最後の女

蒲公英

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番外/夏祭り

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 説明書を睨みながら秀一の帯を締め終えた茜は、動画を見ながら悪戦苦闘して自分の浴衣を着つけ、ようやく自分の出した成果を目にした。乳児には甚平型のロンパースを着せ、準備完了。
「お祭りだよ、さっちゃん」
 まだ日本語を解さない小さな子供は、抱き上げられて顔に花を咲かせた。

 先に外に出て煙草を吸っていた秀一も、乳児お出かけ用の大き目なバッグを手にした。これから保育園に通うことを踏まえて男にも持ち歩きやすいデザインにしたので、そんなに違和感はない。
 それよりも、その立ち姿だ。

 浴衣は腰が細くて足の長いすっきりしたプロポーションより、がっしりした下半身に重心のある男の方が粋に見える。少々寛いだ襟元の首の太さや腹の下で締めた帯のおさまり、歩くと乱れる裾から覗く脛に続くごつい足。広い背中を通る背縫いは、遮った帯の下で張った尻を通る。
 やあん、秀さんかっこいい! 浴衣はやっぱりベージュで正解だった。怖い顔が緩和されてるもん、見立て成功!
 つまり秀一は自分で選ぶ気は皆目なく、茜が自分のものと一緒にネット通販で取り寄せたってことである。ってか、どうせ暑いとか文句を言われるのなら、自分の好みで取り寄せちゃって目の前に差し出した者の勝ちだ。一緒に買いに行くなんて言えば億劫がって、やっぱり着ないと言う。

 日が落ちても一向に涼しくならないアスファルトの道路を、ベビーカーを押しながら歩く。乳児を抱えている現在、大して派手でもない近所の祭りに出かけるのが精一杯だ。だからこそ、少しだけ普段と違う装いをしたかった。近場でも気分を変えれば、立派なレジャーだ。

 それにしてもねえ、と茜は横を歩く秀一をちらりと見る。日本人体型の秀一は腰骨の上で帯がきっちり止まり、その分襟を少々寛げてもだらしなくない。安価な浴衣だから家でじゃぶじゃぶ洗うつもりで肌着もつけていないので、胸元から肌が覗いているのだ。
 いいよねえ、うちの旦那様。見栄えじゃなくて、味があるっていうの? どっしりしてて頼り甲斐ありそうっていうか、とにかくいいの!
 大丈夫、他人に聞かせてるんじゃない。茜が頭の中で考えているだけであって、大抵の人にはむさ苦しいおっさんが若い奥さんと歩いているように見えるのみである。

 参道でベビーカーをたたみ、氏神様にお参りをする。新参の氏子はお宮参りも略式だったから、神様にもう一度顔を見せておきたいと思う。
 さちという名前は、秀一がつけた。多くは語らない男だから、籠めた願いを聞いたわけじゃない。呼びやすくわかりやすい良い名前だと、誰からも反対の声は上がらなかったから、秀一の命名はそのまま届出をされた。

 神社の中は、中途半端に混雑している。細い身体を補正するために胴体にタオル二重巻の茜は、腹が汗疹になるのではと思う。子供はもう縦に抱ける大きさだが、体温は大人の比じゃない。ってか、あっつい!
 額に張り付いた前髪を伝って流れてくる汗は、子供を抱いたままだと拭えない。
「秀さん、汗拭いてぇ」
 そう言ってから、近付いてくる手拭いを思わず避けた。秀一は化粧なんて気にせずに、無造作に顔をこするだろう。
「じゃなくって、ごめん。さっちゃん抱いてて」
 荷物を交換して、秀一が子供を抱き上げた。

 なんか、いいな。さっちゃんだけ抱っこしてもらって、胸元に手なんか入れちゃって、ずるいじゃん。もともとは私の場所だったんだぞ、そこ。最近さっちゃんが使ってるけどさ。
 赤子に妬いても仕方がないし、不器用ながら子煩悩な秀一に感謝はしているのだが、たまには自分だって可愛がってもらいたい。幸が生まれるまで秀一の胡坐の中は自分の席だったのだし、帰宅を迎えるときにだって自分よりも幸の顔を見るほうが先なんて、取り残され感満載。

 茜だって自分が子供っぽいとは思う。産院で仲良くなった人の中には、旦那さんがぜんぜん子育てに無関心でーって愚痴を言う人も多いのだから、恵まれているのだと思う。
 だけどだけどだけどっ! 私だって頑張ってるんだから、前みたいに甘えたい日もあるのっ!

