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番外編
王都のマルシェにて
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モブ視点からのエレナたちの話です。ほんの少しだけ過去に遡ります。
~~~~~~~~~
いつもの喧騒に熱狂が加わった市場は、まるで祭りの様相を呈していた。
行き交う人々の話題はもっぱら王太子とその秘密の恋人についてだ。
男の露店でも「今日も仲睦まじくお忍びでデートをする姿を見かけたんだ」と客が興奮している。
(不細工でデブでわがままで最悪な婚約者にバレないようにコソコソお忍びなんてしてないで、さっさと婚約破棄しちまえばいいのに。男らしくない。俺だったらはっきり言ってやるのに)
愛想よく客を見送りながら男はそんなことを考えていた。
「やあ、王子さんが嫌われてたと思ったら、また人気が出たんだねぇ」
「みたいねー」
祖母が独り言なのか話しかけてるのかわからない呟きをこぼす。放っておけばいいのに従妹は相槌を打った。
木の実を多く取り扱う男の店で、従妹は自分の菓子店を開くのを夢見て、店の手伝いをしながら作った菓子を並べている。
「婆ちゃんはおかしいと思っとったんよ。最近までみんな王子さんのこと可愛い可愛い言ってたんになぁって」
「婆ちゃんの言う最近っていつよ」
退屈凌ぎに男は質問を投げかける。
「はあ、最近は最近よ。ほれ、王妃さんが死んじまった頃だ」
「十年前は最近って言わねぇ」
「十年も経ったかねぇ。まあ、婆ちゃんにしてみりゃ十年なんてあっちゅう間だ。あん頃は良かったよ。王妃さんはしょっちゅう王子さんを連れて街に出ててなぁ。あんな流行り病がなければいま頃は──」
男は一緒に店番をする祖母の昔話を聞きながら、木の実を入れた籠から胡桃を一つ手に取り木槌で叩く。
殻が綺麗に二つに割れる。渋皮がついたまま口に運んだ。
「これ! 売りもんを勝手に食って! 神様は見てんぞ! バチがあたっ──」
「生のまま食べても問題ないのか? 胡桃は煎ってから食べるんだろう?」
つまみ食いを注意する祖母のしわがれた声を、響きの良い声がさえぎる。
声がした方に顔を向けると、背が高い男が立っていた。
淡い金色の髪にまるで陶器のような滑らかな肌。長いまつ毛が囲む濃い青の瞳。
同性でも見惚れてしまうその姿は説明を受けなくても誰かすぐわかった。
「煎ったほうが美味しいですけど、少しくらいなら生でも食べられますよ」
動揺する男に変わって、答えたのは小柄な少女だった。
役人の制服を着た少女は男自身より少し年下に見えた。十六、七歳といったところだろう。
目の前に立っているのは王太子とその王太子の噂される秘密の恋人に違いない。
「ね?」
穏やかそうな柔和な笑みをたたえて尋ねる少女をまじまじと眺める。
栗色の柔らかそうな髪の毛は結い上げられて華奢な首がよく見える。その首が少し傾ぐ。
返事を待っているのか見上げるような仕草の少女と目が合う。
大きな瞳はまるで高価な宝石のようにキラキラと輝いていた。
(ふぁぁぁ! すっげぇ綺麗!)
胸がバクバクと激しく鼓動する。
「味見しなせぇ」
「えっ! いいんですか?」
「ふぁっ⁈ 婆ちゃん何言ってんだよ!」
「もご、もご、もご!」
少女に味見を勧める祖母の口を慌てて塞ぐ。
「危ないわ! 手を離して!」
「あ、はい!」
祖母の口から手を離すと胸に手を当て安心したようにホッと息を漏らす姿も美しい。まるで慈愛溢れる女神の絵画を見ているようだ。
「そうよね、商品なのに買いもしないで食べるなんて失礼だわ。ごめんなさいね」
王太子の恋人らしき少女は済まなそうに眉尻を下げる。
「あ、いえ、そう言うことではなく……えっと……あの、逆にいいん……いいのですか、食べていただいちゃって王太ふぃ──」
「しぃぃ。お忍びですから正体をバラしては駄目よ」
小さな細い指に唇を塞がれて顔が熱くなる。
「……我慢も限界だな」
ため息と共に吐き捨てられたセリフに顔を上げると、嫉妬を隠そうともしない顔と目が合った。
姿勢を正し細い指から距離を取る。
少女は指が離れたことなんて気にもしていないのか、王太子の方に顔を向けた。
「まぁ、そんなにお腹が減っていらっしゃるの? でも、いくら生でも食べられるからって、お腹いっぱいになるまで食べたら体に悪いわ」
(……なにいってんだ?)
