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第77話『返却された傘』怖さ:☆☆☆☆☆
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大雨の夜、駅前で見知らぬ男に傘を貸した。
その男は五十代くらいで、濡れた髪を額に張り付かせながら雨宿りをしていた。スーツは高級そうだったが、靴は泥だらけで、なぜか傘を持っていなかった。
「すみません、これ使ってください」
俺が声をかけると、男は振り返った。疲れ切った表情だったが、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。必ずお返しします」
男は俺の名刺を受け取ると、ビニール傘を大切そうに受け取って雨の中に消えていった。
翌朝、玄関前に傘が戻っていた。
きちんと水滴を拭き取って、持ち手に丁寧な字で「ありがとうございました」と書かれた紙が巻きつけてあった。几帳面な人だな、と俺は感心した。
しかし傘をよく見ると、妙に汚れていた。泥だけでなく、茶色い染みのようなものが骨の部分についている。昨日は新品だったのに。
俺は首をひねりながら傘を傘立てに戻した。
その日の夕方、雨が降り出した。俺は戻ってきた傘を持って外出した。
電車の中で、傘の柄を握っていると、妙に温かいことに気づいた。まるで人の体温のような温もりだった。そして、微かに鉄の匂いがした。
家に帰ると、妻の美咲が怪訝そうな顔をした。
「あなた、その傘どうしたの?」
「昨日貸した傘が戻ってきたんだ」
「でも、その傘から変な水が垂れてるわよ」
俺は傘を見た。確かに持ち手の部分から、赤茶色の液体がぽたぽたと床に落ちている。
「おかしいな。さっきまでこんなじゃなかった」
俺は傘を風呂場で洗った。しかし、どんなに洗っても赤茶色の液体は止まらなかった。まるで傘の内部から湧き出ているようだった。
その夜、俺は気になって男のことを調べてみた。名刺には住所が書いてあったからだ。
ネットで検索すると、その住所は三年前に取り壊されたマンションの跡地だった。そして驚いたことに、そのマンションでは三年前に一家心中事件が起きていた。
新聞記事を読むと、五十代の会社員・田中良太郎さんが、妻と娘を殺害した後に自殺したとあった。記事に掲載された写真の男は、俺が昨夜会った男に似ていた。
俺は背筋が寒くなった。しかし、人違いかもしれない。似ている人はいくらでもいる。
翌日、俺は田中さんの元勤務先に電話してみた。
「田中良太郎さんのことですか?ええ、優秀な営業マンでしたが、最後の方は会社の金に手をつけて……事件の前日も、雨の中をふらふらと歩いているのを見かけました。傘も持たずに」
俺の手が震えた。
「事件は何日前でしたっけ?」
「ちょうど三年前の、大雨の夜でした」
俺が傘を貸したのは、三年前の同じ日だった。
慌てて家に帰ると、玄関の傘立てが異様な光景になっていた。昨日一本だった傘が、三本に増えていた。
どれも同じビニール傘だったが、それぞれ違う汚れ方をしていた。一本は血のような染み、一本は泥だらけ、一本は焦げたような跡がついていた。
俺は恐る恐る傘を調べた。それぞれの持ち手に、紙が巻きつけてあった。
一本目:「妻の分もありがとうございました」
二本目:「娘の分もありがとうございました」
三本目:「僕の分も、最後までありがとうございました」
俺は震え上がった。そして気づいた。傘立ての水滴は、外から滴ったものではなかった。家の中から、内側から滲み出ていた。
防犯カメラを確認すると、夜中に玄関前に三つの人影が映っていた。男性と女性、そして小さな子供だった。三人とも濡れた服を着て、それぞれ傘を持って立っていた。
そして三人とも、首に深い切り傷があった。
映像の最後で、男性がこちらを向いた。昨夜の男だった。口を動かして何かを言っている。
俺は唇を読んだ。
「一緒に、来ませんか」
その瞬間、玄関のドアがゆっくりと開いた。
三人の人影が、家の中に入ってきた。床に水溜りを作りながら、俺の前に立った。
「あなたに傘を借りたとき、決めたんです」男が言った。「この人になら、お願いできるって」
妻らしき女性が微笑んだ。喉の傷から血が流れている。
「雨の日は、いつも寂しかったんです。でも今度は、一緒に歩く人がいる」
小学生くらいの女の子が俺の手を取った。冷たく湿った手だった。
「お父さんとお母さんと、みんなで雨の中を歩きましょう。ずっと、ずっと」
俺は逃げようとしたが、三人の手が俺の体を包んだ。冷たい雨のような感触だった。
気がつくと、俺は雨の中を歩いていた。傘を差して、田中さん一家と並んで歩いている。
街の人々は俺たちを見ることができないらしい。雨に濡れた俺たちの姿は、もう生者の世界に属していない。
「ありがとうございます」田中さんが言った。「これで僕たちも、永遠に家族でいられます」
俺は気づいた。俺たちは同じ道を延々と歩き続けている。駅前から田中さんの元の家まで、そしてまた駅前へ。雨の夜の永遠のループ。
家では妻の美咲が俺を探しているだろう。しかし俺はもう、雨の中でしか存在できない。
田中さん一家と共に、濡れた道を歩き続ける。
傘を差しながら、永遠に。
そして俺は理解した。俺たちは今、新しい誰かを探している。雨に濡れて困っている人を。
その人に傘を貸すために。
