帰ってきてください、私のところに (逃げた俺を、あなたが迎えに来る)

星乃和花

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第8話 帰ってきてください。

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 翌朝。

 俺は自分の部屋で目を覚まし、最初に感じたのは――空っぽだった。

 昨夜のあたたかさがない。

 腕の中にいた重さがない。

 息をするたびに、胸がすこし寒い。

 それだけで分かってしまう。

 俺はもう、戻れない。

 “ひとりで平気”なふりをしていた頃には、戻れない。

 それが怖かったはずなのに。

 今は、その戻れなさが少しだけ嬉しい。

 俺は身支度を整えて、廊下へ出た。

 すると、すぐに彼女に会った。

 朝の光の中の彼女は、昨夜よりも少しだけ現実に見える。

 ふんわりしているのに、確かな人。

 重いのに、優しい人。

 俺の場所。

「おはよう」

 彼女が言った。

 その声が、昨日の夜を連れてくる。

 俺の耳が熱くなる。

「……おはようございます」

 笑顔、三割。

 声、柔らかく。

 語尾、丸く。

 いつもの演技を一瞬だけ出しそうになって――俺は止めた。

 今日は、もう。

 それをしたくなかった。

 彼女は俺を見て、少しだけ笑う。

「今日は、本音、先に言っていいよ」

 回収が早い。

 朝一番の回収は、逃げ道がない。

 でも――逃げ道は、作らないと決めた。

 俺は息を吸って、言った。

「……あなたに、会えて嬉しいです」

 言った瞬間、彼女の目が柔らかく揺れた。

 少しだけ照れた顔で、頷く。

「うん」

 それから、彼女は手を差し出した。

 昨日までの彼女なら、袖をつまんだかもしれない。

 でも今日は、手だった。

 まっすぐに、堂々と。

「行こ」

 それは命令じゃない。

 当然の誘い。

 俺はその手を取った。

 指が絡む。

 朝の光の中で繋いだ手は、昨夜よりずっと現実味があった。

 これが日常になってしまう、と身体が理解する。

 俺はその事実に、胸がぎゅっとなる。

 怖いのに、嬉しい。

 ***

 その日、俺は仕事をした。

 いつも通り、ちゃんと働いた。

 優しくした。

 ふんわりした顔で話した。

 役割も果たした。

 でも、ひとつだけ違う。

 俺はもう、“ひとりで完結する優しさ”をやめていた。

 昼の本音回収で、俺は言った。

「……少し、疲れました」

 彼女が丸をつける。

 そして、当たり前みたいに言う。

「じゃあ、夜はぎゅーね」

 俺の耳が熱くなる。

「……はい」

 そして、夕方。

 俺はひとりで書庫に逃げなかった。

 窓際で立ち尽くすこともしなかった。

 彼女のところへ、ちゃんと戻った。

 ――帰った。

 彼女はそれを見て、にこっと笑った。

「えらい」

 その言葉が胸に沁みる。

 褒められるのは怖かったはずなのに、今はただ嬉しい。

 帰る場所があるからだ。

 夜。

 部屋の灯りは柔らかく、カップの湯気が立っていた。

 彼女はテーブルに何かを置く。

 薄い紙の束。

 例の、チェック表――かと思ったら。

 違った。

 新しい紙だった。

 見出しに書かれている文字を見て、俺は固まる。

 「本音リスト(あなた用)」

 ……あなた用。

 俺用。

 恐ろしい。

 そして、ありがたい。

 彼女はペンを握って、真面目な顔で言った。

「ねえ、これ」

「……また何を作ったんですか」

「あなたが“言えない本音”が多すぎるから、先に候補作った」

 候補。

 候補って何だ。

 普通、恋人に“本音候補”を配布される男がいるか?

