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1話
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石造りの壁から染み出す冷気が、薄汚れた衣類を通り越して芯まで凍てつかせる。
ここがどこなのか、エリュシオンはもう数えていない。
ただ、窓のない地下牢の隅で膝を抱え、呼吸を繋いでいるだけだった。
「……寒い」
漏れた吐息すら、ここでは贅沢な温もりに感じられた。
かつて、自分は貴族の子息だったはずだ。
しかし、魔力が至上主義とされるこの王国で、魔力を一切持たずに生まれたエリュシオンは「無能」の烙印を押された。
私生児という出自も重なり、父親からはゴミのように捨てられ、義母や異母姉からは日々の鬱憤を晴らすための道具として扱われた。
食事は三日に一度、腐りかけたパン。
会話相手は、時折壁を這うネズミだけ。
そんな生活が何年続いたのか。
エリュシオンの瞳からは光が消え、いつしか感情は凍りついた。
自分が人間であることを忘れてしまいそうな、深い絶望の淵。
その静寂を破ったのは、遠くから響く爆音だった。
ドォォォォォンッ!
地響きが独房を揺らす。
悲鳴。剣戟の音。怒号。
それらは次第に近づいてくる。
何かが起きている。だが、エリュシオンは動かなかった。
誰がこの国を滅ぼそうと、今の自分には関係のないことだ。
むしろ、このまま瓦礫に埋もれて死ねるのなら、それこそが唯一の救いのようにすら思えた。
バキィィィンッ!
牢獄の重厚な鉄扉が、まるで紙屑のように蹴破られた。
巻き上がる土煙の中に、巨大な影が立つ。
「……まだ、生きているものがいたか」
低く、重厚な声が地下室に響き渡った。
エリュシオンはゆっくりと顔を上げた。
逆光の中に立っていたのは、返り血を浴びた漆黒の鎧を纏う男だった。
夜の闇よりも深い黒髪。
獲物を狙う猛禽類のような、鋭く光る金の瞳。
その男から放たれる圧倒的な威圧感に、エリュシオンの体は本能的に震えた。
――野獣。
そう直感した。
この男が、隣国の冷酷な指導者であり、軍事強国ヴォルガード帝国の皇帝ゼノス・ヴォルガードであることを、エリュシオンはまだ知らない。
ゼノスは無造作な足取りで、縮こまるエリュシオンに近づいた。
汚れた床を軍靴が踏みしめる音が、死のカウントダウンのように聞こえる。
ゼノスはエリュシオンの目の前で足を止めると、その顎を強引に指先で掬い上げた。
「ひっ……」
「……酷い有様だな。骨と皮ばかりだ」
ゼノスの瞳が、エリュシオンの全身を舐めるように検分する。
怯えに震えるエリュシオンの瞳は、涙さえ枯れ果てて、ただ虚無を映していた。
だが、その瞬間。
ゼノスの黄金の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
「……ほう。貴様、その瞳の中に何を隠している?」
「な、なに……を……」
久しぶりに喋った声は、掠れて聞き取りづらかった。
ゼノスは黙ったまま、エリュシオンの銀髪に手を伸ばした。
泥と埃に塗れているが、その下にある輝きを男は見逃さなかった。
そして何より、男の指先に触れたエリュシオンの肌から、微かな「冷たさ」とは別の、不思議な波動を感じ取っていた。
「無能だと捨てられていたようだが……この国は盲目ばかりか。これほどの『原石』を腐らせておくとは」
「……離して、ください。僕には、何も……」
「いいや、離さない。貴様は今日から、俺のものだ」
ゼノスの言葉は絶対だった。
拒絶を許さない支配者の響き。
男は突然、エリュシオンの細い腰を片腕で抱き寄せ、軽々と抱え上げた。
「なっ、降ろして……!」
「暴れるな。貴様、このまま死ぬつもりだったのだろう? ならば、その命、俺が買い取ってやる」
エリュシオンは、男の胸板の厚さに息を呑んだ。
鉄の匂いと、男臭い熱。
冷え切った地下牢で、その体温はあまりにも熱すぎた。
「……なぜ、僕なんかに……」
「気に入った。ただ、それだけだ」
ゼノスは不敵に笑うと、背後の部下たちに言い放った。
「この者を俺の天幕へ運べ。指一本触れることは許さん。これは、俺の獲物だ」
その言葉と共に、エリュシオンの世界は反転した。
冷たく暗い地下牢から、容赦のない熱風が吹く外の世界へ。
エリュシオンは、自分を抱きかかえる男の顔を見上げた。
野獣皇帝と呼ばれる男の横顔は、恐ろしいほどに整っており、そして残酷なほどに熱を帯びていた。
――この熱に、僕は焼かれてしまうのだろうか。
抗う力もなく、エリュシオンは意識を失うように目を閉じた。
それが、執着と愛に満ちた地獄、あるいは天国への入り口だとも知らずに。
一方、ゼノスは腕の中で気を失った小さな存在を、さらに強く抱きしめた。
氷のように冷たいはずのその体から、自分を狂わせるような「運命」の予感を感じていた。
「手放すつもりはないぞ、エリュシオン。貴様が俺を拒んでも、その魂まで俺が食らい尽くしてやる」
崩れ落ちる王宮を背に、皇帝は略奪した宝物を抱いて歩き出した。
略奪愛の幕は、今、切って落とされたのだ。
ここがどこなのか、エリュシオンはもう数えていない。
ただ、窓のない地下牢の隅で膝を抱え、呼吸を繋いでいるだけだった。
「……寒い」
漏れた吐息すら、ここでは贅沢な温もりに感じられた。
かつて、自分は貴族の子息だったはずだ。
しかし、魔力が至上主義とされるこの王国で、魔力を一切持たずに生まれたエリュシオンは「無能」の烙印を押された。
私生児という出自も重なり、父親からはゴミのように捨てられ、義母や異母姉からは日々の鬱憤を晴らすための道具として扱われた。
食事は三日に一度、腐りかけたパン。
会話相手は、時折壁を這うネズミだけ。
そんな生活が何年続いたのか。
エリュシオンの瞳からは光が消え、いつしか感情は凍りついた。
自分が人間であることを忘れてしまいそうな、深い絶望の淵。
その静寂を破ったのは、遠くから響く爆音だった。
ドォォォォォンッ!
地響きが独房を揺らす。
悲鳴。剣戟の音。怒号。
それらは次第に近づいてくる。
何かが起きている。だが、エリュシオンは動かなかった。
誰がこの国を滅ぼそうと、今の自分には関係のないことだ。
むしろ、このまま瓦礫に埋もれて死ねるのなら、それこそが唯一の救いのようにすら思えた。
バキィィィンッ!
牢獄の重厚な鉄扉が、まるで紙屑のように蹴破られた。
巻き上がる土煙の中に、巨大な影が立つ。
「……まだ、生きているものがいたか」
低く、重厚な声が地下室に響き渡った。
エリュシオンはゆっくりと顔を上げた。
逆光の中に立っていたのは、返り血を浴びた漆黒の鎧を纏う男だった。
夜の闇よりも深い黒髪。
獲物を狙う猛禽類のような、鋭く光る金の瞳。
その男から放たれる圧倒的な威圧感に、エリュシオンの体は本能的に震えた。
――野獣。
そう直感した。
この男が、隣国の冷酷な指導者であり、軍事強国ヴォルガード帝国の皇帝ゼノス・ヴォルガードであることを、エリュシオンはまだ知らない。
ゼノスは無造作な足取りで、縮こまるエリュシオンに近づいた。
汚れた床を軍靴が踏みしめる音が、死のカウントダウンのように聞こえる。
ゼノスはエリュシオンの目の前で足を止めると、その顎を強引に指先で掬い上げた。
「ひっ……」
「……酷い有様だな。骨と皮ばかりだ」
ゼノスの瞳が、エリュシオンの全身を舐めるように検分する。
怯えに震えるエリュシオンの瞳は、涙さえ枯れ果てて、ただ虚無を映していた。
だが、その瞬間。
ゼノスの黄金の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
「……ほう。貴様、その瞳の中に何を隠している?」
「な、なに……を……」
久しぶりに喋った声は、掠れて聞き取りづらかった。
ゼノスは黙ったまま、エリュシオンの銀髪に手を伸ばした。
泥と埃に塗れているが、その下にある輝きを男は見逃さなかった。
そして何より、男の指先に触れたエリュシオンの肌から、微かな「冷たさ」とは別の、不思議な波動を感じ取っていた。
「無能だと捨てられていたようだが……この国は盲目ばかりか。これほどの『原石』を腐らせておくとは」
「……離して、ください。僕には、何も……」
「いいや、離さない。貴様は今日から、俺のものだ」
ゼノスの言葉は絶対だった。
拒絶を許さない支配者の響き。
男は突然、エリュシオンの細い腰を片腕で抱き寄せ、軽々と抱え上げた。
「なっ、降ろして……!」
「暴れるな。貴様、このまま死ぬつもりだったのだろう? ならば、その命、俺が買い取ってやる」
エリュシオンは、男の胸板の厚さに息を呑んだ。
鉄の匂いと、男臭い熱。
冷え切った地下牢で、その体温はあまりにも熱すぎた。
「……なぜ、僕なんかに……」
「気に入った。ただ、それだけだ」
ゼノスは不敵に笑うと、背後の部下たちに言い放った。
「この者を俺の天幕へ運べ。指一本触れることは許さん。これは、俺の獲物だ」
その言葉と共に、エリュシオンの世界は反転した。
冷たく暗い地下牢から、容赦のない熱風が吹く外の世界へ。
エリュシオンは、自分を抱きかかえる男の顔を見上げた。
野獣皇帝と呼ばれる男の横顔は、恐ろしいほどに整っており、そして残酷なほどに熱を帯びていた。
――この熱に、僕は焼かれてしまうのだろうか。
抗う力もなく、エリュシオンは意識を失うように目を閉じた。
それが、執着と愛に満ちた地獄、あるいは天国への入り口だとも知らずに。
一方、ゼノスは腕の中で気を失った小さな存在を、さらに強く抱きしめた。
氷のように冷たいはずのその体から、自分を狂わせるような「運命」の予感を感じていた。
「手放すつもりはないぞ、エリュシオン。貴様が俺を拒んでも、その魂まで俺が食らい尽くしてやる」
崩れ落ちる王宮を背に、皇帝は略奪した宝物を抱いて歩き出した。
略奪愛の幕は、今、切って落とされたのだ。
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