 幸をベビーカーに乗せて夜店をひやかしていると、だんだんと道が混雑し始めて動きにくくなってきた。秀一はプラスティックカップの生ビール片手である。ヨーヨー釣りの水風船をベビーカーに括りつけると、幸はそれをつついて遊んでいる。
「私もかき氷食べようかな」
 夜店にベビーカーを向けようとしたら、茜と同年代に見える娘の足を轢いた。

「痛ーいっ」
「あ、ごめんなさい!」
 謝った茜を振り向きもせず、娘は男の腕にぶら下がった。
「混んでるんだから、ベビーカーでなんか来ないでよねえ。他人の迷惑より自分優先の母親になんかなりたくないな」
 面と向かわなくても、聞かせるための言葉である。

 しょぼくれた先に、ベビーカーで機嫌良くしていた幸が、ぐずぐずしだした。抱き上げて機嫌を取っても、ベビーカーに戻すとまた泣き出してしまう。
「背中が暑いんじゃないか? こっちより座ってる方が、アスファルトに近いから」
 今度は秀一が幸を抱き上げ、ベビーカーの座席には荷物が乗った。幸の顔も汗だらけで、確かに暑くてぐずっているのかも知れない。
 人混みはもう、歩くのが辛い。限界なのかも知れない。
「たこ焼きとお好み焼きとリンゴ飴買って、帰る」
 食べ歩きはあきらめた方が良さそうだ。

 夜店の列に並ぶために、茜は秀一と幸を道の隅に残した。幸を抱いた腕を揺すりながら、秀一は歩いていく茜の後姿を見ていた。
 楽しみにしてたのにな。短い時間だったけど、少しは気が済んだか?

 後期から大学に通う予定の茜ではあるが、今現在は子育て奮闘中だ。同年代の友達は海だ旅行だと夏を謳歌しているだろうに、茜は狭い部屋で赤子とにらめっこである。慣れない子育てを手伝う手はいくつかあるが(母親や妹や近所のおばさんだ)、手伝いはあくまでも手伝いであって、メインは茜だ。
 そこに不満はなくとも、閉塞感はあるのではないだろうか。

 と、大真面目な考察はともかく、茜が楽しみにしていたのは知っていたし、知っていたからこそ面倒な浴衣も着た。腕の中の幸も、白湯を飲ませてもらって少々落ち着いた。自分は中生二杯で、充分満足だ。
 うん、家に帰ったら飲みなおすけどな。
 ビニール袋をいくつかとリンゴ飴を下げた茜を伴い、早々に祭りから抜けた。乳飲み子を連れた外出なんて、こんなもんである。

 高い位置で文庫に結んだ帯の下の尻は、無防備だ。子供を抱いて早めの帰途につく秀一の前には、量販店で間に合わせに買った浴衣の尻がある。いやさ、尻だけが歩いているわけじゃない。その尻に繋がっているのは茜本体だ。
 直線に近いラインの中で、僅かに後ろに膨らんだ部分がもこもこと動く。茜が前を歩いていたのは短い時間だけだったというのに、腕の中には花火に怯えてぐずぐずと泣いている子供がいるというのに、秀一はその尻の形を思い描いていた。

 別に珍しいものじゃない。普段のショートパンツや薄い部屋着のほうが尻の形はくっきり見える。それどころか一枚も纏わぬ形ですら、度々目にしているのだ。(って言っても、出産後の回数は劇的に減っている。夜中の授乳時期も難しかったが、川の字で寝ていたりするので手を伸ばし難い。まして授乳期は、胸に触られたくないらしい)
 にも拘わらず、その尻の動きが気になって仕方ないとは何事だ。

 帰宅すると、幸は眠ってしまっていた。入浴させないと汗疹が心配だが、着ているものを脱がせても起きないので、さっと身体を拭いて寝かせてしまうことにする。たまにはものぐさしても、いいじゃないか。
「さっちゃん、ミルク飲まないで寝ちゃったけど、おなか空かないかなあ」
「そしたら起きるんじゃないか? まあ、親も腹は減るから」
 まだ浴衣のままの夫婦は、差し向かいでたこ焼きをつついた。

 胡坐を掻いた秀一の、浴衣の裾が大きく乱れる。その足の間に、ちょっと座りたい。数か月前まで当然だった行為は、間が空いてしまうと気恥ずかしい。
 座っちゃおうかな、どうしようかなと茜が迷っていると、秀一はおもむろに口を開いた。
「ちょっと立って後ろ向け」
「何?」
「さっきから気になって仕方ねえ」
 言われるがままに背中を向けると、厚い掌が茜の尻を覆った。

「ちっ痴漢! エロ親父!」
「久しぶりだな、そのフレーズ」
 言いながら尻の線を辿る秀一の手は、ふと止まる。
「パンツ穿いてないのか?」
「そんなわけないでしょ。Tバック穿いて……」
 言い終わる前に、裾を割られた。

「シャワーだけだから、一緒でいいだろ」
 するすると帯を解く秀一の、言いたいことはわかる。先刻隙間から見えていた胸の全貌があらわれ、茜はそこに寄りかかりたくなった。
 うん、甘ったれたいんだもん。ちょっとしかいられなかったけど、三人でお祭りに行けて嬉しかったし。

 身体を洗う間も惜しく忙しくシャワーを浴びたふたりは、そのまま居間で仲良しするはずだった。タオルを外していざキスから、とそのとき。

「ふぇぇぇん」
 寝室から、小さな泣き声が聞こえた。勝手に泣き止むかと息を詰めて待つこと数秒、今度ははっきりとした泣き声が。
「うええええん!」

 ミルクを飲まずに眠った赤子の、おなか空いたコールであった。




fin.
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