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セレスティア帝国
23執事と相談
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翌朝、ヴァルターは侯爵家の門をくぐった。
夜通し歩いた疲れも見せず、相変わらず完璧な佇まいである。
だが、その歩みに――かすかな“ためらい”があった。
それは一瞬の靴音の遅れとなり、廊下に余韻を残す。
「お帰りなさいませ、ヴァルター様!」
女中たちがせわしなく動き出す。荷物を受け取り、湯あみの支度を整え、
その姿は、軽装で戻った彼をどこか安堵と共に迎えていた。
「……兄上、ただいま戻りました」
「おや。思いのほか早いお帰りで。」
「ああ……仔細を知らせぬまま夜を明かしてしまい、申し訳ない」
ヴァルターの声音には、どこか距離がある。
だが執事は、それを責めもせず、ただ一礼し、静かに背を向けた。
「それは、わたくしにではなく――カーチャ様に。」
ヴァルターは執事の背中をしばし見送ったのち、
ふと、窓の外へ視線を向けた。
そこには、庭に佇むカーチャの姿がある。
白いつば広帽を押さえながら、薔薇の世話をしていた。
誰に見せるわけでもなく、ただ静かに、咲く命に手を添えている。
「……カーチャ殿」
「おはようございます、ヴァルター様」
庭へと降りた彼に、カーチャは振り返り、穏やかに微笑んだ。
夏の陽光を手で遮るその仕草が、ヴァルターにはあまりにも無垢な少女のように映る。
「ご無事で、何よりですわ」
「ええ、少々――野暮用が……」
言いかけたが、カーチャはそれ以上を求めなかった。
問い詰めず、皮肉も言わず、ただ――微笑のまま、彼の帰還を受け入れた。
――なぜ、何も問わないのか。
「……あなた様は、本当に……」
「はい?」
「……いえ。なんでもありません」
言えなかった。
この優しさを、この崇高さを、何と名づければいいのか、
その答えを、彼はまだ知らなかった。
*
ヴァルターは、館の応接室で二人を前に、珍しく視線を伏せていた。
窓の向こうには、やわらかな陽が差し込んでいる。
だが、その光は、今から口にする言葉の重みを和らげるには至らない。
「──少し、話をさせていただきたいのです」
執事は無言でうなずき、カーチャは微笑のまま首を傾げた。
「リーゼのことです」
その名を口にするのに、ヴァルターは一拍、間を置いた。
これまでは“守るべき者”として、疑いなく語ってきた名。
けれど今日の声には、はっきりとした迷いが滲んでいた。
「彼女を……匿ってきました。
ひとりきりで生きる力を失った者に、手を差し伸べることが――
間違いであったとは、思いたくないのですが」
言葉を選びながらの語り。
彼は、決して彼女を否定したくはなかった。
だが――
「最近、少し……持て余してしまっているのです。彼女に心配をかけているのは、わかっているのですが……」
その一言に、執事がわずかに視線を上げる。
カーチャは驚いた様子も見せず、静かに耳を傾けていた。
「彼女の話を聞くたびに、閉じ込められていくような気がするのです。
ユリウス殿下との駆け引き、あなた様や兄上と過ごす時間――
あまりに楽しく、刺激に満ちていて。
比べるまでもないとわかっていながら、どうしても……」
「……あちらの家へ戻るのが、億劫になるのですね」
カーチャの言葉は、ただ静かで、柔らかかった。
そこに責める色はない。
まるで彼の心の奥を、すでに見通していたかのように。
ヴァルターは、わずかに頷く。
「けれど、彼女には……吾しかいない。
見捨てるつもりはありません。
ただこのままでは、吾は、彼女を欺いてしまいそうで……」
しばしの沈黙。
そして、穏やかな声が部屋に満ちた。
「でしたら、そのお方も……こちらへお迎えしてはいかがかしら?」
「……え?」
「離れでよろしければ。
使用人の目も届きますし、目が見えないのであれば、なにかと不便でしょう?
それに――」
言葉を一度切り、カーチャは微笑を残したまま続けた。
「あなた様が、ひとりで背負わなくてもよくなるわ」
ヴァルターは、しばらく何も返せなかった。
その視線の先で、カーチャは変わらぬ笑みをたたえていた。
期待も、責めも、押しつけも――何もない。
彼女はただ、手を差し出したのだ。
重くもなく、軽すぎもせず、誰よりも自然に。
「……それは……とてもありがたいお申し出です」
その声は、“誰かに救われた”男の、初めての言葉だった。
夜通し歩いた疲れも見せず、相変わらず完璧な佇まいである。
だが、その歩みに――かすかな“ためらい”があった。
それは一瞬の靴音の遅れとなり、廊下に余韻を残す。
「お帰りなさいませ、ヴァルター様!」
女中たちがせわしなく動き出す。荷物を受け取り、湯あみの支度を整え、
その姿は、軽装で戻った彼をどこか安堵と共に迎えていた。
「……兄上、ただいま戻りました」
「おや。思いのほか早いお帰りで。」
「ああ……仔細を知らせぬまま夜を明かしてしまい、申し訳ない」
ヴァルターの声音には、どこか距離がある。
だが執事は、それを責めもせず、ただ一礼し、静かに背を向けた。
「それは、わたくしにではなく――カーチャ様に。」
ヴァルターは執事の背中をしばし見送ったのち、
ふと、窓の外へ視線を向けた。
そこには、庭に佇むカーチャの姿がある。
白いつば広帽を押さえながら、薔薇の世話をしていた。
誰に見せるわけでもなく、ただ静かに、咲く命に手を添えている。
「……カーチャ殿」
「おはようございます、ヴァルター様」
庭へと降りた彼に、カーチャは振り返り、穏やかに微笑んだ。
夏の陽光を手で遮るその仕草が、ヴァルターにはあまりにも無垢な少女のように映る。
「ご無事で、何よりですわ」
「ええ、少々――野暮用が……」
言いかけたが、カーチャはそれ以上を求めなかった。
問い詰めず、皮肉も言わず、ただ――微笑のまま、彼の帰還を受け入れた。
――なぜ、何も問わないのか。
「……あなた様は、本当に……」
「はい?」
「……いえ。なんでもありません」
言えなかった。
この優しさを、この崇高さを、何と名づければいいのか、
その答えを、彼はまだ知らなかった。
*
ヴァルターは、館の応接室で二人を前に、珍しく視線を伏せていた。
窓の向こうには、やわらかな陽が差し込んでいる。
だが、その光は、今から口にする言葉の重みを和らげるには至らない。
「──少し、話をさせていただきたいのです」
執事は無言でうなずき、カーチャは微笑のまま首を傾げた。
「リーゼのことです」
その名を口にするのに、ヴァルターは一拍、間を置いた。
これまでは“守るべき者”として、疑いなく語ってきた名。
けれど今日の声には、はっきりとした迷いが滲んでいた。
「彼女を……匿ってきました。
ひとりきりで生きる力を失った者に、手を差し伸べることが――
間違いであったとは、思いたくないのですが」
言葉を選びながらの語り。
彼は、決して彼女を否定したくはなかった。
だが――
「最近、少し……持て余してしまっているのです。彼女に心配をかけているのは、わかっているのですが……」
その一言に、執事がわずかに視線を上げる。
カーチャは驚いた様子も見せず、静かに耳を傾けていた。
「彼女の話を聞くたびに、閉じ込められていくような気がするのです。
ユリウス殿下との駆け引き、あなた様や兄上と過ごす時間――
あまりに楽しく、刺激に満ちていて。
比べるまでもないとわかっていながら、どうしても……」
「……あちらの家へ戻るのが、億劫になるのですね」
カーチャの言葉は、ただ静かで、柔らかかった。
そこに責める色はない。
まるで彼の心の奥を、すでに見通していたかのように。
ヴァルターは、わずかに頷く。
「けれど、彼女には……吾しかいない。
見捨てるつもりはありません。
ただこのままでは、吾は、彼女を欺いてしまいそうで……」
しばしの沈黙。
そして、穏やかな声が部屋に満ちた。
「でしたら、そのお方も……こちらへお迎えしてはいかがかしら?」
「……え?」
「離れでよろしければ。
使用人の目も届きますし、目が見えないのであれば、なにかと不便でしょう?
それに――」
言葉を一度切り、カーチャは微笑を残したまま続けた。
「あなた様が、ひとりで背負わなくてもよくなるわ」
ヴァルターは、しばらく何も返せなかった。
その視線の先で、カーチャは変わらぬ笑みをたたえていた。
期待も、責めも、押しつけも――何もない。
彼女はただ、手を差し出したのだ。
重くもなく、軽すぎもせず、誰よりも自然に。
「……それは……とてもありがたいお申し出です」
その声は、“誰かに救われた”男の、初めての言葉だった。
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