3 / 28
3話
しおりを挟む
公爵邸での僕の生活は、驚くほど穏やかに始まった。
僕に与えられた部屋は、村の家よりも広くて清潔で、ヘンリックさんという優しい執事さんが、僕のために新しい服を何着も用意してくれた。
「ノア様、お加減はいかがですか?」
「あ、ヘンリックさん。とっても元気です! あ、様なんてつけなくていいですよ、僕、ただの生贄だったんですから」
「いいえ。閣下をあそこまで落ち着かせた方は、あなたが初めてです。私たち使用人にとっても、あなたは恩人なのですよ」
ヘンリックさんはニコニコしながら、僕に温かい紅茶とスコーンを出してくれた。
城の人たちは、みんなヴァルター様を恐れているけれど、同時に深く愛しているんだ。呪いのせいで誰にも触れられず、一人で苦しんでいる閣下を、みんな心配していたらしい。
「閣下は今、執務室ですか?」
「ええ。ですが、あまり根を詰めすぎると、また呪いの疼きが……」
その言葉を聞いて、僕は居ても立ってもいられなくなった。
僕はスコーンを一つ口に放り込むと、「行ってきます!」と部屋を飛び出した。
ヴァルター様の執務室は、城の二階の奥にあった。
大きな扉の前で、僕は深呼吸をする。昨夜のことはまだ恥ずかしいけれど、お仕事なんだから。
トントン、と扉を叩く。
「……入れ。ヘンリックか?」
「失礼します! ノアです。……お邪魔してもいいですか?」
扉を開けると、そこは壁一面が本棚に囲まれた、厳かな空間だった。
巨大なデスクに向かってペンを走らせていたヴァルター様は、僕の姿を見るなり、あからさまに嫌そうな顔をした。
「……なぜここへ来た。お前には、夜まで休んでいろと言ったはずだ」
「だって、閣下がまた痛い思いをしてるんじゃないかと思って。……あ、お仕事の邪魔なら、隅っこで座ってますから!」
僕は勝手に、部屋の隅にあるソファにちょこんと腰を下ろした。
ヴァルター様は呆れたように大きな溜息をついたが、「好きにしろ」とだけ言って、再び書類に目を落とした。
一時間、二時間。
部屋にはカリカリというペンの音だけが響く。
ヴァルター様は、本当にずっと仕事をしている。時折、右腕を不快そうに摩っているのが見えて、僕は胸がキュッとした。
(……相当、痛いのかな。……昨日より紋様が濃くなってる気がする)
僕は意を決して立ち上がり、彼のデスクの横まで歩いて行った。
「……何だ。何か用か」
「閣下。……少しだけ、失礼します」
僕は彼が返事をする前に、机の上に置いてあった彼の右手を、そっと両手で包み込んだ。
一瞬、ヴァルター様の体が硬直する。
「っ……、おま……、いきなり何を……」
「じっとしててください。……僕、閣下が元気じゃないと、悲しいんです」
僕は魔力を集中させて、彼の腕から這い出ようとする黒い瘴気を、ゆっくりと僕の中へ引き抜いていく。
じわじわとした熱が僕の腕を通って全身に広がるけれど、それは少しも苦しくない。
むしろ、ヴァルター様の冷え切った心が少しずつ溶けていくのが伝わってきて、優しい気持ちになる。
「……はぁ、……っ、ん……。……ノア……」
ヴァルター様の声が、掠れた。
彼はペンを落とし、僕に手を握られたまま、ぐったりと椅子に背を預けた。
氷の瞳が少しだけ潤み、僕を見上げる。
「……お前は、……本当に、変な奴だ。……私の呪いを、こんな……こんな気持ちいいものにするなんて……」
「気持ちいいなら、よかったです」
僕は微笑んで、彼の手を優しく撫でた。
ヴァルター様は、自分から僕の指を絡めるように握り直すと、小さく「……バカが」と呟いて目を閉じた。
まだ恋なんて呼べるものじゃない。
けれど、この冷たい執務室に、小さな灯がともったような。
そんな予感がした。
僕に与えられた部屋は、村の家よりも広くて清潔で、ヘンリックさんという優しい執事さんが、僕のために新しい服を何着も用意してくれた。
「ノア様、お加減はいかがですか?」
「あ、ヘンリックさん。とっても元気です! あ、様なんてつけなくていいですよ、僕、ただの生贄だったんですから」
「いいえ。閣下をあそこまで落ち着かせた方は、あなたが初めてです。私たち使用人にとっても、あなたは恩人なのですよ」
ヘンリックさんはニコニコしながら、僕に温かい紅茶とスコーンを出してくれた。
城の人たちは、みんなヴァルター様を恐れているけれど、同時に深く愛しているんだ。呪いのせいで誰にも触れられず、一人で苦しんでいる閣下を、みんな心配していたらしい。
「閣下は今、執務室ですか?」
「ええ。ですが、あまり根を詰めすぎると、また呪いの疼きが……」
その言葉を聞いて、僕は居ても立ってもいられなくなった。
僕はスコーンを一つ口に放り込むと、「行ってきます!」と部屋を飛び出した。
ヴァルター様の執務室は、城の二階の奥にあった。
大きな扉の前で、僕は深呼吸をする。昨夜のことはまだ恥ずかしいけれど、お仕事なんだから。
トントン、と扉を叩く。
「……入れ。ヘンリックか?」
「失礼します! ノアです。……お邪魔してもいいですか?」
扉を開けると、そこは壁一面が本棚に囲まれた、厳かな空間だった。
巨大なデスクに向かってペンを走らせていたヴァルター様は、僕の姿を見るなり、あからさまに嫌そうな顔をした。
「……なぜここへ来た。お前には、夜まで休んでいろと言ったはずだ」
「だって、閣下がまた痛い思いをしてるんじゃないかと思って。……あ、お仕事の邪魔なら、隅っこで座ってますから!」
僕は勝手に、部屋の隅にあるソファにちょこんと腰を下ろした。
