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17 非の打ち所のない完璧な女性『可奈』。彼女は職場でかつてマッチングアプリで知り合った男と再会する。
Smile in voice -最愛の声-【中編】
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次の日。
「なんか…目の隈がすごいけど、眠れなかったの?」
助手席の可奈は、運転する紫雨に思わず声をかけた。
「い、いえ…そんなことはありませんよ」
紫雨は前を向いたまま、わずかに上ずった声で答えた。
「…そう」
可奈はシートに深く背中を預ける。
「私は…あまり眠れなかったわ」
「…え?どうして…」
紫雨が聞き返したところで、隣から静かな寝息が聞こえ始めた。
「ちょっと!!なんで起こさないのよ!!」
目的地近くのコインパーキングに着くなり、目覚めた可奈は紫雨を叱責 した。
「対象者の警護中に居眠りなんて…もう、最悪だわ!!」
可奈はその場でしゃがみ込み、思わず頭を抱えた。
(こんなこと、今までなかったのに…!)
「す、すみません…気持ちよさそうな寝息が聞こえてたので…」
「……謝らなくていいわ。貴方のせいじゃないから」
紫雨の気遣いに気づき、可奈はすぐに冷静さを取り戻した。
「で、どこ行くのかしら?」
気を取り直して左右を見渡す。
「あ、こっちです」
紫雨に案内されて、二人は画材店へ向かった。
「画材って意外と高かいのね」
店を出て、可奈は思ったことをそのまま口にした。
「そうですね…。油絵は顔料と展色材…あ、オイルを使って描くのですが。…特に鉱石から採れた天然顔料は、ものによっては希少で高価なんですよ」
「そうみたいね。まぁ、私は描くのは好きでもないから…どうでもいいけど」
可奈の素っ気ない言葉の奥に、わずかな悔しさが滲む。
「本当は描いてみたいんじゃないですか?」
紫雨は思わずは聞き返した。
「別に…」
可奈はぼそっと呟く。
紫雨には、その言葉が本心ではないとすぐに分かった。
嘘を言っているのに、紫雨は少しも不快にならない。
照れ隠しの“かわいい嘘”だと分かったからだ。
――心地よいその噓に、紫雨はふっと笑みを漏らした。
「ねぇ、あの人めっちゃ綺麗じゃない?」
「ほんとだ!モデルみたいだよね」
少女たちの弾む声が耳に入り、紫雨は振り返った。
彼女たちは可奈の方を向いている。
(可奈さんは…綺麗な人なんだな…)
周囲の反応でそれが分かる。けれど、自分にはそれが見えない。
――そのことが、どうしようもなくもどかしかった。
(どんな顔を、しているんだろうな…)
「紫雨」
名を呼ばれた瞬間、可奈に思いっきり手を引かれた。
「!?」
驚いた紫雨に、可奈はため息混じりに言う。
「ちゃんと前向いて歩きなさいよ…人にぶつかるわ」
「…すみません」
「全く」
ぶつくさ言いながらも、可奈は咄嗟に掴んだ紫雨の手を離さない。
そのまま二人は手をつないで歩き始めた。
「か、可奈さん!」
「…はぐれると面倒だわ」
素っ気なく告げるが、可奈の頬はわずかに赤い。
紫雨は心臓が跳ねるのを必死に抑えた。
◇ ◇ ◇
「…“あの人”が今日来るんですか?」
「はい。日時が被らないよう調整していたのですが…申し訳ありません』
スタッフリーダーの謝罪に、紫雨は露骨に溜息をついた。
個展の開催が目前に迫り、可奈は紫雨の護衛人として都内の展示会場を訪れていた。
紫雨から会場について聞いた時、可奈は既視感のある姓に気づいた。
『海司馬』
戦前から続く海運系の大企業ーー海司馬グループ。
検索して出てきたガラス張りの高層ビルは美術館でも貸画廊でもなく、海司馬グループが所有する企業ギャラリーだった。
アーティストの支援と企業広告を兼ねた特別な施設で、将来性のある作家の展示会がしばし開かれているらしい。
『ここは、絵を教えてくれた師匠が所有……というか、管理しているビルなんです』
