帰ってきてください、私のところに (逃げた俺を、あなたが迎えに来る)

星乃和花

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エピローグ 初めてのキスは、誓いみたいだった。

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 それは、特別な日じゃなかった。

 記念日でもない。

 式の準備が進んだ日でもない。

 誰かに祝われる出来事があったわけでもない。

 ただ――いつもの夜。

 お茶の湯気が立って、毛布がソファに置かれていて、灯りが柔らかい。

 彼女がそこにいて、俺が帰ってきた夜。

 だからこそ、逃げ道がなかった。

 俺は今日も仕事を終え、彼女の部屋の扉の前で立ち止まった。

 中から聞こえる小さな音。

 カップを置く音。

 紙をめくる音。

 足音。

 彼女の気配が、この扉一枚の向こうにある。

 ――怖い。

 会いたいのに、怖い。

 好きな人に会うのが怖いなんて、情けない。

 でも、怖い。

 会ったら欲しくなるから。

 触れたら離れたくなくなるから。

 帰りたくなくなるから。

 ……いや。

 もう俺は、帰ってきてしまっている。

 俺の場所は、もうここだ。

 そう思えた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。

 その痛みを抱えたまま、俺はノックした。

「どうぞ」

 彼女の声がする。

 優しい声。

 逃がさない声。

 俺は扉を開けた。

「お帰り」

 彼女が笑う。

 その笑顔だけで、今日一日の疲れがほどける。

 俺は息を吐いて、いつもの席に座った。

 彼女がお茶を差し出す。

 ――この時間が、あまりにも当たり前になりすぎて怖い。

 当たり前になったものは、失ったときに痛い。

 だから俺は、当たり前にしないようにしてきた。

 ずっと。

 でも。

 当たり前にしてくれる人がいるなら。

 当たり前を守ってくれる人がいるなら。

 俺は、そこに甘えていいのかもしれない。

「今日の本音、回収するね」

 彼女がさらっと言う。

 最近、彼女の“回収”は夜の挨拶みたいになっていた。

 俺は小さく笑って、頷いた。

「……疲れました」

「丸」

 彼女が指で空中に丸を描く。

「もう一個は?」

 彼女は覗き込むように聞く。

 近い。

 近すぎる。

 胸が熱くなる。

 俺は逃げないように、手のひらを膝の上で握りしめた。

「……会えて嬉しいです」

 言うと、彼女の目が柔らかく揺れた。

「うん。
 私も嬉しい」

 その返事が、心臓に刺さる。

 嬉しい。

 その言葉が嬉しい。

 でも、嬉しいだけじゃ足りない。

 足りない、という欲が芽を出してしまう。

 俺は視線を落とした。

 怖い。

 欲しがったら、重い。

 でも――彼女は重さを嫌がらない。

 それどころか。

 俺の重さを「可愛い」と言う。

 ……ずるい。

 彼女はカップを置いて、少しだけ真面目な顔をした。

「ねえ」

 俺は顔を上げる。

「今日は、ひとつ聞いていい?」

 その言い方は、いつもと違った。

 “回収”じゃない。

 “確認”でもない。

 もっと、繊細な言い方。

 俺は息を止めて、頷いた。

「……はい」

 彼女は少し迷ってから、言った。

「あなた、私のこと好き?」

 心臓が跳ねた。

 そんなの、何度も言っている。

 好きだと、口にした。

 帰ってきてください、と言った。

 ずっと一緒にいてください、と言った。

 なのに。

 彼女は今、もう一度聞く。

 その理由が分かって、胸が痛んだ。

 彼女はきっと――

 言葉だけじゃなくて、確かめたいのだ。

 触れて。

 見て。

 受け取って。

 ちゃんと、ここにあると知りたい。

 それは。

 重い愛の形じゃない。

 繊細な愛の形だ。

 俺は息を吐いて、答えた。

「……好きです」

 彼女の目が少し潤む。

 彼女はうなずいて、次の質問をする。

「じゃあ、キスしてもいい?」

 俺の思考が止まった。

 キス。

 その言葉は、俺にとって“最終地点”みたいな響きがある。

 触れる、抱きしめる、手を繋ぐ。

 それらは全部、彼女の“重い愛”に救われてできるようになった。

 でもキスは――

 キスは、俺が欲しがることがはっきりしすぎる。

 欲しい。

 彼女が欲しい。

 彼女を、俺のものにしたい。

 そんな醜い欲が、露わになる。

 怖い。

 怖くて、喉が詰まる。

 彼女は待つ。

 急かさない。

 でも逃がさない。

 その待ち方が――一番優しい。

 俺は震える息で言った。

「……いいえ」

 彼女の目が、少しだけ揺れた。

 悲しむのかと思った。

 怒るのかと思った。

 でも彼女は、ただ瞬きをして、静かに聞いた。

「……嫌?」

 その一言が、俺の胸をきゅっと掴んだ。

 嫌じゃない。

 嫌なわけがない。

 俺は首を振った。

「……嫌じゃないです」

「じゃあ」

 彼女の声が、小さくなる。

「怖い?」

 俺は、頷いた。

 逃げるな。

 逃げ道を作るな。

 今日は、ちゃんと言う。

「……怖いです」

 言った瞬間、彼女はふっと笑った。

 泣きそうな笑い。

「うん。
 怖くてもいいよ」

 その許可が、胸の奥を溶かす。

 俺は苦し紛れに、言ってしまった。

「……あなたが言うと、全部許される気がします」

 彼女は、嬉しそうに目を細めた。

「うん。
 許す」

 その言葉が、ずるい。

 ずるいけど。

 俺はそれが欲しかった。

 許されることが。

 欲しがっていいことが。

 重くていいことが。

 彼女は少しだけ身を乗り出して、囁くように言った。

「じゃあね」

「……はい」

「あなたがしたいって言って」

 その言葉で、俺の胸が跳ねた。

 彼女は、俺に“決めさせる”。

 逃げ道を塞ぎながら、選ぶ権利をくれる。

 それが優しさだった。

 俺は息を吸って、喉を震わせた。

「……したいです」

 声が小さすぎて、自分でも情けない。

 それでも彼女は、ちゃんと聞いた。

「うん」

 彼女は笑って、でも動かない。

 待つ。

 今度は俺が動く番だと分かる。

 俺は立ち上がることすらできず、ただ、少しだけ前に身を傾けた。

 距離が縮まる。

 彼女の息が近い。

 目が合う。

 ――逃げたい。

 でも、逃げない。

 俺は彼女の頬に手を添えた。

 指先が震える。

 彼女は、その手の震えを笑わない。

 ただ受け止める。

 俺は目を閉じて。

 恐る恐る、唇を重ねた。

 柔らかい。

 熱い。

 その一瞬で、俺の中の“優しいふり”が全部溶けた。

 演技の手順も、盾も、全部。

 ただ、欲しい。

 ただ、好き。

 ただ、離れたくない。

 唇を離した瞬間、俺は息ができなかった。

 心臓がうるさい。

 耳が熱い。

 頬が熱い。

 俺はあまりにも情けない声で囁く。

「……すみません」

「ダメ」

 彼女が即座に言った。

 笑いながら、でも真面目に。

「謝らないで」

 俺は喉が詰まって、頷くしかなかった。

 彼女は、俺の頬に触れる。

 指先で、確かめるみたいに。

「ねえ」

「……はい」

「もう一回、していい?」

 ――だめだ。

 この人は本当に、俺を終わらせる。

 終わるのに、幸せにする。

 俺は震える息で、言った。

「……いいえ」

 彼女の目が少しだけ揺れる。

 俺は続ける。

「……俺が、したいです」

 言ってしまった。

 完全に言ってしまった。

 彼女が息を止めた。

 それから、ふわっと笑って。

「うん。
 どうぞ」

 その“どうぞ”が、可愛すぎて。

 俺はもう、耐えられなくなった。

 今度は迷わず、唇を重ねた。

 さっきより少しだけ深く。

 少しだけ長く。

 でも乱暴じゃない。

 怖がらせたくない。

 俺の欲は重いけれど、彼女を傷つけたくない。

 彼女の唇は、あたたかくて。

 そこに触れるだけで、胸がほどけていく。

 唇を離したとき、彼女が小さく笑った。

「あなた、可愛い」

 やめてくれ。

 可愛いのは、そっちだ。

 俺は額を彼女の額に寄せて、震える声で言った。

「……あなたが、悪いです」

 彼女が目を丸くする。

「私が?」

「はい」

 俺は認めたくないのに、言葉が勝手に出る。

「……あなたが、全部許すから」

 彼女は少しだけ照れて、でも誇らしそうに笑った。

「うん。
 許すよ」

 それから、彼女は囁いた。

「重くなっていいよ」

 その言葉で、俺はとうとう降参した。

 俺は彼女を抱きしめる。

 ぎゅっと。

 逃がさない、でも苦しくないくらいに。

 彼女の肩に顔を埋めて、最悪に正直なことを言った。

「……もっと、欲しいです」

 言った瞬間、彼女の腕が強くなる。

 捕獲の圧。

 優しい圧。

「うん。
 欲しがって」

 それは命令じゃない。

 許可だ。

 俺は震える息で、最後に一つだけ言った。

「……置いていかないでください」

 彼女は、迷わず答えた。

「うん。
 置いていかない」

 その夜。

 初めてのキスは、誓いみたいだった。

 派手じゃない。

 でも確かに。

 俺が帰ってくる場所が、ここだと決まるキスだった。

 俺は彼女の髪を撫でながら、囁いた。

「……帰ってきてくれて、ありがとうございます」

 彼女が笑う。

「うん。
 あなたも帰ってきて」

 俺は頷いた。

「……はい」

 逃げ道は、もう作らない。

 作っても、彼女が塞いでしまうから。

 重い愛で、やさしい圧で。

 俺が迷子にならないように。



(完
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