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8話
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朝の光が、カーテンの隙間から細い帯となって差し込んでくる。
かつての俺であれば、この光が網膜を叩く瞬間に「起床」というタスクが即座に実行され、無駄のない動作で白湯を沸かし始めていたはずだ。
だが、今の俺の腹部には、想定外の重量感がある。
「……きゅう、きゅう」
シロだ。
昨夜、適当な布でベッドを作ってやったはずなのだが、どうやらこいつの「ログイン場所」は俺の腹の上と決まっているらしい。
真っ白な毛玉が、俺のローブの裾を前足でぎゅっと握りしめ、幸せそうに寝息を立てている。
「おい、シロ。……お前、重いんだよ。比重はどうなってるんだ。伝説の魔獣は密度まで規格外なのか?」
俺が指先でその柔らかな脇腹を突くと、シロは迷惑そうに後足で空を蹴り、さらに俺の懐へと潜り込んできた。
その温かさは、魔導ヒーターのような無機質な熱ではない。命そのものが放つ、柔らかで、少しだけくすぐったい拍動だ。
俺は深くため息をつき、無理に動くのを諦めた。
スローライフとは、予定を変更する自由があるということだ。……と、自分を納得させる。
結局、俺がベッドから出られたのは、太陽が完全に天に昇り、庭の草木がキラキラと朝露を輝かせる頃だった。
---
キッチンでシロに「魔力を凝縮した特製ミルク」を与え(驚くほど勢いよく飲んでいた)、俺は自分のための薬草茶を淹れる。
テラスに出て、ガイアスが残した薪の山を眺めるのが、この数日の習慣になっていた。
(あと一ヶ月もすれば、この薪もなくなる。そうすれば、あの男の影も完全に消えるはずだ)
そう分析していた、その時。
監視結界の末端から、強烈な「身に覚えのある」魔力反応がログに上がった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
いや、これは驚きによる動悸であって、決して期待などではない。俺は冷静に、自分の中の動悸というエラーを処理しようと努めた。
「……早い。早すぎるだろ。納期を前倒ししてくるクライアントかよ」
俺がテラスの柵に手をかけた瞬間、森の奥から一人の男が姿を現した。
ガイアスだ。
前回のボロボロな姿とは違い、今回は漆黒の騎士服を完璧に着こなし、背中には大きな荷物を背負っている。
そして、その顔には、隠しようもない満面の笑みが浮かんでいた。
「リィエル! 約束通り、戻ったぞ!」
ガイアスは結界の境界線で立ち止まり、大きく手を振った。
その声のボリュームが、俺の静寂を木っ端微塵に粉砕する。
「……ガイアスさん。声が大きいです。デシベルの無駄遣いです」
俺は呆れながらも、結界のパスコードを解除した。
彼は一歩踏み込むなり、大股で俺の元へ駆け寄ってきた。その足取りの軽さは、戦場を駆ける重戦車というよりは、散歩を許された大型犬のそれだ。
「すまない、あまりに楽しみでな。道中の魔物を全て回避して……いや、邪魔なものは少しばかり排除して、最短ルートを構築してきた」
「最短ルートって、崖でも飛び越えてきたんですか……」
ガイアスは俺の前に立つと、背負っていた荷物をどさりと置いた。
中からは、ふわりと芳醇な香りが漂ってくる。
「約束の茶葉だ。王都で最高級と言われる、東方の茶葉を取り寄せてきた。それから、お前が喜びそうな、最新の魔導触媒と……これは、俺が道中で見つけた美味そうな果実だ」
次々と出てくる「貢ぎ物」の数々に、俺は目を白黒させる。
この男、本当に薪割りのためだけに、帝都からここまで戻ってきたのか。
その時。
俺の足元から「きゅう!」という鋭い鳴き声が上がった。
シロが、俺の背後からひょっこりと顔を出し、見知らぬ巨漢(ガイアス)を威嚇するように、短い毛を逆立てていたのだ。
「……ん? リィエル、それは……白い、毛玉か?」
ガイアスが動きを止め、琥珀色の瞳を丸くした。
「ええ。あなたが去った後に拾ったんです。フェンリルの幼体らしいんですが……」
「フェンリル……!? 伝説の……。いや、そんなことより、なんだこの愛らしさは」
ガイアスは荷物を放り出し、シロの前に跪いた。
屈強な騎士団長が、小さな毛玉を相手にデレデレと目尻を下げる。その光景は、控えめに言って「属性の過負荷」だった。
「リィエル、触ってもいいか?」
「俺に聞かないでください。……シロ、お客様だぞ。攻撃は禁止だ」
シロはガイアスをじっと見定めると、彼の指先に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして、ガイアスの指を「ぺろり」と舐める。
「……っ。リィエル、こいつ、俺を受け入れてくれたようだ!」
ガイアスは、魔王を討伐した時でも見せないような感動の表情で、シロをそっと抱き上げた。
大きな手のひらに収まる、小さな白い命。
その対比が、なぜか俺の胸の奥を、妙に温かくさせた。
「……立ち話も何ですから、中に入ってください。最高級の茶葉、早速試させてもらいますよ」
「ああ。薪割りも、すぐに取り掛かろう」
再び、俺の家に二つの足音と、一つの鳴き声が響き始める。
静寂は失われた。
けれど、俺は自分の淹れるお茶が、少しだけ「美味しい仕様」にアップデートされる予感を感じていた。