ヴァルター様は呆れたように大きな溜息をついたが、「好きにしろ」とだけ言って、再び書類に目を落とした。
一時間、二時間。
部屋にはカリカリというペンの音だけが響く。
ヴァルター様は、本当にずっと仕事をしている。時折、右腕を不快そうに摩っているのが見えて、僕は胸がキュッとした。
(……相当、痛いのかな。……昨日より紋様が濃くなってる気がする)
僕は意を決して立ち上がり、彼のデスクの横まで歩いて行った。
「……何だ。何か用か」
「閣下。……少しだけ、失礼します」
僕は彼が返事をする前に、机の上に置いてあった彼の右手を、そっと両手で包み込んだ。
一瞬、ヴァルター様の体が硬直する。
「っ……、おま……、いきなり何を……」
「じっとしててください。……僕、閣下が元気じゃないと、悲しいんです」
僕は魔力を集中させて、彼の腕から這い出ようとする黒い瘴気を、ゆっくりと僕の中へ引き抜いていく。
じわじわとした熱が僕の腕を通って全身に広がるけれど、それは少しも苦しくない。
むしろ、ヴァルター様の冷え切った心が少しずつ溶けていくのが伝わってきて、優しい気持ちになる。
「……はぁ、……っ、ん……。……ノア……」
ヴァルター様の声が、掠れた。
彼はペンを落とし、僕に手を握られたまま、ぐったりと椅子に背を預けた。
氷の瞳が少しだけ潤み、僕を見上げる。
「……お前は、……本当に、変な奴だ。……私の呪いを、こんな……こんな気持ちいいものにするなんて……」
「気持ちいいなら、よかったです」
僕は微笑んで、彼の手を優しく撫でた。
ヴァルター様は、自分から僕の指を絡めるように握り直すと、小さく「……バカが」と呟いて目を閉じた。
まだ恋なんて呼べるものじゃない。
けれど、この冷たい執務室に、小さな灯がともったような。
そんな予感がした。
33
あなたにおすすめの小説
【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー
AI比較企画作品
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
【8話完結】勇者の「便利な恋人」を辞めます。~世界を救うより、自分の幸せを守ることにしました~
キノア9g
BL
「君は便利だ」と笑った勇者を捨てたら、彼は全てを失い、私は伝説の魔導師へ。
あらすじ
勇者パーティーの万能魔術師・エリアスには、秘密があった。
それは、勇者ガウルの恋人でありながら、家事・雑用・魔力供給係として「便利な道具」のように扱われていること。
「お前は後ろで魔法撃ってるだけで楽だよな」
「俺のコンディション管理がお前の役目だろ?」
無神経な言葉と、徹夜で装備を直し自らの生命力を削って結界を維持する日々に疲れ果てたエリアスは、ある日ついに愛想を尽かして書き置きを残す。
『辞めます』
エリアスが去った翌日から、勇者パーティーは地獄に落ちた。
不味い飯、腐るアイテム、機能しない防御。
一方、エリアスは隣国の公爵に見初められ、国宝級の魔導師として華麗に転身し、正当な評価と敬意を与えられていた。
これは、自分の価値に気づいた受けが幸せになり、全てを失った攻めがプライドも聖剣も捨てて「狂犬」のような執着を見せるまでの、再構築の物語。
【勇者×魔導師/クズ勇者の転落劇】
※攻めへのざまぁ要素(曇らせ)がメインの作品です。
※糖度低め/精神的充足度高め
※最後の最後に、攻めは受けの忠実な「番犬」になります。
全8話。
愛などもう求めない
一寸光陰
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
優秀な婚約者が去った後の世界
月樹《つき》
BL
公爵令嬢パトリシアは婚約者である王太子ラファエル様に会った瞬間、前世の記憶を思い出した。そして、ここが前世の自分が読んでいた小説『光溢れる国であなたと…』の世界で、自分は光の聖女と王太子ラファエルの恋を邪魔する悪役令嬢パトリシアだと…。
パトリシアは前世の知識もフル活用し、幼い頃からいつでも逃げ出せるよう腕を磨き、そして準備が整ったところでこちらから婚約破棄を告げ、母国を捨てた…。
このお話は捨てられた後の王太子ラファエルのお話です。
本当に悪役なんですか?
メカラウロ子
BL
気づいたら乙女ゲームのモブに転生していた主人公は悪役の取り巻きとしてモブらしからぬ行動を取ってしまう。
状況が掴めないまま戸惑う主人公に、悪役令息のアルフレッドが意外な行動を取ってきて…
ムーンライトノベルズ にも掲載中です。
【完結】マジで婚約破棄される5秒前〜婚約破棄まであと5秒しかありませんが、じゃあ悪役令息は一体どうしろと?〜
明太子
BL
公爵令息ジェーン・アンテノールは初恋の人である婚約者のウィリアム王太子から冷遇されている。
その理由は彼が侯爵令息のリア・グラマシーと恋仲であるため。
ジェーンは婚約者の心が離れていることを寂しく思いながらも卒業パーティーに出席する。
しかし、その場で彼はひょんなことから自身がリアを主人公とした物語(BLゲーム)の悪役だと気付く。
そしてこの後すぐにウィリアムから婚約破棄されることも。
婚約破棄まであと5秒しかありませんが、じゃあ一体どうしろと?
シナリオから外れたジェーンの行動は登場人物たちに思わぬ影響を与えていくことに。
※小説家になろうにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる