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第4話 俺の社会的“安全”と、本音チェック表の導入。
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朝は、残酷だ。
なぜなら――何事もなかったふりをしなければならないから。
昨夜、俺は彼女の腕の中で崩れた。
「行かないでください」なんて言った。
頬にキスもされた。
胸が熱くて、喉が詰まって、息ができなくなるほど優しくされた。
それを、翌朝になって――平然としていろ、と?
無理だ。
俺は補佐官だ。
平然とするのが仕事だ。
――いや、それでも無理だ。
寝室で身支度を整えながら、鏡の中の自分を見つめた。
顔はいつも通りだ。
髪も整っている。
制服もきちんとしている。
なのに。
目の奥だけが、何かを知ってしまった目をしている。
あたたかさを覚えた人間の目。
帰る場所を知ってしまった人間の目。
……最悪だ。
ここで“優しいふり”を取り戻さないといけない。
笑顔、三割。
声、柔らかく。
語尾、丸く。
天然、ふんわり。
人畜無害。
俺は深呼吸して、廊下へ出た。
***
朝食の席は、いつもより静かだった。
領主さまは書類を見ながら食べる癖があるし、使用人たちは必要以上に話しかけない。
俺はいつも通り、段取りを確認しながら口を動かした。
「本日は十時から商会との件、続きがあります。午後は騎士団の備品確認、その後――」
完璧だ。
落ち着いている。
いつも通りの俺。
そう思った瞬間。
「おはよう」
彼女が来た。
やわらかい声。
やわらかい足音。
やわらかい笑顔。
そして――昨夜の気配を、そのまま持ってくる目。
俺の心臓が一拍、跳ねた。
ダメだ。
崩れる。
俺は咄嗟に、優しい天然の仮面をかぶる。
「おはようございます。今日もいい朝ですね」
よし。演技成功。
彼女は俺の隣に座り、当然のようにパンを取り分けた。
それから、俺の方を見て、にこっと言った。
「今日は、“本音”何?」
――そこで言うな。
心の中の俺が叫んだ。
ここ、朝食の席だ。
領主さまもいる。
使用人もいる。
俺の“安全”は社会的なものなんだ。頼むから、それを壊さないでくれ。
俺は微笑んだまま、喉の奥で唸る。
「……本音は、後ほど」
「うん。じゃあ後で回収するね」
回収。
言い方が、あまりにも軽いのに、内容が重い。
俺は笑顔のまま息が詰まりそうになった。
そして彼女は、さらっと追撃してくる。
「あと、“大丈夫です”禁止、継続ね」
――やめろ。
俺はカップを落としかけた。
「……はい」
「はい、じゃなくて?」
笑っているのに、逃がしてくれない。
俺は歯を食いしばった。
「……わかりました」
それで許されたようで、彼女は満足そうに頷いた。
……この人、可愛い顔して恐ろしい。
愛が重い、というより。
愛の管理能力が高い。
俺はパンを咀嚼しながら、心の中で静かに震えた。
今日は長い一日になりそうだ。
***
午前の執務は滞りなく終わった。
商会との交渉も、資料が揃っていたおかげでスムーズに進んだ。
騎士団の備品の件も問題なし。
誰も困らない。
誰も怒らない。
誰も俺を疑わない。
完璧だ。
そう思って――執務室の廊下へ出た瞬間だった。
柱の陰から、彼女がぬっと現れた。
ぬっと、という表現が一番近い。
気配がないのに、存在感だけがある。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
俺は反射的に笑顔を作る。
逃げようとする。
すると彼女は、まるで業務連絡のように言った。
「回収しに来たよ」
「……何を」
「本音」
来た。
来てしまった。
俺は咄嗟に周囲を見回した。
誰もいない。
良かった。
良くない。
誰もいないと、逃げ道がない。
「……本音、ですか」
「うん」
彼女は小さな紙束を取り出した。
そこには、まさかの。
――表。
線が引かれた、きれいな表。
見出しまである。
「……それは」
俺が声を絞り出すと、彼女は堂々と言った。
「本音チェック表」
最悪だ。
いや、最悪じゃない。
最高に恐ろしい。
「朝・昼・夜で、最低一回ずつ本音を言う」
彼女は指でトントンと紙を叩く。
「言えたら丸。言えなかったら、代わりに“ぎゅー”」
……待て。
ぎゅー?
「……それは」
「罰じゃないよ」
彼女はにこっと笑った。
「救済」
救済。
この人は自分の愛を“救済”と言った。
重い。
でも、胸の奥が少し楽になる。
俺はそれが悔しくて、唇を噛んだ。
「……仕事中に、抱きしめるんですか」
「ううん。仕事中はさすがに我慢する」
我慢、という言葉が出る時点で怪しい。
「だから、今、本音言って。丸つけたい」
丸つけたい。
そんな軽い動機に見せかけて――実際は俺を生かすための管理だ。
俺は深呼吸した。
本音。
本音を一つ。
「……眠いです」
言った瞬間、彼女の目がぱっと明るくなる。
「丸!」
カリッ、とペンの音がした。
俺の尊厳が、静かに削れる音でもあった。
彼女は表を見て、続ける。
「もう一個いける?」
鬼だ。
この人、鬼だ。
でも、優しい鬼だ。
「……無理です」
「じゃあ救済」
そう言って、彼女は一歩近づいた。
その距離感が、昨夜の続きを連れてくる。
俺の心臓が正直に跳ねてしまう。
「ここで?」
俺が小声で問うと、彼女は首を振った。
「ううん。ここはダメ」
ほっとした。
と思った瞬間。
彼女は俺の袖をつまんだ。
昨夜と同じ、控えめな掴み方。
それだけで、全身が熱くなる。
「代わりに」
彼女は小声で言った。
「手、繋ぐ」
俺は息を止めた。
それは抱きしめより危険だ。
なぜなら、手を繋ぐのは――日常に入り込む行為だから。
恋人のふりじゃない。
婚約者の儀礼でもない。
ただ、好きな人として繋ぐ手。
「……人が」
「いないよ」
即答。
見ていた。
確認していた。
準備していた。
この人は恐ろしい。
俺は袖をつままれたまま、逃げるべきか悩んだ。
悩んでいる間に――指が、触れた。
彼女の指が、俺の指を捕まえる。
ほんの一瞬。
触れるだけ。
なのに。
胸の奥が、甘い痛みでいっぱいになる。
俺は思わず、声を落とした。
「……ずるいです」
「うん」
彼女が小さく笑う。
「ずるいの、得意」
得意って言うな。
可愛い声で言うな。
俺は完全に負ける。
彼女は手を離さず、もう一度だけ聞いた。
「じゃあ、次の本音」
俺は顔を逸らした。
言いたくない。
言ったら終わる。
でも、言わないと――この手が離れる気がしてしまう。
その焦りが、すでに重い。
俺の方が重い。
俺は諦めて、息を吐いた。
「……帰りたいです」
言った瞬間、彼女の手が少しだけ強く握られた。
「うん」
「帰ろう」
帰ろう。
その言葉は、命令じゃなくて約束だった。
俺はそれに、目の奥が熱くなるのを感じた。
彼女はさらっとチェック表に丸をつける。
「昼、達成」
達成って何だ。
俺は何の試練を受けているんだ。
でも。
達成、と言われて、胸の奥が少しだけ誇らしくなる自分がいる。
――最悪だ。
彼女は満足そうに頷いて、最後に言った。
「夜も回収するね」
回収。
また回収。
俺は笑うしかなかった。
「……容赦ないですね」
「うん」
彼女は当然のように言う。
「あなたが好きだから」
その一言で。
俺の仮面は、またひびが入った。
ひびが入るのに、嫌じゃない。
怖いのに、嬉しい。
俺は、彼女の手の温度を忘れないように、指を少しだけ動かした。
彼女が、嬉しそうに指を絡め返す。
……だめだ。
昼間にこれはだめだ。
俺の“優しいふり”が、職務に戻れなくなる。
でも彼女は、最後にもう一回だけ笑って言った。
「ね。今日も生きるの、上手」
上手。
その言葉が、なぜか胸に沁みた。
俺は小さく息を吐きながら、頷いた。
「……努力してます」
それは、本音だった。
なぜなら――何事もなかったふりをしなければならないから。
昨夜、俺は彼女の腕の中で崩れた。
「行かないでください」なんて言った。
頬にキスもされた。
胸が熱くて、喉が詰まって、息ができなくなるほど優しくされた。
それを、翌朝になって――平然としていろ、と?
無理だ。
俺は補佐官だ。
平然とするのが仕事だ。
――いや、それでも無理だ。
寝室で身支度を整えながら、鏡の中の自分を見つめた。
顔はいつも通りだ。
髪も整っている。
制服もきちんとしている。
なのに。
目の奥だけが、何かを知ってしまった目をしている。
あたたかさを覚えた人間の目。
帰る場所を知ってしまった人間の目。
……最悪だ。
ここで“優しいふり”を取り戻さないといけない。
笑顔、三割。
声、柔らかく。
語尾、丸く。
天然、ふんわり。
人畜無害。
俺は深呼吸して、廊下へ出た。
***
朝食の席は、いつもより静かだった。
領主さまは書類を見ながら食べる癖があるし、使用人たちは必要以上に話しかけない。
俺はいつも通り、段取りを確認しながら口を動かした。
「本日は十時から商会との件、続きがあります。午後は騎士団の備品確認、その後――」
完璧だ。
落ち着いている。
いつも通りの俺。
そう思った瞬間。
「おはよう」
彼女が来た。
やわらかい声。
やわらかい足音。
やわらかい笑顔。
そして――昨夜の気配を、そのまま持ってくる目。
俺の心臓が一拍、跳ねた。
ダメだ。
崩れる。
俺は咄嗟に、優しい天然の仮面をかぶる。
「おはようございます。今日もいい朝ですね」
よし。演技成功。
彼女は俺の隣に座り、当然のようにパンを取り分けた。
それから、俺の方を見て、にこっと言った。
「今日は、“本音”何?」
――そこで言うな。
心の中の俺が叫んだ。
ここ、朝食の席だ。
領主さまもいる。
使用人もいる。
俺の“安全”は社会的なものなんだ。頼むから、それを壊さないでくれ。
俺は微笑んだまま、喉の奥で唸る。
「……本音は、後ほど」
「うん。じゃあ後で回収するね」
回収。
言い方が、あまりにも軽いのに、内容が重い。
俺は笑顔のまま息が詰まりそうになった。
そして彼女は、さらっと追撃してくる。
「あと、“大丈夫です”禁止、継続ね」
――やめろ。
俺はカップを落としかけた。
「……はい」
「はい、じゃなくて?」
笑っているのに、逃がしてくれない。
俺は歯を食いしばった。
「……わかりました」
それで許されたようで、彼女は満足そうに頷いた。
……この人、可愛い顔して恐ろしい。
愛が重い、というより。
愛の管理能力が高い。
俺はパンを咀嚼しながら、心の中で静かに震えた。
今日は長い一日になりそうだ。
***
午前の執務は滞りなく終わった。
商会との交渉も、資料が揃っていたおかげでスムーズに進んだ。
騎士団の備品の件も問題なし。
誰も困らない。
誰も怒らない。
誰も俺を疑わない。
完璧だ。
そう思って――執務室の廊下へ出た瞬間だった。
柱の陰から、彼女がぬっと現れた。
ぬっと、という表現が一番近い。
気配がないのに、存在感だけがある。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
俺は反射的に笑顔を作る。
逃げようとする。
すると彼女は、まるで業務連絡のように言った。
「回収しに来たよ」
「……何を」
「本音」
来た。
来てしまった。
俺は咄嗟に周囲を見回した。
誰もいない。
良かった。
良くない。
誰もいないと、逃げ道がない。
「……本音、ですか」
「うん」
彼女は小さな紙束を取り出した。
そこには、まさかの。
――表。
線が引かれた、きれいな表。
見出しまである。
「……それは」
俺が声を絞り出すと、彼女は堂々と言った。
「本音チェック表」
最悪だ。
いや、最悪じゃない。
最高に恐ろしい。
「朝・昼・夜で、最低一回ずつ本音を言う」
彼女は指でトントンと紙を叩く。
「言えたら丸。言えなかったら、代わりに“ぎゅー”」
……待て。
ぎゅー?
