帰ってきてください、私のところに (逃げた俺を、あなたが迎えに来る)

星乃和花

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第2話 大丈夫です、の代わりに本音を一つ。

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 部屋の扉が閉まった瞬間、外の世界が少し遠くなった。

 音が柔らかい。

 空気がぬるい。

 灯りが、やけに優しい。

 それだけで、俺は危険だった。

 安心すると、人は崩れる。

 崩れたところを見せたら、嫌われる。

 ――そう思って生きてきたのに。

「ここ、座って」

 彼女が言って、ソファに毛布を広げた。

 まるで小さな巣だ。

 人が弱くなってしまう場所。

「……大げさじゃないですか」

 笑って、逃げる。いつもの手順。

 彼女は笑わない。

「大げさでいいの。今日は」

 それから、俺のカップを両手で包むようにして渡した。

「熱いよ」

「……ありがとうございます」

 受け取った瞬間、指先がじんと温まって、胸が変に痛くなった。

 こんなことで。

 こんなことで、救われるなんて。

「飲んで」

「はい」

 一口。

 喉の奥を通る湯気が、身体の中の固いところをほどいていく。

 だめだ。

 ほどけたら、何かが出る。

 俺が隠している、いちばん恥ずかしいものが。

「……今日、なにが一番大変だった?」

 彼女は向かいの椅子じゃなく、ソファの端に座った。

 近すぎない距離。

 でも、遠くない。

 逃げ道を残しているふりをして、ちゃんと塞いでいる距離。

「それは……」

 答えようとして、言葉が止まる。

 大変だったことを語るのは、弱音だ。

 弱音を言うのは、甘えだ。

 甘えは――危険だ。

「……言わなくてもいい?」

 俺は、笑って言った。

 逃げるのが上手い。

 この世界のどこに行っても、俺は逃げ切れる。

 そう思っていたのに。

「いいよ」

 彼女はあっさり頷いた。

 そのあまりの潔さに、逆に心臓が跳ねた。

 責められると思ったのに。

 追い詰められると思ったのに。

「でも」

 彼女は続けた。

 声は柔らかいのに、言葉は真っすぐだった。

「“大丈夫です”は禁止」

「……」

「今から、あなたの中で禁止ね」

 俺は、思わず息を詰めた。

 禁止。

 それは俺の最後の盾だ。

 大丈夫です、と言っておけば、誰も心配しない。誰も踏み込まない。俺は迷惑にならない。

 その盾を取り上げられたら――

「……それは、困ります」

 小さく笑ってみせる。

 冗談にすれば、丸く収まる。

 そのはずだった。

 彼女は首をかしげた。

「困るの?」

「……困ります」

「なんで?」

 なんで、なんて。

 そんなの決まっている。

 それを言ったら、もう戻れない。

 俺の口は、いつもなら上手に嘘を選ぶ。

 でも今日は、ひどく不器用だった。

「……俺が、弱いのがばれるからです」

 言ってしまった。

 言った瞬間、身体の中の何かが、ぱき、と音を立てて割れた。

 彼女は、驚かない。

 少しだけ眉を下げて、俺を見る。

「ばれたら、どうなるの?」

 質問が、優しい刃だった。

「……嫌われます」

 喉が震えた。

 俺はこの言葉を、ずっと言わないようにしてきた。

 言ったら本当になるから。

「……迷惑、かけます」

 もう一つ、落ちる。

 落ちた言葉は床に転がって、消えない。

 彼女は、ふっと息を吐いた。

 怒ってるわけじゃない。

 呆れてもいない。

 ただ、悲しそうだった。

「嫌わないよ」

 その否定が、あまりにも自然で。

 俺は逆に、怖くなる。

「でも……」

「でも、じゃない」

 彼女はゆっくり、毛布の端を整えながら言った。

「私、あなたのこと好きだよ」

 ――来た。

 それは一番危険な言葉だ。

 好き、なんて。

 そんな簡単に言わないでほしい。

 俺が受け取れないのに。

 俺の手は空っぽなのに。

 彼女はさらに言う。

「好きだから、あなたの“弱いところ”も欲しい」

 欲しい。

 そんな言い方。

 まるで――当たり前の取り分みたいに。

 重い。

 普通の人なら、重いと感じるだろう。

 でも俺の胸の奥は、なぜか少しだけ軽くなった。

 怖いのに。

 嬉しい。

 その両方が、胸の中で絡まってしまう。

「……重いですね」

 俺は、やっと絞り出すように言った。

 冗談の形にして、逃げるために。

 彼女はにこっと笑う。

 でも、逃がしてくれない笑いだ。

「うん。重いよ」

 さらっと言った。

 それが、彼女の強さだった。