恋人が見知らぬ男に触れているのだ。どこをどう考えたら腹が減ったのを我慢しているなどと思うのだろうか。
男は困惑した。
「そうだな。そういうことにしておこう」
(なんだよそういうことって! そういうことにしちゃ駄目だろう! はっきり言えよ!)
視線が自分に戻ったことに満足したかのように微笑む王太子に心の中でツッコミを入れるだけで我慢する。
「あの、よければこの胡桃を使ったお菓子を召し上がりませんか。試作品でみんなにいま味見をしてもらってるんです」
「おまえ! なに図々しいこと言っ──」
「まぁ! いいの?」
今度は従妹が味見を勧める。
差し出したのは煎った大麦の粉と胡桃に糖蜜を混ぜて作った菓子だ。
止めようとした時にはもう受け取っていた。
「香ばしい香りね。なんだか懐かしい味だわ」
もぐもぐと口を動かして美味しそうに食べる姿は愛らしい。ぼうっと見つめてしまう。
「美味しい?」
「ええ」
少女はあたりを見回して何かを確認すると齧りかけの菓子を王太子の口元に運んだ。
(えっ?)
驚く男を尻目に王太子は食べかけを当たり前のように食べる。
「ごめんなさいね。毒味なしで召し上がっていただくわけにはいかないの」
「あ、はい」
(お忍びだっていってるのに、毒味が必要なんて自分から正体バラしてるようなもんじゃないか……)
また心の中でツッコむだけで我慢し、王太子の顔を見る。
普段はきっとふすまも混じってない上等な小麦粉に真っ白な砂糖の菓子を食べてるに違いない。質素すぎるその菓子は口に合わないらしく、複雑な顔で咀嚼していた。
(そうか、王太子の恋人は庶民だから煎った大麦も食べ慣れてるだろうけど、王太子から変なもの食わせたって訴えられたらどうしよう!)
「私は初めて食べる味だが……体に良さそうな味だな」
王太子は男の心配とは裏腹に、従妹へ当たり障りのない感想を伝えていた。
(なんなんだよ! 胡桃をすこしつまみ食いしただけなのに、王太子に話しかけられて、こんな心臓に悪い思いしなくちゃいけないんだよ)
「普段お仕事ばかりで、食事を蔑ろにされてばかりだもの。こういういつでも食べれて栄養価の高いものを携行されるといいわ」
少女は真剣な眼差しで王太子を見つめている。王太子は「そうだな」と頷き、恋人の少女に微笑みかけた。
王太子の秘密の恋人は女性役人だと聞く。普段からそばにいて仕事をしている姿を見ているのだろう。
体調を思いやり労わる少女は慈悲深く、男にはまるで神話に出てくる女神や聖女のように思えた。
「私の最愛の少女に何か用でもあるのかな?」
冷や水を浴びせるような声に男は正気にかえる。
「い、いえ。お二人がお似合いだなと思っておりましただけでございます」
「お似合いか。そうみえるか?」
「はい。あの、あの方は恋人なのですよね?」
「ああ。婚約者だと民に紹介できないのはもどかしいな」
王太子は買い物をする少女を慈しむように見つめた。
***
王太子たちが訪れたあの日から男の露店は繁盛なんてものではなかった。
今日もまた王太子とその恋人が食べた菓子を求める客で賑わっていた。
普段なら来ない自分とあまり歳の変わらない貴族令嬢達まで訪れるため、男の鼻の下は伸び切っている。
「にいちゃん!」
従妹の叫ぶような大きな声に慌てて顔を取り繕う。
「こら、あまり大きな声を出すんじゃない。お客様がびっくりしてるじゃないか。すみませんね、庶民なもんで作法が──」
「違う! そうじゃないの! 大変なの!」
従妹は店先の客に笑顔でお辞儀をすると男の耳を引っ張った。
「……トワイン侯爵家のお嬢様の侍女って人が来て、お菓子を注文したいって」
「えっ? トワイン侯爵家の──」
「しー!」
男の口は従妹の手で塞がれる。
(まずい)
トワイン侯爵家のお嬢様といえば発表されていないけれど王太子の婚約者だ。
わがままで癇癪持ちで目も当てられないくらい不細工で太ってるなんて噂されている。
権力者で見目麗しい王太子の婚約者になるために人には言えないような悪事ばかり働いているなんてことも聞く。
「……きっと、こないだ王子様と王子様の恋人がうちのお菓子食べたって噂を聞きつけたんだわ」
「……うちの商品に難癖つけて潰す気か?」
「どうしよう」
従妹の目が潤む。
(くそっ! くそっ! ──────!)