紫雨はそう前置きして、少し言いにくそうに続けた。
『私の絵の師…海司馬進というのですが、奥様が海司馬グループの現会長のひとり娘でして。奥様の忍さんは結婚前から長く師を支援してきた方で…今回の個展は忍さんから強く薦められたんです』
才能を評価されているはずなのに、紫雨の声音はどこか沈んで聞こえた。
『忍さんはとにかく師に惚れ込んでいますが……師の方は絵以外には興味がなくって、正直…淡白というか…そういう人なんです。管理人という肩書きも名ばかりで、実際の運営は忍さんが担っているんです。弟子である私のことも気にかけてくれて…まぁ、ここまでこれたのも師の恩恵によるところが大きいです』
言葉を選びながら語る紫雨の口調には、かすかな棘と距離感が滲んでいた。
可奈はその温度差から、紫雨が師匠・海司馬進に対して複雑な感情を抱いていることが読み取れた。
「本当にすみません。それでその…電話に応対したスタッフが、紫雨さんが“女性”をお連れするとうっかり口を滑らせたようでして」
リーダーは何度も頭を下げるが、紫雨の眉間には深いしわが残ったままだ。
今回は紫雨の要望どおり、“護衛だと悟られないように”可奈は『恋人役』として同行している。
「もう結構です。今後は“くれぐれ”も気をつけていただきたい」
紫雨の刺々しい物言いに、リーダーは小さく縮こまりながら礼を述べた。
「……そ、それでこれから打ち合わせをしてもよろしいでしょうか…?」
おずおずと尋ねられ、紫雨はすぐに可奈の方に向いた。
「可奈さん」
「はい。ここで待ってますね」
紫雨の意図を察した可奈は、恋人らしい聞き分けの良さで返した。
運営には今回のことは一切話してはいない上、“恋人”だからと打ち合わせに同席できるわけではない。
『……何かあったら、すぐ連絡して』
『分かりました』
可奈は小声で伝え、紫雨を見送った。
紫雨は名残惜しそうに何度も振り返る。
その様子は飼い主から離れたくない犬そのもので、可奈は思わず苦笑した。
紫雨が打ち合わせ中、可奈は内部の見回りに移る。
急な呼び出しで、今日は他の護衛人を潜ませる余裕がない。
内部は可奈ひとりで警戒するしかなかった。
(紫雨の絵…見られると思ったんだけど)
準備はほぼ終わり、スタッフもまばらだが、壁の絵にはどれも分厚い布がかけられている。
作品保護のため外すのは当日まで禁止だ。
(……残念)
個展当日は、可奈が指揮役に回るため、彼の絵を直に見られるのは今日だけだった。
以前、彼から“画家・紫雨”の絵を見たことがあるかと聞かれたとき、すぐネットで調べた。
その時は本人だと露知らず、最初に見た絵を『温かみのある絵』だと評価した。
あの絵を、実際にこの目で見てみたかった。
可奈は脇にかけられた金色のプレートを一つずつ追いながら回廊を進む。
そして、突き当りでやっと見つけた。
『浮動』
無論これにも布がかけられているし、絵に触れないように侵入禁止用のポールパーテーションが設置されている。
(あの絵は…)
そっと目を閉じる。
まぶたの裏に広がるのは、朝の光のような柔らかな光源。
淡く揺れる泡のような数多の光が、ただ静かに浮遊してる抽象画。
(彼の絵は…人の心を揺さぶる)
以前、評論家がこんな言葉を寄せていた。
『見た者が最も見たくないもの。或いは最も願うもの。…人の内なる絶望や希望を写し出す姿見のような絵である』
人の心にある光と闇。刻々と変化する、人の心情の浮き沈みを描いたのが“この絵”である。
見る者の心情によって、時には安らぎに、時には不安を抱かせる絵になる。
そのなか、可奈がその絵に重ねたイメージはーー
「天国…」
可奈が思い浮かぶのは『天国へ繋がる道』だ。
光だけが満ちた空へ清浄な魂が還る、そんな風景に思えた。
途端に胸がきゅっと痛くなる。
閉じ込めていた記憶がふっと顔を出した、その時。
「なるほど、あなたにはこの絵が天国に見えるのですな」
低く穏やかな声に、可奈は振り返った。