 自分の愛を、誤魔化さない。

 怖がらない。

「私ね、軽い好きはできないの」

「……」

「あなたが好きになったら、ちゃんと抱える。最後まで」

 最後まで。

 そんな言葉、簡単に言ってはいけない。

 そんなことを言ったら、俺は――信じてしまう。

 信じて、甘えてしまう。

 甘えて、崩れてしまう。

 崩れて、もしも。

 もしも、最後じゃなかったら。

「だから、禁止」

 彼女は指を一本立てた。

「“大丈夫です”は禁止。代わりに――」

 彼女は少し考えて、言った。

「本音を一つ言うこと」

「本音……」

「うん。何でもいい」

 彼女は自分のカップを一口飲んで、さらっと言った。

「例えば、今なら」

 彼女は俺の顔を見た。

「“眠い”とか」

 俺の胸が、どくんと跳ねる。

 そんな簡単な言葉が。

 俺には、言えない。

 眠いと言ったら、休みたいと言うことになる。

 休みたいと言ったら、頼りたいと言うことになる。

 頼りたいと言ったら――

 甘えたいと言うことになる。

 彼女は急かさない。

 ただ、待つ。

 待つことで、逃げ道を塞ぐ。

 優しく、確実に。

「……眠いです」

 言えた。

 すごく小さな声だったけど。

 言えた瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなる。

「うん」

 そして、当然のように毛布を俺の肩にかけた。

「じゃあ、寝よ」

「……寝るんですか」

「寝る。あなたは今日、頑張った」

 頑張った。

 そんな評価、久しぶりに聞いた。

 褒められるのが怖い。

 褒められたら、もっと頑張らなきゃいけなくなる。

 でも彼女の“頑張った”は違う。

 “もう十分”と言うための言葉だった。

「……ここで?」

 俺が聞くと、彼女は頷いた。

「ここで。私もここにいる」

 俺は思わず言いそうになる。

 大丈夫です。

 でも禁止だ。

 代わりに、何を言えばいい。

 本音を一つ。

 本音。

 喉の奥から、勝手に出てきた。

「……一人にしないでください」

 言った瞬間。

 空気が、止まった。

 俺は、自分で自分の言葉に驚いた。

 こんなの、言うつもりじゃなかった。

 恥ずかしい。

 惨めだ。

 重い。

 でも。

 彼女は、ほんの少し目を細めて。

 すごく静かに笑った。

 嬉しそうに。

「うん。しないよ」

 当たり前のように言う。

 その当たり前が、俺を泣かせそうにする。

「私、重いから」

 彼女はさらっと付け足した。

「あなたが嫌って言っても、置いていかない」

 俺は息を詰めた。

 嫌って言っても?

 そんなこと、言えるわけがない。

 言えるはずがないのに――この人は全部見越して、許してしまう。

「……ずるいです」

 俺は笑った。

 でも笑いは、うまく形にならなかった。

「ずるくていいよ」

 彼女は言う。

「だってあなた、ずっと一人で頑張ってきたでしょ」

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 俺は、慌てて視線を逸らす。

 泣くなんて、最悪だ。

 泣いたら、完全に崩れる。

 崩れたら、――

「ねえ」

 彼女が小さく呼んだ。

 逸らした視線の先に、彼女の手があった。

 触れるか触れないかの距離。

 差し出しているのに、強要しない。

 でも、逃げない。

「手、繋ぐ?」

 その提案は、あまりにも優しくて。

 俺は、危うく頷きそうになった。

 頷いたら、もう戻れない。

 でも――戻りたいのか?

 俺は、毛布の下で指をぎゅっと握りしめる。

 それから、ゆっくり開いて。

 彼女の手に、そっと触れた。

 触れた瞬間、彼女の指がこちらを包む。

 あたたかい。

 逃げられない。

 逃げなくていい。

 その感覚が、胸の奥を溶かしていく。

「……眠いです」

 もう一度言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。

「うん。寝よ」

 そして、少しだけ声を落として言った。

「大丈夫だよ」

 その言葉が。

 今まで俺が盾にしてきた“大丈夫です”と、まるで違う意味で胸に落ちた。

 俺は、瞼を閉じる。

 眠る前の最後の意識で思った。

 ――この人の重さは、鎖じゃない。

 帰る場所だ。

 だから俺は、ここで崩れてもいい。

 崩れても、嫌われない。

 崩れても、置いていかれない。

 そう思えた瞬間。

 俺はようやく、眠りに落ちた。
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