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十、
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「確信はございませんでした。けれども、父の遺した書物で読んだ覚えがあったのです。錯乱した人間に、暗示をかけて鎮めるという法を。昼間、露姫様が聞き慣れていらっしゃるこの笛の音ならば、意識の深くに呼びかけて眠らせることができるのではないかと思いました」
治まりやらぬ手の震えを止めようと、京次郎は爪が食い込むほど腕を握り締めた。
全身に鳥肌が立っている。
底知れぬ才知の片鱗が常盤を彩っている。
一体どれほどの天分を持ち合わせているのか、予測すらできなかった。
恐ろしい娘だ――京次郎は改めて思った。
「礼を言う」
露姫を床に休ませると、京次郎は頭を下げた。
「これからはこの笛の音が、露姫様を鬼から人へと戻す鍵になりましょう」
「そなたは剣一つ使わず、秋月の鬼を調伏してしまったのだな」
常盤は誇らしげに微笑んだ。
「上様。雑草は、何度踏まれても蹴られても咲き続けます。見ての通りわたくしは、ちょっとやそっとのことではびくともせぬ、しぶとい娘にございます。上様と露姫様は、このわたくしがお守りいたします。どうぞご安心くださいませ」
京次郎は声を立てて笑った。
「言うに事欠いて、この俺を守るとはな」
「上様には一人でも多く、盾となる人間が必要です。及ばずながら、わたくしもその一人となりとうございます」
その時、京次郎の脳裏に何かがよぎった。
記憶の底に沈殿していた小さな石。
この瞳を、どこかで見たような気がする。
「そなた、」
どこかで会うたことはないかと問いかけて、京次郎は口をつぐんだ。
代わりに立ち上がり、一歩二歩と常盤の元へ歩み寄る。
ただ一人、最後の最後まで生き残った嫁候補。
何のしがらみもなく、名家の生まれでもない。抜きん出た美貌もない。
持っているのは身一つ。度胸と知恵と、才覚だけでここまでのし上がってきた。
「……よかろう」
悪くない。京次郎は思った。
まことに自分らしい選択だ。
常盤は開いた障子の隙間から満月を見上げている。
その頬にうつくしい氷のような月光が照り映えた。
京次郎は目を眇めて低く問う。
「二度と家族には会えぬぞ」
「はい」
「命を狙われることは日常茶飯事、死ぬまで心は休まらず、見たくないものを見、聞きたくないことを聞くこともあろう」
「覚悟しております」
常盤の眼差しは澄んでいた。
「それでも、俺についてくるか」
「はい。最後の最後まで、上様のお傍に」
京次郎は初めて、何の屈託もない晴れやかな笑顔を浮かべた。
「ならば常盤」
差し伸べた手を、常盤は取って握り締める。
「そなたを俺の正室として迎えよう」
治まりやらぬ手の震えを止めようと、京次郎は爪が食い込むほど腕を握り締めた。
全身に鳥肌が立っている。
底知れぬ才知の片鱗が常盤を彩っている。
一体どれほどの天分を持ち合わせているのか、予測すらできなかった。
恐ろしい娘だ――京次郎は改めて思った。
「礼を言う」
露姫を床に休ませると、京次郎は頭を下げた。
「これからはこの笛の音が、露姫様を鬼から人へと戻す鍵になりましょう」
「そなたは剣一つ使わず、秋月の鬼を調伏してしまったのだな」
常盤は誇らしげに微笑んだ。
「上様。雑草は、何度踏まれても蹴られても咲き続けます。見ての通りわたくしは、ちょっとやそっとのことではびくともせぬ、しぶとい娘にございます。上様と露姫様は、このわたくしがお守りいたします。どうぞご安心くださいませ」
京次郎は声を立てて笑った。
「言うに事欠いて、この俺を守るとはな」
「上様には一人でも多く、盾となる人間が必要です。及ばずながら、わたくしもその一人となりとうございます」
その時、京次郎の脳裏に何かがよぎった。
記憶の底に沈殿していた小さな石。
この瞳を、どこかで見たような気がする。
「そなた、」
どこかで会うたことはないかと問いかけて、京次郎は口をつぐんだ。
代わりに立ち上がり、一歩二歩と常盤の元へ歩み寄る。
ただ一人、最後の最後まで生き残った嫁候補。
何のしがらみもなく、名家の生まれでもない。抜きん出た美貌もない。
持っているのは身一つ。度胸と知恵と、才覚だけでここまでのし上がってきた。
「……よかろう」
悪くない。京次郎は思った。
まことに自分らしい選択だ。
常盤は開いた障子の隙間から満月を見上げている。
その頬にうつくしい氷のような月光が照り映えた。
京次郎は目を眇めて低く問う。
「二度と家族には会えぬぞ」
「はい」
「命を狙われることは日常茶飯事、死ぬまで心は休まらず、見たくないものを見、聞きたくないことを聞くこともあろう」
「覚悟しております」
常盤の眼差しは澄んでいた。
「それでも、俺についてくるか」
「はい。最後の最後まで、上様のお傍に」
京次郎は初めて、何の屈託もない晴れやかな笑顔を浮かべた。
「ならば常盤」
差し伸べた手を、常盤は取って握り締める。
「そなたを俺の正室として迎えよう」
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