「……それは」
「罰じゃないよ」
彼女はにこっと笑った。
「救済」
救済。
この人は自分の愛を“救済”と言った。
重い。
でも、胸の奥が少し楽になる。
俺はそれが悔しくて、唇を噛んだ。
「……仕事中に、抱きしめるんですか」
「ううん。仕事中はさすがに我慢する」
我慢、という言葉が出る時点で怪しい。
「だから、今、本音言って。丸つけたい」
丸つけたい。
そんな軽い動機に見せかけて――実際は俺を生かすための管理だ。
俺は深呼吸した。
本音。
本音を一つ。
「……眠いです」
言った瞬間、彼女の目がぱっと明るくなる。
「丸!」
カリッ、とペンの音がした。
俺の尊厳が、静かに削れる音でもあった。
彼女は表を見て、続ける。
「もう一個いける?」
鬼だ。
この人、鬼だ。
でも、優しい鬼だ。
「……無理です」
「じゃあ救済」
そう言って、彼女は一歩近づいた。
その距離感が、昨夜の続きを連れてくる。
俺の心臓が正直に跳ねてしまう。
「ここで?」
俺が小声で問うと、彼女は首を振った。
「ううん。ここはダメ」
ほっとした。
と思った瞬間。
彼女は俺の袖をつまんだ。
昨夜と同じ、控えめな掴み方。
それだけで、全身が熱くなる。
「代わりに」
彼女は小声で言った。
「手、繋ぐ」
俺は息を止めた。
それは抱きしめより危険だ。
なぜなら、手を繋ぐのは――日常に入り込む行為だから。
恋人のふりじゃない。
婚約者の儀礼でもない。
ただ、好きな人として繋ぐ手。
「……人が」
「いないよ」
即答。
見ていた。
確認していた。
準備していた。
この人は恐ろしい。
俺は袖をつままれたまま、逃げるべきか悩んだ。
悩んでいる間に――指が、触れた。
彼女の指が、俺の指を捕まえる。
ほんの一瞬。
触れるだけ。
なのに。
胸の奥が、甘い痛みでいっぱいになる。
俺は思わず、声を落とした。
「……ずるいです」
「うん」
彼女が小さく笑う。
「ずるいの、得意」
得意って言うな。
可愛い声で言うな。
俺は完全に負ける。
彼女は手を離さず、もう一度だけ聞いた。
「じゃあ、次の本音」
俺は顔を逸らした。
言いたくない。
言ったら終わる。
でも、言わないと――この手が離れる気がしてしまう。
その焦りが、すでに重い。
俺の方が重い。
俺は諦めて、息を吐いた。
「……帰りたいです」
言った瞬間、彼女の手が少しだけ強く握られた。
「うん」
「帰ろう」
帰ろう。
その言葉は、命令じゃなくて約束だった。
俺はそれに、目の奥が熱くなるのを感じた。
彼女はさらっとチェック表に丸をつける。
「昼、達成」
達成って何だ。
俺は何の試練を受けているんだ。
でも。
達成、と言われて、胸の奥が少しだけ誇らしくなる自分がいる。
――最悪だ。
彼女は満足そうに頷いて、最後に言った。
「夜も回収するね」
回収。
また回収。
俺は笑うしかなかった。
「……容赦ないですね」
「うん」
彼女は当然のように言う。
「あなたが好きだから」
その一言で。
俺の仮面は、またひびが入った。
ひびが入るのに、嫌じゃない。
怖いのに、嬉しい。
俺は、彼女の手の温度を忘れないように、指を少しだけ動かした。
彼女が、嬉しそうに指を絡め返す。
……だめだ。
昼間にこれはだめだ。
俺の“優しいふり”が、職務に戻れなくなる。
でも彼女は、最後にもう一回だけ笑って言った。
「ね。今日も生きるの、上手」
上手。
その言葉が、なぜか胸に沁みた。
俺は小さく息を吐きながら、頷いた。
「……努力してます」
それは、本音だった。
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