そこには白シャツの袖を巻き上げ、黒いスラックを着た細身の男性が立っていた。
伸びた前髪に白髪が混じっているが、初老というには若い。
「申し遅れました。私、海司馬 進と申します。あなたが紫雨のフィアンセですかな」
「…ええ。菜島 可奈と申します」
可奈は丁寧に頭を下げた。
「彼の絵は不思議だ。その日の心で姿を変える」
進は布のかかった絵に視線を向ける。
「あなたには天国に見えた。もしかしたら…“天国に会いたい方”がいるのでは?」
進の言葉に、可奈の胸の奥が揺れた。
「先生」
声に振り返ると、紫雨が立っていた。
「……ああ。紫雨、久しぶりだね」
「…ご無沙汰しております」
挨拶を交わすと、紫雨はさりげなく可奈の横に立ち、庇うように距離を詰めた。
「元気そうでよかった。私生活も充実してるようで、なによりだ」
意味深に可奈を見る進。
「おかげさまで…」
「今度、彼女も連れてうちにおいで。忍にも紹介したいからね」
「機会があれば、ぜひ」
「待っているよ」
「あ!!進先生!」
そこへスタッフリーダーが駆け寄り、進は書類確認のため場を離れていった。
「…可奈さん、大丈夫でしたか?」
「?……平気よ」
なぜそのような顔をするのか、可奈にはわからなかった。
「何か言われましたか?」
「特には。あ、でも…この絵を天国だって言ったのを聞かれてしまったわ』
「………」
「それで、天国に会いたい人がいるんじゃないかって」
「…そうですか」
紫雨は気づいていた。可奈の声に、ごくわずかに悲しみが混じっていることを。
「会いたい人…きっと母親だと思うわ」
紫雨が息を呑んだ。
「小学生の時に……亡くなったの」
可奈は布をかけられた絵を見つめながら、静かに続けた。
「ネットでこの絵を見た時、直感的に“温かい”と思ったの。きっと、母親そのものだったからね」
可奈がふわりと微笑む。
「突然の死で辛かったけど…今は懐かしい気持ちになった。紫雨のおかげね」
「私はなにも…」
「謙遜しないでいいわよ。貴方の絵は温かいもの」
可奈が笑いかける。
こんなに近くにいるのに、その表情が見えない。
紫雨は、胸の奥がどうしようもなく疼くのを感じていた。
「なんか…目の隈がすごいけど、眠れなかったの?」
助手席の可奈は、運転する紫雨に思わず声をかけた。
「い、いえ…そんなことはありませんよ」
紫雨は前を向いたまま、わずかに上ずった声で答えた。
「…そう」
可奈はシートに深く背中を預ける。
「私は…あまり眠れなかったわ」
「…え?どうして…」
紫雨が聞き返したところで、隣から静かな寝息が聞こえ始めた。
「ちょっと!!なんで起こさないのよ!!」
目的地近くのコインパーキングに着くなり、目覚めた可奈は紫雨を叱責 した。
「対象者の警護中に居眠りなんて…もう、最悪だわ!!」
可奈はその場でしゃがみ込み、思わず頭を抱えた。
(こんなこと、今までなかったのに…!)
「す、すみません…気持ちよさそうな寝息が聞こえてたので…」
「……謝らなくていいわ。貴方のせいじゃないから」
紫雨の気遣いに気づき、可奈はすぐに冷静さを取り戻した。
「で、どこ行くのかしら?」
気を取り直して左右を見渡す。
「あ、こっちです」
紫雨に案内されて、二人は画材店へ向かった。
「画材って意外と高かいのね」
店を出て、可奈は思ったことをそのまま口にした。
「そうですね…。油絵は顔料と展色材…あ、オイルを使って描くのですが。…特に鉱石から採れた天然顔料は、ものによっては希少で高価なんですよ」
「そうみたいね。まぁ、私は描くのは好きでもないから…どうでもいいけど」
可奈の素っ気ない言葉の奥に、わずかな悔しさが滲む。
「本当は描いてみたいんじゃないですか?」
紫雨は思わずは聞き返した。
「別に…」
可奈はぼそっと呟く。
紫雨には、その言葉が本心ではないとすぐに分かった。
嘘を言っているのに、紫雨は少しも不快にならない。
照れ隠しの“かわいい嘘”だと分かったからだ。
――心地よいその噓に、紫雨はふっと笑みを漏らした。