 俺は笑いたいのに、胸が熱くて笑えなかった。

 彼女が、読み上げる。

「『眠い』『帰りたい』『触れてほしい』『ひとりは嫌』『迎えに来て』」

 待て。

 待ってくれ。

 最後の方、致命傷が混ざっている。

 彼女はさらに言う。

「あとこれ」

 彼女は少しだけ言いにくそうに、でもきっぱり言った。

「『好き』『ずっと一緒にいて』『離れないで』」

 俺は、カップを持つ手が止まった。

 耳が熱い。

 顔が熱い。

 胸が痛い。

 それは全部、俺が欲しい言葉だった。

 言いたい言葉だった。

 言えなかった言葉だった。

 彼女はその紙を、俺の前に差し出した。

「ねえ。今日は」

 声が優しい。

 でも逃がさない。

「この中から、ひとつ選んで」

 俺は、紙を見た。

 文字が揺れて見える。

 こんなの。

 選べるわけがない。

 全部ほしい。

 全部言いたい。

 全部言ったら、俺は。

 俺は――彼女を縛ってしまう。

 彼女を重くしてしまう。

 でも彼女は、重くなると言った。

 重くなっていいと言った。

 俺の重さを受け止めると言った。

 なら。

 もう一度だけ。

 逃げ道を作らずに、言ってみたい。

 俺は息を吸って。

 紙の一番下に、指を置いた。

 『ずっと一緒にいて』

 指が震える。

 喉が詰まる。

 声が出ない。

 彼女は待つ。

 待つことで、俺を守る。

 俺は唇を噛んで、絞り出した。

「……ずっと、一緒にいてください」

 言えた。

 言えた瞬間、彼女の目が潤んだ。

 でも泣かない。

 彼女は泣く代わりに、笑った。

 嬉しそうに。

「うん」

 短い返事。

 でも、その返事は――誓いだった。

 彼女はゆっくり立ち上がって、俺の前に来た。

 そして、当たり前のように抱きしめる。

 ぎゅー。

 救済のぎゅーじゃない。

 罰のぎゅーでもない。

 生活のぎゅー。

 帰ってきた人を抱くぎゅー。

 俺は彼女の肩に顔を埋めて、震える息で言った。

「……俺」

「うん」

「……あなたがいないと、もうだめです」

 彼女が少し笑った。

「うん。知ってる」

 知ってる。

 その言葉が、優しすぎる。

 俺は腕を回して、彼女を抱き返した。

 もっと強く抱いたら、壊してしまいそうで怖い。

 でも弱いと、逃げてしまいそうで怖い。

 俺はちょうどいい力を探しながら、言った。

「……お願いがあります」

 彼女が、抱きしめたまま頷く。

「なに?」

 ここで言うべき言葉は、たぶん――指輪だとか、永遠だとか、愛だとか。

 でも俺は、そういう派手な言葉がうまく言えない。

 それに。

 俺が欲しいのは、もっと現実のものだった。

 毎日。

 夜。

 帰ってきて。

 そこにいること。

 俺は、彼女の髪に指を通しながら、静かに言った。

「……帰ってきてください」

 彼女が瞬きをする。

 その目が、ゆっくり柔らかくなる。

 俺は続けた。

「これからも」

 声が震える。

 言葉が重い。

 重いのに――胸が軽くなる。

「俺のところに」

 彼女は、息を止めた。

 そして――笑った。

 泣きそうな笑い方で。

「うん。
 帰ってくる」

 その返事を聞いた瞬間、俺の胸の奥がほどけた。

 ああ。

 これでいい。

 これが、俺の誓いでいい。

 派手じゃない。

 格好よくない。

 でも俺の一番の願いで、俺の一番の愛だ。

 彼女は、抱きしめたまま囁いた。

「あなたもね」

 俺は小さく笑った。

「……はい」

 彼女は少しだけ顔を離して、俺を見上げる。

「それ、プロポーズ?」

 俺の耳が一瞬で熱くなる。

 逃げるな。

 逃げ道を作るな。

 俺は頷いた。

「……そうです」

 彼女の笑顔が、ふわっと咲いた。

「うん。
 受け取る」

 その言葉で、俺は息を吐いた。

 長い間止めていた息を、ようやく。

 俺は彼女の額に、自分の額をそっと寄せる。

 そして、小さく言った。

「……好きです」

 彼女が嬉しそうに笑う。

「うん。
 私も好き」

 その夜、俺は初めて思った。

 優しいふりをしなくても。

 ふんわり天然を演じなくても。

 役割で自分を守らなくても。

 この人は――俺を置いていかない。

 重い愛で、ちゃんと塞いでくれる。

 帰る場所を、作ってくれる。

 俺はそれが嬉しくて、怖くて、甘くて。

 彼女を抱きしめたまま、もう一度だけ言った。

「……迎えに来てください」

 彼女は笑った。

「うん。
 何回でも」

 ――その返事が、俺の人生の灯りになった。
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