記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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8話

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 それは、夜の帳が下り、離宮がしっとりとした静寂に包まれた頃のことだった。

 ロロは、寝室の隣にある豪奢な浴室で、一人頭を抱えていた。
 目の前には、白大理石で作られた巨大な浴槽。そこには適温の湯が湛えられ、贅沢に浮かべられたバラの花びらと、心安らぐアロマの香りが湯気と共に立ち上っている。

(……いや、お風呂はいいんだよ。お風呂は最高。スパイ時代なんて、冷たい井戸水で体を拭くだけの日だってあったんだから。でもさ……)

 ロロの視線は、浴室の入り口で堂々と腕を組んで立っている男——この国の皇帝、ヴァルに向けられた。
 彼はなぜか、普段の軍服を脱ぎ捨て、薄手の室内着一枚という、これまた不必要に色気のある格好でそこにいた。

「ヴァ、ヴァル? あの……そろそろ僕、お風呂に入りたいんだけど……」

「ああ、わかっている。だから俺が来たのだ」

 ヴァルは当然のことのように頷き、一歩、浴室の中へと踏み込んだ。
 湯気の向こうで、彼の碧眼がどこか使命感に燃えて光っている。

「……はい?」

「ロロ、お前は記憶を失い、さらに先日の事故で体力が落ちている。万が一、この広すぎる浴槽で足を滑らせて溺れたり、湯あたりで意識を失ったりしたらどうする? ……いや、考えただけで血の気が引く」

(……溺れないよ! これでも泳ぎは得意なんだってば!)

 ロロは心の中で絶叫したが、表向きは「か弱く、愛らしい婚約者」でいなければならない。

「そ、そんなの心配しすぎだよぉ。一人でちゃんと洗えるもん」

「ダメだ。以前のお前は、よく俺に背中を流してほしいと強請(ねだ)っていたではないか。記憶がないからといって、そんな大切な習慣を欠かすわけにはいかない」

(捏造設定・お風呂編きたあああ!! 絶対に言ってない! そんな恥ずかしいこと、誰が言うかー!)

 ロロは顔を真っ赤にして、バスローブの襟元をぎゅっと掴んだ。
 ヴァルの「捏造」は、もはやロロの精神を削りにきている。だが、ここで強く拒絶して「僕はスパイだから一人で大丈夫だ!」と正体を明かすわけにもいかない。

「で、でも……なんだか恥ずかしいな。……ねえ、ヴァル。今日は……その、自分一人でやってみたいんだ。練習、というか……」

 ロロは上目遣いで、縋るようにヴァルを見つめた。
 必殺「あざといお願い」である。これまでの経験上、ヴァルはこの表情にめっぽう弱い。

 案の定、ヴァルはピタリと足を止め、苦悶の表情を浮かべて胸を押さえた。

「くっ……。そんな顔で頼まれると、断るのが罪悪感に思えてくる……。……だが、やはり安全が第一だ」

「ヴァル……おねがい。……めっ、て、しちゃだめ?」

 ロロはさらに首をかしげ、潤んだ瞳で追撃した。
 ヴァルはぐらりと揺れ、ついに膝をつかんばかりの勢いで溜息をついた。

「……わかった。そこまで言うなら、洗い場までは立ち入らない。……だが、俺は扉のすぐ外で待機している。何かあったらすぐに叫ぶんだぞ。いいな?」

「うん! わかった! ありがとう、ヴァル!」

 ロロは満面の笑みでヴァルを浴室の外へと押し出し、素早く鍵をかけた。
 ガチャリ、という音が響くと同時に、ロロは扉に背中を預けて、ふぅ……と大きな溜息を吐き出した。

(ふぅ……危なかった。あのまま押し切られたら、本当に皇帝陛下に全身洗われるところだったよ。……まったく、あの過保護っぷりは心臓に悪いなぁ)

