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第5話「氷の騎士は、陽だまりに溶ける」
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鳥のさえずりが聞こえた。
遠くで、誰かが薪を割るような乾いた音もする。
ゼフィルはゆっくりと重たいまぶたを持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた無機質な兵舎の天井でも、戦場の灰色に曇った空でもない。
煤けてはいるが、温かみのある木の梁と、そこから吊るされたドライフラワーの束だった。
「……ここは」
声を出そうとして、喉が焼けるように渇いていることに気づく。
反射的に体を起こそうと力を入れた瞬間、彼は自分の体に起きた異変に息をのんだ。
軽い。
鉛のように重く、常に焼けるような痛みを伴っていた体が、嘘のように軽いのだ。
心臓を締め付けていたあの黒い茨のような圧迫感も、今はなりを潜めている。
「夢か……?」
ゼフィルは恐る恐る自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと、力強く規則正しい鼓動が指先に伝わる。
あの「黒竜の呪い」を受けて以来、忘れていた感覚だ。魔法による回復を拒絶し、あらゆる治療を無効化してきたあの呪いが、沈黙している。
一体、何が起きたというのか。
記憶をたぐる。
王都を離れ、死に場所を求めて彷徨っていた。
嵐の中、意識が混濁し、倒れ込んだのは確かこの家の前で……。
ふと、視線を感じて横を向いた。
ベッドのすぐ脇、丸椅子に座ったまま、女性が突っ伏して眠っていた。
緩くウェーブのかかった栗色の髪が、朝日に透けて黄金色に輝いている。
彼女の手は、ゼフィルの左手をしっかりと、両手で包み込むように握っていた。
「……この女が?」
ゼフィルは眉を寄せた。
華奢だ。騎士団の訓練生よりも細い腕。
こんな田舎娘に、あの高位の呪いを抑え込む力があるとは思えない。
だが、繋がれた手から伝わってくる温もりは、不思議と心地よかった。まるで春の陽だまりに手を浸しているような、じんわりとした安心感。
その時、彼女の髪の間から、茶色い毛玉のようなものがひょっこりと顔を出した。
大きな瞳の、リスのような生き物だ。
「キュ!」
その生き物は、ゼフィルと目が合うと、警戒する様子もなく「おはよう」と言わんばかりに小さく手を挙げた。
魔物か? いや、殺気はない。精霊獣の類のようだ。
ゼフィルが呆気にとられていると、その鳴き声で女性が身じろぎをした。
「ん……」
長い睫毛が震え、彼女がゆっくりと顔を上げる。
まだ眠気の残るぼんやりとした瞳が、ゼフィルを捉えた。
そして、数秒の空白の後。
彼女の瞳がパチリと大きく見開かれた。
「あ! 気がついたんですね!」
彼女は弾かれたように体を起こし、彼の顔を覗き込んできた。
あまりに近い。
ゼフィルは思わず上半身を引こうとしたが、彼女の手がまだ自分の手を握っていることに気づき、動きを止めた。
「よかった……熱も下がってる。顔色もすごくいいわ」
彼女は遠慮なくゼフィルの額に手を当て、次に首筋に触れて脈を確認する。
その手つきは慣れていて、迷いがない。
王都の貴婦人たちが見せるような媚びを含んだ触れ方とは違う、純粋に患者を案じる治療師の手だ。
「おい、貴様……」
ゼフィルが低い声で威圧しようとするが、彼女は全く動じなかった。
むしろ、花が咲いたような笑顔を向けてくる。
「喉、乾いてますよね? 今、お水を持ってきます」
彼女はパッと手を離すと、軽快な足取りで部屋の奥へと向かってしまった。
取り残されたゼフィルは、自分の手を呆然と見つめる。
握られていた場所だけが、まだ熱を持っていた。
氷の処刑人。冷血な騎士団長。そう恐れられ、遠巻きにされてきた自分に、あんなに屈託なく触れる人間がいるなんて。
「はい、どうぞ。少しハーブが入ってるけど、飲みやすいと思います」
戻ってきた彼女が差し出したのは、素焼きのカップに入った常温の水だ。
微かにミントのような清涼感のある香りがする。
ゼフィルは警戒しつつも、渇きには勝てず、一気に飲み干した。
水が喉を通り抜け、乾いた体に染み渡る。
「……美味い」
「ふふ、よかった。おかわりは?」
「いや、いい。……それより」
ゼフィルは空のカップを返し、姿勢を正した。
鋭い眼光を彼女に向ける。
「ここはどこだ。そして、お前は何者だ。俺の体にあった『黒い痣』はどうなった」
「質問が多いですね。でも、まずは朝ごはんにしませんか? 病み上がりには栄養が必要ですから」
彼女はゼフィルの殺気じみた視線をさらりと受け流し、エプロンの紐を結び直した。
その姿は、あまりにも無防備で、そして平和そのものだった。
ゼフィルは毒気を抜かれたように、ふぅ、と息を吐き出す。
どうやら、この不思議な恩人は、彼の騎士団長としての威厳など、気にも留めていないらしい。
台所から漂ってくるスープの香りが、彼の空腹を強烈に刺激していた。
遠くで、誰かが薪を割るような乾いた音もする。
ゼフィルはゆっくりと重たいまぶたを持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた無機質な兵舎の天井でも、戦場の灰色に曇った空でもない。
煤けてはいるが、温かみのある木の梁と、そこから吊るされたドライフラワーの束だった。
「……ここは」
声を出そうとして、喉が焼けるように渇いていることに気づく。
反射的に体を起こそうと力を入れた瞬間、彼は自分の体に起きた異変に息をのんだ。
軽い。
鉛のように重く、常に焼けるような痛みを伴っていた体が、嘘のように軽いのだ。
心臓を締め付けていたあの黒い茨のような圧迫感も、今はなりを潜めている。
「夢か……?」
ゼフィルは恐る恐る自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと、力強く規則正しい鼓動が指先に伝わる。
あの「黒竜の呪い」を受けて以来、忘れていた感覚だ。魔法による回復を拒絶し、あらゆる治療を無効化してきたあの呪いが、沈黙している。
一体、何が起きたというのか。
記憶をたぐる。
王都を離れ、死に場所を求めて彷徨っていた。
嵐の中、意識が混濁し、倒れ込んだのは確かこの家の前で……。
ふと、視線を感じて横を向いた。
ベッドのすぐ脇、丸椅子に座ったまま、女性が突っ伏して眠っていた。
緩くウェーブのかかった栗色の髪が、朝日に透けて黄金色に輝いている。
彼女の手は、ゼフィルの左手をしっかりと、両手で包み込むように握っていた。
「……この女が?」
ゼフィルは眉を寄せた。
華奢だ。騎士団の訓練生よりも細い腕。
こんな田舎娘に、あの高位の呪いを抑え込む力があるとは思えない。
だが、繋がれた手から伝わってくる温もりは、不思議と心地よかった。まるで春の陽だまりに手を浸しているような、じんわりとした安心感。
その時、彼女の髪の間から、茶色い毛玉のようなものがひょっこりと顔を出した。
大きな瞳の、リスのような生き物だ。
「キュ!」
その生き物は、ゼフィルと目が合うと、警戒する様子もなく「おはよう」と言わんばかりに小さく手を挙げた。
魔物か? いや、殺気はない。精霊獣の類のようだ。
ゼフィルが呆気にとられていると、その鳴き声で女性が身じろぎをした。
「ん……」
長い睫毛が震え、彼女がゆっくりと顔を上げる。
まだ眠気の残るぼんやりとした瞳が、ゼフィルを捉えた。
そして、数秒の空白の後。
彼女の瞳がパチリと大きく見開かれた。
「あ! 気がついたんですね!」
彼女は弾かれたように体を起こし、彼の顔を覗き込んできた。
あまりに近い。
ゼフィルは思わず上半身を引こうとしたが、彼女の手がまだ自分の手を握っていることに気づき、動きを止めた。
「よかった……熱も下がってる。顔色もすごくいいわ」
彼女は遠慮なくゼフィルの額に手を当て、次に首筋に触れて脈を確認する。
その手つきは慣れていて、迷いがない。
王都の貴婦人たちが見せるような媚びを含んだ触れ方とは違う、純粋に患者を案じる治療師の手だ。
「おい、貴様……」
ゼフィルが低い声で威圧しようとするが、彼女は全く動じなかった。
むしろ、花が咲いたような笑顔を向けてくる。
「喉、乾いてますよね? 今、お水を持ってきます」
彼女はパッと手を離すと、軽快な足取りで部屋の奥へと向かってしまった。
取り残されたゼフィルは、自分の手を呆然と見つめる。
握られていた場所だけが、まだ熱を持っていた。
氷の処刑人。冷血な騎士団長。そう恐れられ、遠巻きにされてきた自分に、あんなに屈託なく触れる人間がいるなんて。
「はい、どうぞ。少しハーブが入ってるけど、飲みやすいと思います」
戻ってきた彼女が差し出したのは、素焼きのカップに入った常温の水だ。
微かにミントのような清涼感のある香りがする。
ゼフィルは警戒しつつも、渇きには勝てず、一気に飲み干した。
水が喉を通り抜け、乾いた体に染み渡る。
「……美味い」
「ふふ、よかった。おかわりは?」
「いや、いい。……それより」
ゼフィルは空のカップを返し、姿勢を正した。
鋭い眼光を彼女に向ける。
「ここはどこだ。そして、お前は何者だ。俺の体にあった『黒い痣』はどうなった」
「質問が多いですね。でも、まずは朝ごはんにしませんか? 病み上がりには栄養が必要ですから」
彼女はゼフィルの殺気じみた視線をさらりと受け流し、エプロンの紐を結び直した。
その姿は、あまりにも無防備で、そして平和そのものだった。
ゼフィルは毒気を抜かれたように、ふぅ、と息を吐き出す。
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