心の中でありったけの暴言を吐いても溜飲は下がらない。
「あの」
「あ、はい!」
男は怒りではらわたが煮え繰り返るのを笑顔の裏に隠し、店先の令嬢達に返事をした。
「さっき、トワイン侯爵家のお嬢様って聞こえたのですけど……」
「いやあ、お恥ずかしい。先ほどは大きな声を上げちまいました。なんてことないのでお気になさらんで大丈夫ですよ」
取り繕った笑顔が引きつりそうになるのを必死に耐える。
「まあ、そんな。ねえ?」
「ええ。やっぱり、この店がそうみたいですわね」
令嬢達がコソコソと耳打ちをしあっているのを眺めて「もうおしまいだ」と小さく男はため息をつく。
「エレナ様の手から王太子殿下がお菓子を召し上がったとお聞きしましたけど、どのお菓子なのかしら?」
「は?」
「あ、もしかしてこちらのお菓子かしら?」
指を刺されたのは王太子とその恋人が食べた素朴な菓子だ。男は思わず頷く。
「あの、王太子殿下とエレナ様のその時のご様子をお伺いしても?」
「どんなことおっしゃってました?」
ご令嬢達に知らない名前を出されて質問責めにされ男は戸惑うはがりだ。
「エレナ様って? えっと王太子様の恋人……ですか?」
「エレナ様は恋人なんてそんな陳腐なものではないわ!」
「ええ、そうよ! エレナ様は王太子殿下の最愛の少女で運命で定められた片割れですわ」
「はあ」
「当たり前ですわよ。だってエレナ様は恵みの女神様ですもの!」
「恵みの女神?」
「ええ」
「その……神話の?」
「ええ。トワイン侯爵家の祖にあたる恵みの女神ですわ」
王太子の恋人が「恵みの女神」と呼ばれていることは初耳だった。
公表されない王太子の婚約者がトワイン侯爵家のお嬢様だというのに皮肉なものだ。
「そんなこと、トワイン侯爵家の耳に入ったりでもしたら……」
王太子とその恋人が立ち寄った店を潰そうと考えるのは自然だ。
男は頭を抱える。
「何の問題もありませんわ。だってエレナ様はトワイン侯爵家のご令嬢ですもの」
「へ?」
男が声を上げると同時に通りから悲鳴のような声が聞こえた。
通りには軽馬車がゆっくりと近づくのが見える。
まるで神話の挿絵から飛び出したような服装の男女が座っている。耳元で囁き合っては少し顔を赤らめ、通りの観衆に手を振っていた。
もちろんあの日店に来た二人だった。
「きゃああ! エレナ様だわ!」
「エレナ様ー!」
「あぁ! 私たちに気がついて手を振ってくださいましたわ!」
ご令嬢達が騒ぎ軽馬車が通り過ぎるのを男は眺めるしかできなかった。
「えっと、王太子様の秘密の恋人はトワイン侯爵家のお嬢様で、幼い頃から思い合っていらっしゃったにも関わらず、自分の欲に塗れた権力者達が、王太子様とトワイン侯爵家のお嬢様を引き裂くために根も葉もない噂を流して、俺たちが婚約に反対して暴動を起こすように仕向けていたってことなのか?」
軽馬車が通り過ぎた通りでは先ほど芝居小屋で起きた顛末を話す人々で溢れていた。
聞こえた話をまとめて尋ねると、令嬢達は沈鬱な表情を浮かべる。
男の正義感に火がついた。
「あの日のお二人はそれはもう仲睦まじくって、誰から見てもお似合いのお二人だったんだ! 婚約者なのに大っぴらにさせてもらえず、立場を隠さなくっちゃいけないなんておかしいだろ! 俺に何かできることはないのか⁈」
男のそのセリフに待ってましたとばかりに令嬢達が微笑んだ。
「私たちは『エレナ王太子妃殿下推進派』の会員ですの。私は普段は王宮の女官を」