その人を、俺たちの永遠の雨の行進に加えるために。
今夜も雨が降っている。俺たちは駅前で、新しい仲間を待っている。
その男は五十代くらいで、濡れた髪を額に張り付かせながら雨宿りをしていた。スーツは高級そうだったが、靴は泥だらけで、なぜか傘を持っていなかった。
「すみません、これ使ってください」
俺が声をかけると、男は振り返った。疲れ切った表情だったが、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。必ずお返しします」
男は俺の名刺を受け取ると、ビニール傘を大切そうに受け取って雨の中に消えていった。
翌朝、玄関前に傘が戻っていた。
きちんと水滴を拭き取って、持ち手に丁寧な字で「ありがとうございました」と書かれた紙が巻きつけてあった。几帳面な人だな、と俺は感心した。
しかし傘をよく見ると、妙に汚れていた。泥だけでなく、茶色い染みのようなものが骨の部分についている。昨日は新品だったのに。
俺は首をひねりながら傘を傘立てに戻した。
その日の夕方、雨が降り出した。俺は戻ってきた傘を持って外出した。
電車の中で、傘の柄を握っていると、妙に温かいことに気づいた。まるで人の体温のような温もりだった。そして、微かに鉄の匂いがした。
家に帰ると、妻の美咲が怪訝そうな顔をした。
「あなた、その傘どうしたの?」
「昨日貸した傘が戻ってきたんだ」
「でも、その傘から変な水が垂れてるわよ」
俺は傘を見た。確かに持ち手の部分から、赤茶色の液体がぽたぽたと床に落ちている。
「おかしいな。さっきまでこんなじゃなかった」
俺は傘を風呂場で洗った。しかし、どんなに洗っても赤茶色の液体は止まらなかった。まるで傘の内部から湧き出ているようだった。
その夜、俺は気になって男のことを調べてみた。名刺には住所が書いてあったからだ。
ネットで検索すると、その住所は三年前に取り壊されたマンションの跡地だった。そして驚いたことに、そのマンションでは三年前に一家心中事件が起きていた。
新聞記事を読むと、五十代の会社員・田中良太郎さんが、妻と娘を殺害した後に自殺したとあった。記事に掲載された写真の男は、俺が昨夜会った男に似ていた。
俺は背筋が寒くなった。しかし、人違いかもしれない。似ている人はいくらでもいる。
翌日、俺は田中さんの元勤務先に電話してみた。
「田中良太郎さんのことですか?ええ、優秀な営業マンでしたが、最後の方は会社の金に手をつけて……事件の前日も、雨の中をふらふらと歩いているのを見かけました。傘も持たずに」
俺の手が震えた。
「事件は何日前でしたっけ?」
「ちょうど三年前の、大雨の夜でした」
俺が傘を貸したのは、三年前の同じ日だった。
慌てて家に帰ると、玄関の傘立てが異様な光景になっていた。昨日一本だった傘が、三本に増えていた。
どれも同じビニール傘だったが、それぞれ違う汚れ方をしていた。一本は血のような染み、一本は泥だらけ、一本は焦げたような跡がついていた。
俺は恐る恐る傘を調べた。それぞれの持ち手に、紙が巻きつけてあった。
一本目:「妻の分もありがとうございました」
二本目:「娘の分もありがとうございました」
三本目:「僕の分も、最後までありがとうございました」
俺は震え上がった。そして気づいた。傘立ての水滴は、外から滴ったものではなかった。家の中から、内側から滲み出ていた。
防犯カメラを確認すると、夜中に玄関前に三つの人影が映っていた。男性と女性、そして小さな子供だった。三人とも濡れた服を着て、それぞれ傘を持って立っていた。
そして三人とも、首に深い切り傷があった。
映像の最後で、男性がこちらを向いた。昨夜の男だった。口を動かして何かを言っている。
俺は唇を読んだ。
「一緒に、来ませんか」
その瞬間、玄関のドアがゆっくりと開いた。
三人の人影が、家の中に入ってきた。床に水溜りを作りながら、俺の前に立った。
「あなたに傘を借りたとき、決めたんです」男が言った。「この人になら、お願いできるって」
妻らしき女性が微笑んだ。喉の傷から血が流れている。
「雨の日は、いつも寂しかったんです。でも今度は、一緒に歩く人がいる」
小学生くらいの女の子が俺の手を取った。冷たく湿った手だった。
「お父さんとお母さんと、みんなで雨の中を歩きましょう。ずっと、ずっと」
俺は逃げようとしたが、三人の手が俺の体を包んだ。冷たい雨のような感触だった。
気がつくと、俺は雨の中を歩いていた。傘を差して、田中さん一家と並んで歩いている。
街の人々は俺たちを見ることができないらしい。雨に濡れた俺たちの姿は、もう生者の世界に属していない。
「ありがとうございます」田中さんが言った。「これで僕たちも、永遠に家族でいられます」
俺は気づいた。俺たちは同じ道を延々と歩き続けている。駅前から田中さんの元の家まで、そしてまた駅前へ。雨の夜の永遠のループ。
家では妻の美咲が俺を探しているだろう。しかし俺はもう、雨の中でしか存在できない。
田中さん一家と共に、濡れた道を歩き続ける。
傘を差しながら、永遠に。
そして俺は理解した。俺たちは今、新しい誰かを探している。雨に濡れて困っている人を。
その人に傘を貸すために。
その人を、俺たちの永遠の雨の行進に加えるために。
今夜も雨が降っている。俺たちは駅前で、新しい仲間を待っている。
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