由がわからない。
「どうしたの?」
「いや、明日病院に行くから。この前の健康診断の再検査」
「何か、病気だった?」
「検査する前に、病気がわかるかよ」
 返事には、勢いがなかった。

 向かい合わせで鍋をつついて、茜はポン酢の銘柄がどうとかと暢気な話題を出している。まだほんの小娘のくせに、秀一の私生活を習慣ともども変えていってしまう女だ。テレビは賑やかに、バラエティ番組を流している。
 ああ、平和だ。秀一はそう思う。これを平和と言わずして、何を言う。前に破綻させた結婚生活と比較すること自体が間違っているが、こんな風に失いたくないと思ったことはあったろうか。懸命に主婦を努めようとする茜の生活者としての顔は、結婚前に秀一が考えていたよりもずっとリアルでシビアだ。にも拘らず、子供っぽい人懐こさと好奇心が同居していて、そのアンバランスさに手を貸したくなる。
「検査って、どこの検査?」
「肝臓」
 瞬間、ふわふわと舞っている思考が秀一の下に戻ってくると、血液が冷たくなった気がした。

 布団の中で手を伸ばすと、茜は短く「生理」と言った。若干ほっとしながら、茜を胸に抱きかかえる。
「あったかくて、幸せー」
 腕の中で甘える茜をどれほど愛しいと思っているかなんて、秀一の語彙では表せない。態度に出す器用さも、持ち合わせていない。このままでと願う気持ちは、祈りに似ている。

 普段よりも遅めに家を出て、向かったのは大きな総合病院だ。再検査の手続きは通っているので、そんなに待たされることもなく手順が進む。べたべたしたゼリーを塗られたり血を抜かれたり、病院に無縁だった秀一は、検査だけで病気になりそうな気がしてくる。見えてるんだか見えてないんだか、あれこれ画面をプリントアウトするよりも、何が写ってるんだか説明してほしいものである。大体、検査服を着た時点で病人気分になってしまう。
 何の説明もなく一週間後の予約だけして、中途半端な時間なので仕事に戻ることもできずに帰宅することにする。この期に及んで腹が括れないほど自分が生に執着しているとは、思ってもいなかった。ひとりの部屋で年を重ね、生きていくことができなくなれば死んでいくだけだと思っていたのは、そう昔の話じゃない。腑抜けたのか、それとも今までが捨て鉢であったのか。
 ひとりごとみたいに、妻の名前を呟いてみる。無駄な苦労はさせたくない。

「おかえり、早かったね」
「ああ、休んじまった。半端だったからな」
 まだアルバイトから帰ってきたばかりの茜が、エプロンを着ける。
「どうだったの? 検査」
「一週間しないと、結果はわかんねえ。まあ、大したことはないだろ」
 言葉の軽さとはアンマッチな表情で、秀一は座卓の前に胡坐をかいた。ゴンベがいそいそとその上に丸くなり、茜は米を研ぎだした。普段と同じ後姿が、やけに愛しく見えた。
「茜、お茶くれ」
「はーい。私もお米研いだら、プリン食べちゃおっと」
 悪びれない顔で向かいに座る茜は、若すぎて頼りない。

「俺がもしも重大な病気だったら、どうする?」
 そんな風に秀一に言葉をかけられ、茜はいきなり不安になる。ここのところの考え込みがちな横顔と、今日の再検査。秀一が深刻な病を得るわけがないという、根拠のない確信は間違っているだろうか。
「……何か、あったの?」
「いや、別に何もない。思いついただけだ」
 確定なんかしていないし、検査しただけなのだから何もないのである。
「今日、何の検査だったの?」
 答えても答えなくても、結果は一週間後だ。もしも悪い結果が出たときに、急に驚かせるよりも先に触れておいた方がショックは少ないかも知れないと、秀一は考える。
「まだ検査しただけだ。ガンの腫瘍マーカーの結果が、良くなかった」
 ただ、事実だけを伝えた。

 しばらく黙っていた茜は、唇をぎゅっと結びなおした後、すうっと息を吸った。
「なんで、先に言っておいてくれないの?」
 結構な剣幕の言葉に、動揺が見える。
「秀さんは先週からずっとひとりで、良くなかったって知ってたんだよね? 不安じゃなかったの?」
「いや、ただの再検査……」
「ガンの再検査でしょう! それって重要事項でしょう?」
 小娘に詰め寄られる中年は、思わず膝のゴンベの背を撫でた。
「不安なら不安があるって言ってよ! 私じゃ役に立たない?私、秀さんの奥さんなんだよ?」
 泣くと思う間もなく、茜の目に涙が膨れ上がった。

「ガンだろうが脳溢血だろうがアルツハイマーだろうが!」
 茜の息が荒い。秀一は目を丸くして茜を見ていた。こんなに激昂させるようなことをしたのか。余計に不安がらせたくないと思っただけで。
「病院に見放されるような状態だって、私だけは最後まで秀さんと一緒にいるの! そのために奥さんになったんだから! だから、ひとりでそんな風に――!」
 最後は言葉にならずに、泣き声だった。秀一はと言えば、茜の顔を凝視したままだ。

 まさか二十歳の女が、そこまで自分のために覚悟を決めているとは。まだこれからいくらでも新しい生活をやりなおして、楽に生きて行ける年齢なのだ。庇護しなくてはならないと思ってはいても、自分が甘えて良い相手だと思ってはいなかった。自分が庇護できなくなる場合ばかりを考えて、若いからと侮っていた。
「――悪かった」
 小さく詫びた言葉で、茜に何か伝わったろうか。


 一週間後に訪れた総合病院の結果は、呆気なかった。
「肝臓に小さな血腫がありますねー。良性ですから、年に一度ずつ要観察ってことで。あと小さい胆石があります。多分これが、腫瘍マーカーに悪さした原因だと思いますよ。治療するような大きさじゃないですから、気になる症状がなければ放っておいて大丈夫でしょう」
 医師の明るい口調に秀一の身体中の力が抜けたのは、言うまでもない。その場で茜にメールを打って、ついでに本日買っておいて欲しい酒の銘柄も伝えた。内に力が漲ってくるのが、自分ながら単純だと思う。
 会社に戻って安全靴の紐を締め上げながら、茜の生理は終わったのかなと、ふと考える。そうか、最後まで一緒にいるのは、あいつなのか。
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