「わたくしは、王太子殿下とエレナ様と同じ王立学園に通っておりますわ。よろしければこのお店を『エレ推し会認定店』として会員の皆様に紹介してもよろしいかしら」
「わたくしも王立学園の同級生ですわ。もしよろしければ、誰が見ても『エレ推し会認定店』もわかるようにこちらのタペストリーを掲示してくださいませ」
「ああもちろん!」
男はタペストリーを受け取った。
──タペストリーを掲示した男の店は繁盛し、従妹とともに湖のほとりに胡桃を使ったケーキや焼き菓子を取り揃える店を構えるのはまた別の話だ。
~~~~~~~~~
いつもの喧騒に熱狂が加わった市場は、まるで祭りの様相を呈していた。
行き交う人々の話題はもっぱら王太子とその秘密の恋人についてだ。
男の露店でも「今日も仲睦まじくお忍びでデートをする姿を見かけたんだ」と客が興奮している。
(不細工でデブでわがままで最悪な婚約者にバレないようにコソコソお忍びなんてしてないで、さっさと婚約破棄しちまえばいいのに。男らしくない。俺だったらはっきり言ってやるのに)
愛想よく客を見送りながら男はそんなことを考えていた。
「やあ、王子さんが嫌われてたと思ったら、また人気が出たんだねぇ」
「みたいねー」
祖母が独り言なのか話しかけてるのかわからない呟きをこぼす。放っておけばいいのに従妹は相槌を打った。
木の実を多く取り扱う男の店で、従妹は自分の菓子店を開くのを夢見て、店の手伝いをしながら作った菓子を並べている。
「婆ちゃんはおかしいと思っとったんよ。最近までみんな王子さんのこと可愛い可愛い言ってたんになぁって」
「婆ちゃんの言う最近っていつよ」
退屈凌ぎに男は質問を投げかける。
「はあ、最近は最近よ。ほれ、王妃さんが死んじまった頃だ」
「十年前は最近って言わねぇ」
「十年も経ったかねぇ。まあ、婆ちゃんにしてみりゃ十年なんてあっちゅう間だ。あん頃は良かったよ。王妃さんはしょっちゅう王子さんを連れて街に出ててなぁ。あんな流行り病がなければいま頃は──」
男は一緒に店番をする祖母の昔話を聞きながら、木の実を入れた籠から胡桃を一つ手に取り木槌で叩く。
殻が綺麗に二つに割れる。渋皮がついたまま口に運んだ。
「これ! 売りもんを勝手に食って! 神様は見てんぞ! バチがあたっ──」
「生のまま食べても問題ないのか? 胡桃は煎ってから食べるんだろう?」
つまみ食いを注意する祖母のしわがれた声を、響きの良い声がさえぎる。
声がした方に顔を向けると、背が高い男が立っていた。
淡い金色の髪にまるで陶器のような滑らかな肌。長いまつ毛が囲む濃い青の瞳。
同性でも見惚れてしまうその姿は説明を受けなくても誰かすぐわかった。
「煎ったほうが美味しいですけど、少しくらいなら生でも食べられますよ」
動揺する男に変わって、答えたのは小柄な少女だった。
役人の制服を着た少女は男自身より少し年下に見えた。十六、七歳といったところだろう。
目の前に立っているのは王太子とその王太子の噂される秘密の恋人に違いない。
「ね?」
穏やかそうな柔和な笑みをたたえて尋ねる少女をまじまじと眺める。
栗色の柔らかそうな髪の毛は結い上げられて華奢な首がよく見える。その首が少し傾ぐ。
返事を待っているのか見上げるような仕草の少女と目が合う。
大きな瞳はまるで高価な宝石のようにキラキラと輝いていた。
(ふぁぁぁ! すっげぇ綺麗!)
胸がバクバクと激しく鼓動する。
「味見しなせぇ」
「えっ! いいんですか?」
「ふぁっ⁈ 婆ちゃん何言ってんだよ!」
「もご、もご、もご!」
少女に味見を勧める祖母の口を慌てて塞ぐ。
「危ないわ! 手を離して!」
「あ、はい!」
祖母の口から手を離すと胸に手を当て安心したようにホッと息を漏らす姿も美しい。まるで慈愛溢れる女神の絵画を見ているようだ。
「そうよね、商品なのに買いもしないで食べるなんて失礼だわ。ごめんなさいね」
王太子の恋人らしき少女は済まなそうに眉尻を下げる。
「あ、いえ、そう言うことではなく……えっと……あの、逆にいいん……いいのですか、食べていただいちゃって王太ふぃ──」
「しぃぃ。お忍びですから正体をバラしては駄目よ」
小さな細い指に唇を塞がれて顔が熱くなる。
「……我慢も限界だな」
ため息と共に吐き捨てられたセリフに顔を上げると、嫉妬を隠そうともしない顔と目が合った。
姿勢を正し細い指から距離を取る。
少女は指が離れたことなんて気にもしていないのか、王太子の方に顔を向けた。
「まぁ、そんなにお腹が減っていらっしゃるの? でも、いくら生でも食べられるからって、お腹いっぱいになるまで食べたら体に悪いわ」
(……なにいってんだ?)
恋人が見知らぬ男に触れているのだ。どこをどう考えたら腹が減ったのを我慢しているなどと思うのだろうか。
男は困惑した。
「そうだな。そういうことにしておこう」
(なんだよそういうことって! そういうことにしちゃ駄目だろう! はっきり言えよ!)
視線が自分に戻ったことに満足したかのように微笑む王太子に心の中でツッコミを入れるだけで我慢する。
「あの、よければこの胡桃を使ったお菓子を召し上がりませんか。試作品でみんなにいま味見をしてもらってるんです」
「おまえ! なに図々しいこと言っ──」
「まぁ! いいの?」
今度は従妹が味見を勧める。
差し出したのは煎った大麦の粉と胡桃に糖蜜を混ぜて作った菓子だ。
止めようとした時にはもう受け取っていた。
「香ばしい香りね。なんだか懐かしい味だわ」
もぐもぐと口を動かして美味しそうに食べる姿は愛らしい。ぼうっと見つめてしまう。
「美味しい?」
「ええ」
少女はあたりを見回して何かを確認すると齧りかけの菓子を王太子の口元に運んだ。
(えっ?)
驚く男を尻目に王太子は食べかけを当たり前のように食べる。
「ごめんなさいね。毒味なしで召し上がっていただくわけにはいかないの」
「あ、はい」
(お忍びだっていってるのに、毒味が必要なんて自分から正体バラしてるようなもんじゃないか……)
また心の中でツッコむだけで我慢し、王太子の顔を見る。
普段はきっとふすまも混じってない上等な小麦粉に真っ白な砂糖の菓子を食べてるに違いない。質素すぎるその菓子は口に合わないらしく、複雑な顔で咀嚼していた。
(そうか、王太子の恋人は庶民だから煎った大麦も食べ慣れてるだろうけど、王太子から変なもの食わせたって訴えられたらどうしよう!)