 ロロは脱衣し、ゆっくりと湯船に浸かった。
 温かい湯が全身を包み込み、凝り固まった筋肉がほぐれていく。
 湯船に浮かぶバラの花びらを指先でつつきながら、ロロはふと考えた。

(……ヴァルは、本当に僕を殺そうとしたあの皇帝なんだよね? それとも、僕が捕まる前に、別の『ロロ』っていう本物の婚約者がいたとか? ……いや、でも、ヴァルは時々、僕がスパイだった時の『傷』を見て、悲しそうな顔をするし……)

 矛盾だらけの関係。
 ヴァルは、ロロが偽者であることを知っていて、それでも「本物の恋人」として扱おうとしているように見える。それがロロには、たまらなく不思議で、そして少しだけ……切なかった。

 しばらくして、体が十分に温まった頃。
 ロロは浴室の隅に置かれた、これまた豪華な銀のトレイに目を留めた。そこには、パトリックが用意してくれたであろう、特製の石鹸やシャンプーが並んでいる。

(あ、この石鹸、いい匂い。ヴァルの好きな、白檀の香りに似てる……)

 ロロが泡立てたスポンジで自分の体を洗い始めた、その時だった。

「……ロロ。大丈夫か? 返事がないようだが、意識はあるか?」

 扉越しに、ヴァルの切羽詰まった声が聞こえてきた。
 どうやら、ロロが静かすぎたせいで、また心配が爆発したらしい。

「だ、大丈夫だよ! 今、体を洗ってるところだから!」

「そうか……。……いや、やはり心配だ。お前は昔から、シャンプーが目に入ると子供のように泣きじゃくっていたからな。今は目が見えているか?」

(……だから! 言ってないし、泣かないってば! 捏造がひどすぎる!)

「大丈夫! 目、開けてるから! ヴァルこそ、あんまり扉の近くにいたら、お仕事の書類が濡れちゃうよ?」

「仕事など、お前の安全に比べれば紙屑同然だ。……ロロ、もしシャンプーが流せないなら、扉の下から手を差し出せ。俺が指示を送る、あるいは……」

(指示って何!? お風呂に指示なんていらないよ!)

 ロロはおかしくなって、くすくすと笑い声を上げた。
 冷酷皇帝と恐れられる男が、扉の向こうで右往左往しながら「シャンプーの流し方」を心配している。その姿を想像するだけで、先ほどまでの緊張が溶けていくのがわかった。

「……ヴァル、本当にありがとう。僕、もうすぐ上がるから、お外で待ってて?」

「……。ああ、わかった。……急がなくていい。ゆっくり温まれ、ロロ」

 ヴァルの声が、心なしか少しだけ照れたように聞こえた。

 浴室を出る際、ロロは鏡に映る自分の顔を見た。
 湯気のせいだけではない、ほんのりと上気した頬。
 あざとい演技をしているつもりで、実は自分の方が、この心地よい空間にどっぷりと浸かっているのではないか。

 浴室の扉を開けると、そこには案の定、心配そうな顔で大きなタオルを広げて待っているヴァルがいた。

「ロロ……! 無事か!?」

「あはは、無事だよ。ほら、見て。ピカピカ」

 ロロはわざとらしく、自分の腕をヴァルの鼻先に突き出した。
 ヴァルは一瞬だけ絶句し、それからロロの腕をそっと掴むと、その柔らかな肌に、慈しむように自分の頬を寄せた。

「……ああ。いい匂いだ。……俺の、ロロ」

 その囁きは、蒸気の中に溶けて消えそうなほど優しかった。
 ロロの心臓は、お風呂の熱のせいではなく、ヴァルのその「嘘」の深さに、また一つ、大きく脈打つのだった。

(……まいったな。これじゃ、寄り道どころか、迷子になっちゃいそうだよ)

 ロロはヴァルにタオルで包み込まれながら、こっそりと自分の鼓動を落ち着かせようとした。
 二人の夜は、ゆっくりと、けれど着実に、深い愛の深淵へと続いていく。
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