50 / 60
50.
しおりを挟む
茜が新しい勤めに入って、一番最初の日曜日のことだ。座卓にお茶を置きながら、茜の視線は秀一のてっぺんに落ちた。
「白髪、抜いていい?」
「止めろバカ、触んなっ!」
秀一の髪は黒くて硬かった。過去形なのは、昔より細くなった気がするからだ。その中に混じり始めている白髪は、まだ抜こうと思えば抜ける量、かも知れない。けれど秀一は知っている。問題はてっぺん付近の目立つ場所ではなく、ふと分けた分け目や生え際だ。それを全部抜くとなると、かなりアヤシイ……もとい、やばいことになりそうな気がする。
「だってこれ、なんだか目立つ」
白髪ってのは、やたら元気だ。髪を撫で付けているわけじゃないが、短い髪の中から真っ白い毛が伸びてきている。
「一本だけ飛び出てて、ヘン」
「放っとけ」
抜いた後に黒い髪が生えてくるとは限らない。ってか、黒い髪である確率のほうが低いのだ。まして、抜き続ければヘタってくる毛根のほうが遥かにヤバい。
比較的遅いほう、だとは思う。同年代の中には地肌の透けて見える者や胡麻塩頭になっている者もいる。加齢しているのだから仕方のないことだとは思うが、嬉しくはない。
「よく見ると、結構多いね。ほら、後ろのほう」
先週行った理髪店でも、増えたと言われたばかりだ。胡麻塩もなかなかカッコいいんだけどね、なんて理容師は言っていたのだが。
若く見えるタチじゃない。日焼けの染みついた肌も太い首も、内勤の多い職種と較べれば老けて見える材料だ。着るものは、茜の見立てが入るようになってから改善されたと思うが、年齢より下に見えたことはない。
「……爺むさいか」
外見は他人が不快に思わなければ、それほど気にならなかったはず、であった。気にするようなご面相でもないし、自分の外見の評価は圧倒的に「怖い」の意見が多いのだ。しかし今、隣をうろちょろ歩いているのは、どう見ても二十歳の娘なのである。普段のショートパンツ姿の伸びやかな手足も若々しいが、新しい勤め先のための少々改まった服装も初々しい。
親子だと認識されるのなら、まだいい。問題は、夫婦と認識されるときである。どう見ても不似合いなのは仕方ないが、そればかりが強調されるようなことはご免だ。
「爺むさいってわけじゃないんだけど……秀さんの髪って切ってるだけだから、もうちょっと遊び心みたいなの入れても」
「頭に何かつけるとか、朝ドライヤーでどうこうとかってのは、意味ねえぞ。現場行きゃあヘルメットだし、後は車に乗って帰るだけなんだから」
「……自分からそんなことするなんて、はじめっから思ってない」
秀一はけして身なりをおろそかにしているわけじゃないと、茜は知っている。煙草を買いに出るときもジャージのままなんてことはないし、Tシャツの首が伸びたものなんて、着ない。ただ疎いのである。デザインが古くなったとか、普段着とスーツの両方に同じ皮ベルトはいかがなものかとか、そういうことに興味がないらしい。茜なりにコーディネートを繰り返し、秀一も慣れてきた。
「もう少し、短いほうがいいかな」
秀一の髪をひとつまみ持ち上げながら、茜は呟いた。
ゴンベの餌を買い求めるために入ったドラッグストアで、茜は秀一の袖を引いた。
「ねえ、こんな色どう?」
示されたのは、いわゆるヘアカラーリング剤だ。外箱にはかっこいい兄ちゃんが、にっこりしている絵がついている。自然の色ではない髪色は、イラストだからこそ良く見えるのである。秀一の会社でも若い男たちが、髪に色をつけている。営業みたいに外見重視でない職域なので、失礼に当たらない色であれば、特別に注意することはない。ただし、それはあくまでも他人の話だ。秀一は今まで、髪の色を変えたいと思ったことはない。
「そんな赤い髪した親父、どこにいるってんだ」
「最近のお父さんたちは、おしゃれだもん。資料館の人たちも、染めてる人いるよ」