「私は初めて食べる味だが……体に良さそうな味だな」
王太子は男の心配とは裏腹に、従妹へ当たり障りのない感想を伝えていた。
(なんなんだよ! 胡桃をすこしつまみ食いしただけなのに、王太子に話しかけられて、こんな心臓に悪い思いしなくちゃいけないんだよ)
「普段お仕事ばかりで、食事を蔑ろにされてばかりだもの。こういういつでも食べれて栄養価の高いものを携行されるといいわ」
少女は真剣な眼差しで王太子を見つめている。王太子は「そうだな」と頷き、恋人の少女に微笑みかけた。
王太子の秘密の恋人は女性役人だと聞く。普段からそばにいて仕事をしている姿を見ているのだろう。
体調を思いやり労わる少女は慈悲深く、男にはまるで神話に出てくる女神や聖女のように思えた。
「私の最愛の少女に何か用でもあるのかな?」
冷や水を浴びせるような声に男は正気にかえる。
「い、いえ。お二人がお似合いだなと思っておりましただけでございます」
「お似合いか。そうみえるか?」
「はい。あの、あの方は恋人なのですよね?」
「ああ。婚約者だと民に紹介できないのはもどかしいな」
王太子は買い物をする少女を慈しむように見つめた。
***
王太子たちが訪れたあの日から男の露店は繁盛なんてものではなかった。
今日もまた王太子とその恋人が食べた菓子を求める客で賑わっていた。
普段なら来ない自分とあまり歳の変わらない貴族令嬢達まで訪れるため、男の鼻の下は伸び切っている。
「にいちゃん!」
従妹の叫ぶような大きな声に慌てて顔を取り繕う。
「こら、あまり大きな声を出すんじゃない。お客様がびっくりしてるじゃないか。すみませんね、庶民なもんで作法が──」
「違う! そうじゃないの! 大変なの!」
従妹は店先の客に笑顔でお辞儀をすると男の耳を引っ張った。
「……トワイン侯爵家のお嬢様の侍女って人が来て、お菓子を注文したいって」
「えっ? トワイン侯爵家の──」
「しー!」
男の口は従妹の手で塞がれる。
(まずい)
トワイン侯爵家のお嬢様といえば発表されていないけれど王太子の婚約者だ。
わがままで癇癪持ちで目も当てられないくらい不細工で太ってるなんて噂されている。
権力者で見目麗しい王太子の婚約者になるために人には言えないような悪事ばかり働いているなんてことも聞く。
「……きっと、こないだ王子様と王子様の恋人がうちのお菓子食べたって噂を聞きつけたんだわ」
「……うちの商品に難癖つけて潰す気か?」
「どうしよう」
従妹の目が潤む。
(くそっ! くそっ! ──────!)
心の中でありったけの暴言を吐いても溜飲は下がらない。
「あの」
「あ、はい!」
男は怒りではらわたが煮え繰り返るのを笑顔の裏に隠し、店先の令嬢達に返事をした。
「さっき、トワイン侯爵家のお嬢様って聞こえたのですけど……」
「いやあ、お恥ずかしい。先ほどは大きな声を上げちまいました。なんてことないのでお気になさらんで大丈夫ですよ」
取り繕った笑顔が引きつりそうになるのを必死に耐える。
「まあ、そんな。ねえ?」
「ええ。やっぱり、この店がそうみたいですわね」
令嬢達がコソコソと耳打ちをしあっているのを眺めて「もうおしまいだ」と小さく男はため息をつく。
「エレナ様の手から王太子殿下がお菓子を召し上がったとお聞きしましたけど、どのお菓子なのかしら?」
「は?」
「あ、もしかしてこちらのお菓子かしら?」
指を刺されたのは王太子とその恋人が食べた素朴な菓子だ。男は思わず頷く。
「あの、王太子殿下とエレナ様のその時のご様子をお伺いしても?」
「どんなことおっしゃってました?」
ご令嬢達に知らない名前を出されて質問責めにされ男は戸惑うはがりだ。
「エレナ様って? えっと王太子様の恋人……ですか?」
「エレナ様は恋人なんてそんな陳腐なものではないわ!」
「ええ、そうよ! エレナ様は王太子殿下の最愛の少女で運命で定められた片割れですわ」
「はあ」
「当たり前ですわよ。だってエレナ様は恵みの女神様ですもの!」
「恵みの女神?」
「ええ」
「その……神話の?」
「ええ。トワイン侯爵家の祖にあたる恵みの女神ですわ」
王太子の恋人が「恵みの女神」と呼ばれていることは初耳だった。
公表されない王太子の婚約者がトワイン侯爵家のお嬢様だというのに皮肉なものだ。
「そんなこと、トワイン侯爵家の耳に入ったりでもしたら……」
王太子とその恋人が立ち寄った店を潰そうと考えるのは自然だ。
男は頭を抱える。
「何の問題もありませんわ。だってエレナ様はトワイン侯爵家のご令嬢ですもの」
「へ?」
男が声を上げると同時に通りから悲鳴のような声が聞こえた。
通りには軽馬車がゆっくりと近づくのが見える。
まるで神話の挿絵から飛び出したような服装の男女が座っている。耳元で囁き合っては少し顔を赤らめ、通りの観衆に手を振っていた。
もちろんあの日店に来た二人だった。
「きゃああ! エレナ様だわ!」
「エレナ様ー!」
「あぁ! 私たちに気がついて手を振ってくださいましたわ!」
ご令嬢達が騒ぎ軽馬車が通り過ぎるのを男は眺めるしかできなかった。
「えっと、王太子様の秘密の恋人はトワイン侯爵家のお嬢様で、幼い頃から思い合っていらっしゃったにも関わらず、自分の欲に塗れた権力者達が、王太子様とトワイン侯爵家のお嬢様を引き裂くために根も葉もない噂を流して、俺たちが婚約に反対して暴動を起こすように仕向けていたってことなのか?」
軽馬車が通り過ぎた通りでは先ほど芝居小屋で起きた顛末を話す人々で溢れていた。
聞こえた話をまとめて尋ねると、令嬢達は沈鬱な表情を浮かべる。
男の正義感に火がついた。
「あの日のお二人はそれはもう仲睦まじくって、誰から見てもお似合いのお二人だったんだ! 婚約者なのに大っぴらにさせてもらえず、立場を隠さなくっちゃいけないなんておかしいだろ! 俺に何かできることはないのか⁈」
男のそのセリフに待ってましたとばかりに令嬢達が微笑んだ。
「私たちは『エレナ王太子妃殿下推進派』の会員ですの。私は普段は王宮の女官を」
「わたくしは、王太子殿下とエレナ様と同じ王立学園に通っておりますわ。よろしければこのお店を『エレ推し会認定店』として会員の皆様に紹介してもよろしいかしら」
「わたくしも王立学園の同級生ですわ。もしよろしければ、誰が見ても『エレ推し会認定店』もわかるようにこちらのタペストリーを掲示してくださいませ」
「ああもちろん!」
男はタペストリーを受け取った。
──タペストリーを掲示した男の店は繁盛し、従妹とともに湖のほとりに胡桃を使ったケーキや焼き菓子を取り揃える店を構えるのはまた別の話だ。
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メディチ家の公爵令嬢プリシラは、かつて誰からも愛される少女だった。しかし、数年前のある事件をきっかけに周囲の人間に虐げられるようになってしまった。
唯一の心の支えは、プリシラを慕う義妹であるロザリーだけ。
だがある日、プリシラは異母妹を苛めていた罪で断罪されてしまう。
プリシラは処刑の日の前日、牢屋を訪れたロザリーに無実の証言を願い出るが、彼女は高らかに笑いながらこう言った。
「ぜーんぶ私が仕組んだことよ!!」
唯一信頼していた義妹に裏切られていたことを知り、プリシラは深い悲しみのまま処刑された。
──はずだった。
目が覚めるとプリシラは、三年前のロザリーがメディチ家に引き取られる前日に、なぜか時間が巻き戻っていて──。
逆行した世界で、プリシラは義妹と、自分を虐げていた人々に復讐することを誓う。
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第一部、完結おめでとうございます!
エールを贈らせていただきます🙇
ありがとうございます!
甘い話や伝わらない溺愛など補完の小話を書こうと思ってるので引き続きよろしくお願いします。
記憶が戻りそうなエレナに、何か演説をしているという殿下、そこにお兄様が乱入とは…続きを見たいような見るのが怖いような、そんな複雑な気持ちです。
感想ありがとうございます!
物語も最後の山場になりますので、もう少しだけドキドキしてお待ちください!
ついに、あの殿下からの手紙をエレナが読むんですねぇ
感想ありがとうございます!
ついにエレナが殿下の手紙を読みます!
展開遅い上に私の遅筆も重なりお待たせして申し訳ないです…