記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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7話

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 翌朝。ロロは、窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
 いつもなら「さて、今日もあざとく生き抜くか」と気合を入れるところだが、今日に限っては、シーツを頭から被って、芋虫のように丸まっていた。

(……昨日のキス、なんだったの。あれは、反則だよ……)

 唇に残る、熱くて柔らかな感触。
 思い出すだけで、顔から火が出そうだ。ヴァルのあの「これだけは信じてくれ」という、切実な声。
 あざとい演技で主導権を握っているつもりだったロロにとって、あの瞬間だけは、自分がスパイであることも、ここが敵地の離宮であることも、すべて忘れてしまっていた。

(だめだだめだ! あんなのは皇帝の高等なテクニックだよ! 流されちゃいけない、ロロ。君の任務は……えーっと、なんだっけ。……そうだ、生き残ることだ!)

 なんとか自分を奮い立たせ、ロロはふかふかのベッドから這い出した。
 着替えを済ませ(今日もセレーナに手伝われそうになったが、なんとか自力で済ませた)、ヴァルの執務が終わるまでの間、一人で中庭を散歩することにした。
 昨日の「屋台祭り」の跡形もなく、庭園は再び静かな美しさを取り戻していた。

「……ふわぁ、いい気持ち」

 ロロは大きく伸びをした。
 ヴァルと一緒の時は、彼がロロを転ばせないようにと目を光らせているため、なかなか自由に歩き回ることができない。こうして一人で、自分のペースで歩く時間は貴重だった。

 噴水の裏手を通り、あまり人が寄り付かない離宮の奥まった場所へと足を踏み入れる。そこには、背の高い生垣に囲まれた小さなプライベート・ガーデンがあった。
 
「おや、お客さんかな。珍しいこともあるもんだ」

 不意に、上の方から明るい声が降ってきた。
 驚いて見上げると、大きな木に立てかけられた梯子の上に、一人の青年がいた。
 
 明るい金髪を雑に束ね、頬に泥をつけたままニカッと笑うその姿は、この豪華で形式張った離宮には似つかわしくないほど奔放な雰囲気を纏っていた。
 
「こんにちは! ……あ、危なくないですか?」
 
「これくらい平気さ。俺はここの庭師を任されてるロイ。あんたが、噂の……ええっと、『皇帝陛下の最愛の婚約者』様だろ?」
 
 ロイは梯子をスルスルと降りてくると、ロロの目の前で軽く頭を下げた。礼儀作法はあまり得意ではないようだが、その屈託のない笑顔には、この離宮の人々にはない「普通」の温かさがあった。
 
「ロロ、です。婚約者だなんて、なんだかまだ実感がなくて」
 
「はは、だろうな! あの鉄血皇帝様が、誰かを婚約者にするなんて、帝都中がひっくり返るような大事件だからさ。でも、あんたに会って納得したよ。なんだか、ほっとけないような可愛さがあるもんな」
 
(お、このロイって人、いい人だ。僕の『あざとさ』を直球で褒めてくれる!)
 
 ロロは、ロイの親しみやすい態度にすっかり警戒を解いた。
 
「ねえ、ロイ。このお花、なんて名前?」
 
「ああ、それは『陽だまり草』って言ってね。夜の間は蕾を閉じてるんだけど、陽が当たるとこうして、太陽を追いかけるように開くんだ。あんたに似てるんじゃないか?」
 
「もう、ロイったらお世辞が上手なんだから!」
 
 ロロがくすくすと笑いながら、ロイと楽しげに会話を交わしていた、その時。
 
 ――背後から、凄まじい「冷気」が漂ってきた。
 
「……ロロ。こんなところで何を、……そして、誰と話しているんだ?」
 
 地獄の底から響くような声。
 振り返ると、そこには軍服姿のヴァルが立っていた。
 その碧眼は、ロイがロロの肩に軽く触れそうになっている(実際には触れていないが、ヴァルの角度からはそう見えたらしい)箇所を、今にも射貫かんばかりの勢いで睨みつけている。
 
「あ、ヴァル! お仕事終わったの?」
 
 ロロはいつものようにパタパタとヴァルの元へ駆け寄ろうとした。
 だが、ヴァルは一歩早く大股で近づくと、ロロを自分の背中に隠すようにして立ちはだかった。
 
「ロイ……と言ったか。貴様、ロロに不埒な真似をしたのではないだろうな」
 
「へ、陛下!? とんでもない! 俺はただ、陽だまり草の説明をしていただけで……」
 
 ロイが青ざめて後ずさる。皇帝の威圧感は、一般市民にとっては死の宣告に近い。
 だが、ヴァルは止まらない。
 
「説明だと? その泥のついた手で、ロロの髪に触れようとしていたように見えたが。……万が一、ロロに傷がついたり、この離宮に馴染まない雑菌が付着したりしたら、貴様一人の命では償いきれんぞ」
 
(……雑菌って。僕、そんなにデリケートじゃないよ!)
 
 ロロは慌てて、ヴァルの服の裾をぎゅっと掴んだ。
 
「ヴァル、落ち着いて! ロイさんはとっても親切に教えてくれただけだよ。僕が声をかけたんだから、ロイさんは悪くないもん!」
 
 ロロがうるうるとした瞳でヴァルを見上げると、皇帝の全身から放たれていた殺気が、一瞬でシュン……としぼんだ。
 
「……ロロ。お前がそう言うなら、今回は不問に付すが……。……だが、俺以外の男と、そんなに親しげに笑うのは、感心しないな」
 
 ヴァルはロロに向き直ると、その頬を親指で優しくなぞった。
 
「俺という婚約者がいながら、他の男に見惚れるなど……。記憶がないせいだとしても、俺の心は千々に乱れてしまう。……ロイ」
 
「は、はいっ!」
 
「貴様……明日から、ロロの周りにさらに美しい花を植えろ。ロロが他のものに目もくれず、俺と一緒に庭を眺めるだけで満足できるような、完璧な花園を作るんだ。……報酬は三倍出す。ただし、ロロに一メートル以上近づくことは禁ずる。いいな?」
 
「三倍……!? は、はいっ! 承知しました! 命に代えても最高の花園を!!」
 
 ロイは現金……もとい、職人気質を発揮して、深々と一礼した。
 
 ヴァルは満足げに頷くと、ロロの腰に手を回し、引き寄せるようにして歩き出した。
 
「さあ、戻ろう、ロロ。お前のために、パトリックが特別なハーブティーを用意させている。……これからは、どこへ行くにも俺に一言かけるんだぞ。わかったな?」
 
「う、うん……。わかったよ、ヴァル」
 
 ロロはヴァルの腕に抱かれながら、こっそりと溜息をついた。
 
(重い……。愛も重いけど、独占欲の方向がやっぱり極端だよ、この皇帝。……でも)
 
 チラリとヴァルの横顔を盗み見る。
 嫉妬で眉を寄せていたヴァルの碧眼が、ロロと目が合った瞬間に、とろけるような甘い熱を帯びる。
 
 その変化が、なんだか可笑しくて、愛おしい。
 
 嘘の婚約者。嘘の記憶。
 そんな偽りだらけの土壌に、少しずつ、けれど確実に、「本物の感情」という名の小さな芽が顔を出していることに、ロロはまだ気づかないフリをしていた。
 
「ねえ、ヴァル。……さっきの陽だまり草、お部屋にも飾りたいな」
 
「お前が望むなら、国中の陽だまり草を集めてこよう」
 
「一輪でいいんだってば!」
 
 そんな二人の他愛ないやり取りが、穏やかな庭園に響いていった。
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