かつての俺であれば、この光が網膜を叩く瞬間に「起床」というタスクが即座に実行され、無駄のない動作で白湯を沸かし始めていたはずだ。
だが、今の俺の腹部には、想定外の重量感がある。
「……きゅう、きゅう」
シロだ。
昨夜、適当な布でベッドを作ってやったはずなのだが、どうやらこいつの「ログイン場所」は俺の腹の上と決まっているらしい。
真っ白な毛玉が、俺のローブの裾を前足でぎゅっと握りしめ、幸せそうに寝息を立てている。
「おい、シロ。……お前、重いんだよ。比重はどうなってるんだ。伝説の魔獣は密度まで規格外なのか?」
俺が指先でその柔らかな脇腹を突くと、シロは迷惑そうに後足で空を蹴り、さらに俺の懐へと潜り込んできた。
その温かさは、魔導ヒーターのような無機質な熱ではない。命そのものが放つ、柔らかで、少しだけくすぐったい拍動だ。
俺は深くため息をつき、無理に動くのを諦めた。
スローライフとは、予定を変更する自由があるということだ。……と、自分を納得させる。
結局、俺がベッドから出られたのは、太陽が完全に天に昇り、庭の草木がキラキラと朝露を輝かせる頃だった。
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キッチンでシロに「魔力を凝縮した特製ミルク」を与え(驚くほど勢いよく飲んでいた)、俺は自分のための薬草茶を淹れる。
テラスに出て、ガイアスが残した薪の山を眺めるのが、この数日の習慣になっていた。
(あと一ヶ月もすれば、この薪もなくなる。そうすれば、あの男の影も完全に消えるはずだ)
そう分析していた、その時。
監視結界の末端から、強烈な「身に覚えのある」魔力反応がログに上がった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
いや、これは驚きによる動悸であって、決して期待などではない。俺は冷静に、自分の中の動悸というエラーを処理しようと努めた。
「……早い。早すぎるだろ。納期を前倒ししてくるクライアントかよ」
俺がテラスの柵に手をかけた瞬間、森の奥から一人の男が姿を現した。
ガイアスだ。
前回のボロボロな姿とは違い、今回は漆黒の騎士服を完璧に着こなし、背中には大きな荷物を背負っている。
そして、その顔には、隠しようもない満面の笑みが浮かんでいた。
「リィエル! 約束通り、戻ったぞ!」
ガイアスは結界の境界線で立ち止まり、大きく手を振った。
その声のボリュームが、俺の静寂を木っ端微塵に粉砕する。
「……ガイアスさん。声が大きいです。デシベルの無駄遣いです」
俺は呆れながらも、結界のパスコードを解除した。
彼は一歩踏み込むなり、大股で俺の元へ駆け寄ってきた。その足取りの軽さは、戦場を駆ける重戦車というよりは、散歩を許された大型犬のそれだ。
「すまない、あまりに楽しみでな。道中の魔物を全て回避して……いや、邪魔なものは少しばかり排除して、最短ルートを構築してきた」
「最短ルートって、崖でも飛び越えてきたんですか……」
ガイアスは俺の前に立つと、背負っていた荷物をどさりと置いた。
中からは、ふわりと芳醇な香りが漂ってくる。
「約束の茶葉だ。王都で最高級と言われる、東方の茶葉を取り寄せてきた。それから、お前が喜びそうな、最新の魔導触媒と……これは、俺が道中で見つけた美味そうな果実だ」
次々と出てくる「貢ぎ物」の数々に、俺は目を白黒させる。
この男、本当に薪割りのためだけに、帝都からここまで戻ってきたのか。
その時。
俺の足元から「きゅう!」という鋭い鳴き声が上がった。
シロが、俺の背後からひょっこりと顔を出し、見知らぬ巨漢(ガイアス)を威嚇するように、短い毛を逆立てていたのだ。
「……ん? リィエル、それは……白い、毛玉か?」
ガイアスが動きを止め、琥珀色の瞳を丸くした。
「ええ。あなたが去った後に拾ったんです。フェンリルの幼体らしいんですが……」
「フェンリル……!? 伝説の……。いや、そんなことより、なんだこの愛らしさは」
ガイアスは荷物を放り出し、シロの前に跪いた。
屈強な騎士団長が、小さな毛玉を相手にデレデレと目尻を下げる。その光景は、控えめに言って「属性の過負荷」だった。
「リィエル、触ってもいいか?」
「俺に聞かないでください。……シロ、お客様だぞ。攻撃は禁止だ」
シロはガイアスをじっと見定めると、彼の指先に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして、ガイアスの指を「ぺろり」と舐める。
「……っ。リィエル、こいつ、俺を受け入れてくれたようだ!」
ガイアスは、魔王を討伐した時でも見せないような感動の表情で、シロをそっと抱き上げた。
大きな手のひらに収まる、小さな白い命。
その対比が、なぜか俺の胸の奥を、妙に温かくさせた。
「……立ち話も何ですから、中に入ってください。最高級の茶葉、早速試させてもらいますよ」
「ああ。薪割りも、すぐに取り掛かろう」
再び、俺の家に二つの足音と、一つの鳴き声が響き始める。
静寂は失われた。
けれど、俺は自分の淹れるお茶が、少しだけ「美味しい仕様」にアップデートされる予感を感じていた。
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