茜の新しい職場は、若い人よりも年配者のほうが多い。公的な施設なので、それなりに堅い人間たちのはずだ。茜はもうひとつ、手に取った。
「こんな色の人とか」
はじめに見せられたものより、更に色が薄い。
「どこのファンキー親父だ、それは」
「そんなに珍しい色じゃないって。これくらいなら、わざとらしくない」
「やなこった」
もともとが黒い髪の秀一からすれば、そんな色にするのは若作りで年甲斐のない男に見える。
「ん、じゃあ、これくらい?」
今度は濃い目の茶褐色を差し出され、深く考えずに頷いた。
「それくらいなら、いるな」
「それじゃ、これにしよう。家に帰ったら、やってあげる」
ちょっと待て。今のは承認の言葉じゃない。そう言う間もなく、茜はレジに向かって歩いていった。
上半身裸で首の周りにタオルを巻かれ、ゴム手袋に覆われた嫁の手が、頭の上を動き回っている。帰宅したらもうどうでもいい気分になってしまって、生え際にクリームやポリエチレンラップの耳カバーも、なされるがままである。嬉々として髪を掻き混ぜていた茜が、仕上げにシャワーキャップを被せた。
「十五分待ってね。そうしたらお風呂で、色が出なくなるまでシャンプーして」
「わかった」
箱についている絵がリアルな色であるならば、そんなに派手な色じゃないはずだ。出社しても、白髪が目立たなくなったと言われるだけだ。自分をそう納得させ、時間を待つ。頭を覆うシャワーキャップは不快だが、テレビを眺めているうちに薄ぼんやりと眠くなってきた。
「秀さん、大変! 三十分経っちゃった!」
少し目を瞑っただけのつもりなのに、うとうとしてしまったらしい。慌てて浴室に入り、髪を流す。目の下を茶色の湯が流れ、なんだか良くない予感がする。浴室の鏡は曇ってしまっているし、濡れた髪は黒く見えるから、効果は定かでない。シャンプーを泡立てると、髪に今まで感じたことのないきしみを感じたので、普段は使わない茜のトリートメント剤を拝借した。髪を染めると毛根に良くないと、聞いたことがある気がする。思わずてっぺんの感触を確認してしまう。
脱衣場から出ると、茜がドライヤーを手に待っていた。普段は髪を乾かす習慣もないので、おとなしく座って乾かしてもらう。
「あちゃー。ちょっと抜けすぎちゃったかなあ。でも今まで黒すぎたし、こっちのほうが若く見える」
茜の声が怖い。自分の髪が何色になったんだか、早く確認したい。生乾きの状態で、秀一は茜の化粧用のスタンドミラーを覗き込んだ。
「……戻んないのか、これ?」
鏡の中の自分の髪は、まさにパッケージと同じ色である。つまり、茶褐色。ずっと生まれながらの黒い髪を見慣れてきた秀一には、ひどい違和感がある。若いヤツにでも注意するような色合いじゃなくて、常識の範囲内の色ではある。けれど、茶褐色。
「若く見えるってば。悪くないよ」
「そうか?」
「本当。嘘吐かない」
茜に不信の目を向け、翌日の出勤を思う。何言われるか、わかったもんじゃない。
「どうしたんすか? 朝から張り切って、頭にタオル巻いて」
翌朝、出発前の社内では、頭にタオルを海賊巻きした秀一の姿があった。電灯の下では暗い茶褐色に見えていた髪は、出勤前にドアミラーで確認すると、梨色だった。
「平野さん。今日は朝礼があるから、タオルはまずいんじゃない?」
同僚に言われてしぶしぶタオルを取ると、視線は秀一の髪に集中した。
「お、かっこいい!」
「若返った!」
肯定の言葉が有難かったが、入室してきた上司は一言。
「ヤンキーくさいな、それ」
注意されたほうがまだ、マシだったかも知れない。
「白髪、抜いていい?」
「止めろバカ、触んなっ!」
秀一の髪は黒くて硬かった。過去形なのは、昔より細くなった気がするからだ。その中に混じり始めている白髪は、まだ抜こうと思えば抜ける量、かも知れない。けれど秀一は知っている。問題はてっぺん付近の目立つ場所ではなく、ふと分けた分け目や生え際だ。それを全部抜くとなると、かなりアヤシイ……もとい、やばいことになりそうな気がする。
「だってこれ、なんだか目立つ」
白髪ってのは、やたら元気だ。髪を撫で付けているわけじゃないが、短い髪の中から真っ白い毛が伸びてきている。
「一本だけ飛び出てて、ヘン」
「放っとけ」
抜いた後に黒い髪が生えてくるとは限らない。ってか、黒い髪である確率のほうが低いのだ。まして、抜き続ければヘタってくる毛根のほうが遥かにヤバい。
比較的遅いほう、だとは思う。同年代の中には地肌の透けて見える者や胡麻塩頭になっている者もいる。加齢しているのだから仕方のないことだとは思うが、嬉しくはない。
「よく見ると、結構多いね。ほら、後ろのほう」
先週行った理髪店でも、増えたと言われたばかりだ。胡麻塩もなかなかカッコいいんだけどね、なんて理容師は言っていたのだが。
若く見えるタチじゃない。日焼けの染みついた肌も太い首も、内勤の多い職種と較べれば老けて見える材料だ。着るものは、茜の見立てが入るようになってから改善されたと思うが、年齢より下に見えたことはない。
「……爺むさいか」
外見は他人が不快に思わなければ、それほど気にならなかったはず、であった。気にするようなご面相でもないし、自分の外見の評価は圧倒的に「怖い」の意見が多いのだ。しかし今、隣をうろちょろ歩いているのは、どう見ても二十歳の娘なのである。普段のショートパンツ姿の伸びやかな手足も若々しいが、新しい勤め先のための少々改まった服装も初々しい。
親子だと認識されるのなら、まだいい。問題は、夫婦と認識されるときである。どう見ても不似合いなのは仕方ないが、そればかりが強調されるようなことはご免だ。
「爺むさいってわけじゃないんだけど……秀さんの髪って切ってるだけだから、もうちょっと遊び心みたいなの入れても」
「頭に何かつけるとか、朝ドライヤーでどうこうとかってのは、意味ねえぞ。現場行きゃあヘルメットだし、後は車に乗って帰るだけなんだから」
「……自分からそんなことするなんて、はじめっから思ってない」
秀一はけして身なりをおろそかにしているわけじゃないと、茜は知っている。煙草を買いに出るときもジャージのままなんてことはないし、Tシャツの首が伸びたものなんて、着ない。ただ疎いのである。デザインが古くなったとか、普段着とスーツの両方に同じ皮ベルトはいかがなものかとか、そういうことに興味がないらしい。茜なりにコーディネートを繰り返し、秀一も慣れてきた。
「もう少し、短いほうがいいかな」
秀一の髪をひとつまみ持ち上げながら、茜は呟いた。
ゴンベの餌を買い求めるために入ったドラッグストアで、茜は秀一の袖を引いた。
「ねえ、こんな色どう?」
示されたのは、いわゆるヘアカラーリング剤だ。外箱にはかっこいい兄ちゃんが、にっこりしている絵がついている。自然の色ではない髪色は、イラストだからこそ良く見えるのである。秀一の会社でも若い男たちが、髪に色をつけている。営業みたいに外見重視でない職域なので、失礼に当たらない色であれば、特別に注意することはない。ただし、それはあくまでも他人の話だ。秀一は今まで、髪の色を変えたいと思ったことはない。
「そんな赤い髪した親父、どこにいるってんだ」
「最近のお父さんたちは、おしゃれだもん。資料館の人たちも、染めてる人いるよ」
茜の新しい職場は、若い人よりも年配者のほうが多い。公的な施設なので、それなりに堅い人間たちのはずだ。茜はもうひとつ、手に取った。
「こんな色の人とか」
はじめに見せられたものより、更に色が薄い。
「どこのファンキー親父だ、それは」
「そんなに珍しい色じゃないって。これくらいなら、わざとらしくない」
「やなこった」
もともとが黒い髪の秀一からすれば、そんな色にするのは若作りで年甲斐のない男に見える。
「ん、じゃあ、これくらい?」
今度は濃い目の茶褐色を差し出され、深く考えずに頷いた。
「それくらいなら、いるな」
「それじゃ、これにしよう。家に帰ったら、やってあげる」
ちょっと待て。今のは承認の言葉じゃない。そう言う間もなく、茜はレジに向かって歩いていった。
上半身裸で首の周りにタオルを巻かれ、ゴム手袋に覆われた嫁の手が、頭の上を動き回っている。帰宅したらもうどうでもいい気分になってしまって、生え際にクリームやポリエチレンラップの耳カバーも、なされるがままである。嬉々として髪を掻き混ぜていた茜が、仕上げにシャワーキャップを被せた。
「十五分待ってね。そうしたらお風呂で、色が出なくなるまでシャンプーして」
「わかった」
箱についている絵がリアルな色であるならば、そんなに派手な色じゃないはずだ。出社しても、白髪が目立たなくなったと言われるだけだ。自分をそう納得させ、時間を待つ。頭を覆うシャワーキャップは不快だが、テレビを眺めているうちに薄ぼんやりと眠くなってきた。
「秀さん、大変! 三十分経っちゃった!」
少し目を瞑っただけのつもりなのに、うとうとしてしまったらしい。慌てて浴室に入り、髪を流す。目の下を茶色の湯が流れ、なんだか良くない予感がする。浴室の鏡は曇ってしまっているし、濡れた髪は黒く見えるから、効果は定かでない。シャンプーを泡立てると、髪に今まで感じたことのないきしみを感じたので、普段は使わない茜のトリートメント剤を拝借した。髪を染めると毛根に良くないと、聞いたことがある気がする。思わずてっぺんの感触を確認してしまう。
脱衣場から出ると、茜がドライヤーを手に待っていた。普段は髪を乾かす習慣もないので、おとなしく座って乾かしてもらう。
「あちゃー。ちょっと抜けすぎちゃったかなあ。でも今まで黒すぎたし、こっちのほうが若く見える」
茜の声が怖い。自分の髪が何色になったんだか、早く確認したい。生乾きの状態で、秀一は茜の化粧用のスタンドミラーを覗き込んだ。
「……戻んないのか、これ?」
鏡の中の自分の髪は、まさにパッケージと同じ色である。つまり、茶褐色。ずっと生まれながらの黒い髪を見慣れてきた秀一には、ひどい違和感がある。若いヤツにでも注意するような色合いじゃなくて、常識の範囲内の色ではある。けれど、茶褐色。
「若く見えるってば。悪くないよ」
「そうか?」
「本当。嘘吐かない」
茜に不信の目を向け、翌日の出勤を思う。何言われるか、わかったもんじゃない。
「どうしたんすか? 朝から張り切って、頭にタオル巻いて」
翌朝、出発前の社内では、頭にタオルを海賊巻きした秀一の姿があった。電灯の下では暗い茶褐色に見えていた髪は、出勤前にドアミラーで確認すると、梨色だった。
「平野さん。今日は朝礼があるから、タオルはまずいんじゃない?」
同僚に言われてしぶしぶタオルを取ると、視線は秀一の髪に集中した。
「お、かっこいい!」
「若返った!」
肯定の言葉が有難かったが、入室してきた上司は一言。
「ヤンキーくさいな、それ」
注意されたほうがまだ、マシだったかも知れない。
0
あなたにおすすめの小説
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛
MisakiNonagase
恋愛
二十六歳のレンが働くオフィスビルには、清掃員として七十歳のカズコも従事している。カズコは愛嬌のある笑顔と真面目な仕事ぶりで誰からも好かれていた。ある日の仕事帰りにレンがよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコもいた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、ごく普通の装いだったがカズコの姿が輝いて見えた。それから少しづつ話すようになり、二人は年の差を越えて恋を育んでいくストーリーです。不倫は情事かもしれないが、この二人には情状という言葉がふさわしい。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる