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第1話 崩れ方が――ずっと欲しかったものに似ている。
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人に優しくするのは、得意だ。
正確には――「優しい人に見えるように振る舞う」のが得意だ。
笑顔は三割。声は柔らかく、語尾は丸く。相手の言葉を遮らない。否定はしない。肯定から入る。必要以上に踏み込まず、必要なときだけ頼りがいを出す。
この領地で働くようになってから、俺はそれを徹底してきた。
領主さまは若く、真面目で、善い人だ。だから余計に、周囲を動かす歯車は滑らかでなければならない。俺が“角”になったら、領地の空気が荒れる。
荒れた空気は、人を疲れさせる。
――疲れた人間は、判断を誤る。
だから俺はいつも、穏やかで、ふんわりした“天然の補佐官”を演じている。
少し抜けているくらいが丁度いい。完璧すぎると怖がられるし、有能すぎると妬まれる。ほどよく、優しく、頼れて、面倒にならない人間。
そんな男でいれば、誰も俺を本気で嫌わない。
誰も、本気で踏み込んでこない。
――それが、俺には安全だった。
***
今日も予定は詰まっていた。
朝は税の報告書の整理。昼は騎士団の備品の見直し。夕方は商会との交渉の立会い。夜は領主さまの執務の補佐と、明日の段取り。
終わってみれば、空はすっかり暗い。
屋敷の廊下を歩く足音が、やけに自分の耳に響く。
灯りの下で、自分の影が伸びるたび、喉の奥が妙に乾く。
――帰りたい。
帰りたい、という言葉が、胸の奥のいちばん柔らかいところから浮かび上がってきて、俺は無意識にそれを押し潰した。
そんなのは子どもの言葉だ。
俺が言うべき言葉は、“大丈夫です”だけでいい。
部屋の扉に手をかけたとき、向こうから小さな足音が近づいてきた。
そして。
扉が開くより早く、香りが届く。
湯気と、茶葉の甘い匂い。少しだけ蜂蜜みたいな、やわらかい香り。
俺の“安全”を崩してくる香りだ。
「お帰りなさい」
彼女が立っていた。
屋敷の廊下の灯りよりも、ずっと柔らかい目で、こちらを見る。
婚約者――いや、正式には“婚約予定”の相手。
領地の安定のため。領主さまの方針のため。家同士の都合のため。
そういう理屈で片づけられる関係のはずだった。
なのに、この人はいつも――理屈だけで俺を見てくれない。
「温かいお茶、入れました」
両手でお盆を支えている。湯気の立つカップが二つ。俺の分と、彼女の分。あまり甘くない香りなのに、胸が勝手にほどけそうになる。
「……ありがとうございます」
笑顔、三割。
声、柔らかく。語尾は丸く。
いつもの手順で言ったのに、喉が一瞬だけつまった。
彼女は俺の顔を覗きこむ。
まるで「今日のあなたは、何色ですか」と聞くみたいに。
「今日も、お仕事たくさんでした?」
「はい。少しだけ、立て込みました」
少しだけ。
その言葉が、自分の口から出た途端、嘘だと分かった。
立て込みました、じゃない。
削れている。
細くなっている。
でもそれを見せたら、迷惑だ。
甘えたら、きっと――
「お部屋、寒いです。先にあたためておきました」
彼女が、当然みたいに言う。
「……え?」
「毛布も、あります」
言って、彼女はお盆をこちらに差し出した。
「飲んでください。……今日は、“大丈夫です”は、いりません」
心臓が、どく、と鳴った。
それは俺が“演技”で作ってきた壁を、指先で叩かれたみたいな音だった。
「……どうして」
俺は、うっかり聞いてしまう。
それは相手に踏み込む質問だ。俺は踏み込まれるのが嫌なくせに、自分から踏み込んでしまった。
彼女は少しだけ笑う。
でも甘い笑いじゃない。
真面目な、逃がさない笑いだ。
「あなたが、疲れてるから」
言い切る。
迷いも、揺れもなく。
怖い。
彼女の目は、俺を見抜く。優しさの皮の下まで。
「……平気です」
言いかけて、止まる。
彼女が言った。
“今日は、大丈夫ですはいりません”
その言葉が頭の中で繰り返される。
禁止だ。
逃げ道を塞がれている。
俺は、そのことに――不思議な安心を覚えた。
「……すみません」
代わりに出た言葉は謝罪だった。
これなら安全だ。これなら誰も困らない。これなら嫌われない。
ところが彼女は首を振る。
「謝らないで」
柔らかい声なのに、有無を言わせない。
「疲れたなら、疲れたって言っていい」
「でも……」
「言って」
命令じゃない。
お願いでもない。
――当然だという顔。
その当然が、俺には眩しくて、怖い。
それでも。
喉の奥に押し込んでいた言葉が、ゆっくり浮き上がってくる。
「……帰りたいです」
言った瞬間。
世界が一ミリだけ静かになった気がした。
音が消える。
廊下の灯りが、優しくなる。
彼女の表情が、ふわりとほどけた。
「うん。帰ってきたね」
違う。
俺が言ったのは“帰りたい”で――
彼女は“帰ってきた”と言った。
その差に、胸が痛くなる。
でもそれは、嫌な痛みじゃない。
ずっと感じたことのない、あたたかい痛みだ。
「お茶、飲も」
彼女が言う。
そして、ほんの少しだけ躊躇ってから――俺の袖をつまんだ。
つまむ、という控えめな動作なのに、俺の心の方が引っ張られる。
俺は思わず、自分の手を握りしめた。
甘えたい。
このまま、彼女の言う通りにしてしまいたい。
でもそれは、怖い。
「……重いですか」
彼女が聞いた。
何が?
袖をつまむこと?
お茶を入れること?
疲れを見抜くこと?
全部だ。
全部、重い。
でも――
俺は小さく首を振った。
「……重くないです」
嘘じゃない。
「むしろ……助かります」
言った瞬間、彼女の目がやわらかく揺れた。
嬉しそうなのに、泣きそうな目。
俺はその視線に、胸の奥がきゅっと縮まる。
「じゃあ、今日はね」
彼女が、当たり前のように言う。
「あなたが眠くなるまで、ここにいる」
俺の心が、危ない音を立てた。
崩れる。
崩れてしまう。
でも、その崩れ方が――ずっと欲しかったものに似ている。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、俺は小さく息を吐いた。
それは、降参の息だった。
彼女はそれを見て、にこっと笑った。
「よし。帰ろう」
袖をつまんだまま。
俺の居場所を、引っ張っていくみたいに。
俺はその一歩に従ってしまう。
従ってしまったことに、ほっとしてしまう。
――ああ、だめだ。
この人の前では、俺の“安全”が、簡単に負ける。
でも負けたところにあるのは、怖さだけじゃない。
静かで、温かくて。
今まで知らなかった、帰る場所の匂いがした。
正確には――「優しい人に見えるように振る舞う」のが得意だ。
笑顔は三割。声は柔らかく、語尾は丸く。相手の言葉を遮らない。否定はしない。肯定から入る。必要以上に踏み込まず、必要なときだけ頼りがいを出す。
この領地で働くようになってから、俺はそれを徹底してきた。
領主さまは若く、真面目で、善い人だ。だから余計に、周囲を動かす歯車は滑らかでなければならない。俺が“角”になったら、領地の空気が荒れる。
荒れた空気は、人を疲れさせる。
――疲れた人間は、判断を誤る。
だから俺はいつも、穏やかで、ふんわりした“天然の補佐官”を演じている。
少し抜けているくらいが丁度いい。完璧すぎると怖がられるし、有能すぎると妬まれる。ほどよく、優しく、頼れて、面倒にならない人間。
そんな男でいれば、誰も俺を本気で嫌わない。
誰も、本気で踏み込んでこない。
――それが、俺には安全だった。
***
今日も予定は詰まっていた。
朝は税の報告書の整理。昼は騎士団の備品の見直し。夕方は商会との交渉の立会い。夜は領主さまの執務の補佐と、明日の段取り。
終わってみれば、空はすっかり暗い。
屋敷の廊下を歩く足音が、やけに自分の耳に響く。
灯りの下で、自分の影が伸びるたび、喉の奥が妙に乾く。
――帰りたい。
帰りたい、という言葉が、胸の奥のいちばん柔らかいところから浮かび上がってきて、俺は無意識にそれを押し潰した。
そんなのは子どもの言葉だ。
俺が言うべき言葉は、“大丈夫です”だけでいい。
部屋の扉に手をかけたとき、向こうから小さな足音が近づいてきた。
そして。
扉が開くより早く、香りが届く。
湯気と、茶葉の甘い匂い。少しだけ蜂蜜みたいな、やわらかい香り。
俺の“安全”を崩してくる香りだ。
「お帰りなさい」
彼女が立っていた。
屋敷の廊下の灯りよりも、ずっと柔らかい目で、こちらを見る。
婚約者――いや、正式には“婚約予定”の相手。
領地の安定のため。領主さまの方針のため。家同士の都合のため。
そういう理屈で片づけられる関係のはずだった。
なのに、この人はいつも――理屈だけで俺を見てくれない。
「温かいお茶、入れました」
両手でお盆を支えている。湯気の立つカップが二つ。俺の分と、彼女の分。あまり甘くない香りなのに、胸が勝手にほどけそうになる。
「……ありがとうございます」
笑顔、三割。
声、柔らかく。語尾は丸く。
いつもの手順で言ったのに、喉が一瞬だけつまった。
彼女は俺の顔を覗きこむ。
まるで「今日のあなたは、何色ですか」と聞くみたいに。
「今日も、お仕事たくさんでした?」
「はい。少しだけ、立て込みました」
少しだけ。
その言葉が、自分の口から出た途端、嘘だと分かった。
立て込みました、じゃない。
削れている。
細くなっている。
でもそれを見せたら、迷惑だ。
甘えたら、きっと――
「お部屋、寒いです。先にあたためておきました」
彼女が、当然みたいに言う。
「……え?」
「毛布も、あります」
言って、彼女はお盆をこちらに差し出した。
「飲んでください。……今日は、“大丈夫です”は、いりません」
心臓が、どく、と鳴った。
それは俺が“演技”で作ってきた壁を、指先で叩かれたみたいな音だった。
「……どうして」
俺は、うっかり聞いてしまう。
それは相手に踏み込む質問だ。俺は踏み込まれるのが嫌なくせに、自分から踏み込んでしまった。
彼女は少しだけ笑う。
でも甘い笑いじゃない。
真面目な、逃がさない笑いだ。
「あなたが、疲れてるから」
言い切る。
迷いも、揺れもなく。
怖い。
彼女の目は、俺を見抜く。優しさの皮の下まで。
「……平気です」
言いかけて、止まる。
彼女が言った。
“今日は、大丈夫ですはいりません”
その言葉が頭の中で繰り返される。
禁止だ。
逃げ道を塞がれている。
俺は、そのことに――不思議な安心を覚えた。
「……すみません」
代わりに出た言葉は謝罪だった。
これなら安全だ。これなら誰も困らない。これなら嫌われない。
ところが彼女は首を振る。
「謝らないで」
柔らかい声なのに、有無を言わせない。
「疲れたなら、疲れたって言っていい」
「でも……」
「言って」
命令じゃない。
お願いでもない。
――当然だという顔。
その当然が、俺には眩しくて、怖い。
それでも。
喉の奥に押し込んでいた言葉が、ゆっくり浮き上がってくる。
「……帰りたいです」
言った瞬間。
世界が一ミリだけ静かになった気がした。
音が消える。
廊下の灯りが、優しくなる。
彼女の表情が、ふわりとほどけた。
「うん。帰ってきたね」
違う。
俺が言ったのは“帰りたい”で――
彼女は“帰ってきた”と言った。
その差に、胸が痛くなる。
でもそれは、嫌な痛みじゃない。
ずっと感じたことのない、あたたかい痛みだ。
「お茶、飲も」
彼女が言う。
そして、ほんの少しだけ躊躇ってから――俺の袖をつまんだ。
つまむ、という控えめな動作なのに、俺の心の方が引っ張られる。
俺は思わず、自分の手を握りしめた。
甘えたい。
このまま、彼女の言う通りにしてしまいたい。
でもそれは、怖い。
「……重いですか」
彼女が聞いた。
何が?
袖をつまむこと?
お茶を入れること?
疲れを見抜くこと?
全部だ。
全部、重い。
でも――
俺は小さく首を振った。
「……重くないです」
嘘じゃない。
「むしろ……助かります」
言った瞬間、彼女の目がやわらかく揺れた。
嬉しそうなのに、泣きそうな目。
俺はその視線に、胸の奥がきゅっと縮まる。
「じゃあ、今日はね」
彼女が、当たり前のように言う。
「あなたが眠くなるまで、ここにいる」
俺の心が、危ない音を立てた。
崩れる。
崩れてしまう。
でも、その崩れ方が――ずっと欲しかったものに似ている。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、俺は小さく息を吐いた。
それは、降参の息だった。
彼女はそれを見て、にこっと笑った。
「よし。帰ろう」
袖をつまんだまま。
俺の居場所を、引っ張っていくみたいに。
俺はその一歩に従ってしまう。
従ってしまったことに、ほっとしてしまう。
――ああ、だめだ。
この人の前では、俺の“安全”が、簡単に負ける。
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