「ねぇ、あの人めっちゃ綺麗じゃない?」
「ほんとだ!モデルみたいだよね」
少女たちの弾む声が耳に入り、紫雨は振り返った。
彼女たちは可奈の方を向いている。
(可奈さんは…綺麗な人なんだな…)
周囲の反応でそれが分かる。けれど、自分にはそれが見えない。
――そのことが、どうしようもなくもどかしかった。
(どんな顔を、しているんだろうな…)
「紫雨」
名を呼ばれた瞬間、可奈に思いっきり手を引かれた。
「!?」
驚いた紫雨に、可奈はため息混じりに言う。
「ちゃんと前向いて歩きなさいよ…人にぶつかるわ」
「…すみません」
「全く」
ぶつくさ言いながらも、可奈は咄嗟に掴んだ紫雨の手を離さない。
そのまま二人は手をつないで歩き始めた。
「か、可奈さん!」
「…はぐれると面倒だわ」
素っ気なく告げるが、可奈の頬はわずかに赤い。
紫雨は心臓が跳ねるのを必死に抑えた。
◇ ◇ ◇
「…“あの人”が今日来るんですか?」
「はい。日時が被らないよう調整していたのですが…申し訳ありません』
スタッフリーダーの謝罪に、紫雨は露骨に溜息をついた。
個展の開催が目前に迫り、可奈は紫雨の護衛人として都内の展示会場を訪れていた。
紫雨から会場について聞いた時、可奈は既視感のある姓に気づいた。
『海司馬』
戦前から続く海運系の大企業ーー海司馬グループ。
検索して出てきたガラス張りの高層ビルは美術館でも貸画廊でもなく、海司馬グループが所有する企業ギャラリーだった。
アーティストの支援と企業広告を兼ねた特別な施設で、将来性のある作家の展示会がしばし開かれているらしい。
『ここは、絵を教えてくれた師匠が所有……というか、管理しているビルなんです』
紫雨はそう前置きして、少し言いにくそうに続けた。
『私の絵の師…海司馬進というのですが、奥様が海司馬グループの現会長のひとり娘でして。奥様の忍さんは結婚前から長く師を支援してきた方で…今回の個展は忍さんから強く薦められたんです』
才能を評価されているはずなのに、紫雨の声音はどこか沈んで聞こえた。
『忍さんはとにかく師に惚れ込んでいますが……師の方は絵以外には興味がなくって、正直…淡白というか…そういう人なんです。管理人という肩書きも名ばかりで、実際の運営は忍さんが担っているんです。弟子である私のことも気にかけてくれて…まぁ、ここまでこれたのも師の恩恵によるところが大きいです』
言葉を選びながら語る紫雨の口調には、かすかな棘と距離感が滲んでいた。
可奈はその温度差から、紫雨が師匠・海司馬進に対して複雑な感情を抱いていることが読み取れた。
「本当にすみません。それでその…電話に応対したスタッフが、紫雨さんが“女性”をお連れするとうっかり口を滑らせたようでして」
リーダーは何度も頭を下げるが、紫雨の眉間には深いしわが残ったままだ。
今回は紫雨の要望どおり、“護衛だと悟られないように”可奈は『恋人役』として同行している。
「もう結構です。今後は“くれぐれ”も気をつけていただきたい」
紫雨の刺々しい物言いに、リーダーは小さく縮こまりながら礼を述べた。
「……そ、それでこれから打ち合わせをしてもよろしいでしょうか…?」
おずおずと尋ねられ、紫雨はすぐに可奈の方に向いた。
「可奈さん」
「はい。ここで待ってますね」
紫雨の意図を察した可奈は、恋人らしい聞き分けの良さで返した。
運営には今回のことは一切話してはいない上、“恋人”だからと打ち合わせに同席できるわけではない。
『……何かあったら、すぐ連絡して』
『分かりました』
可奈は小声で伝え、紫雨を見送った。
紫雨は名残惜しそうに何度も振り返る。
その様子は飼い主から離れたくない犬そのもので、可奈は思わず苦笑した。
紫雨が打ち合わせ中、可奈は内部の見回りに移る。
急な呼び出しで、今日は他の護衛人を潜ませる余裕がない。
内部は可奈ひとりで警戒するしかなかった。
(紫雨の絵…見られると思ったんだけど)
準備はほぼ終わり、スタッフもまばらだが、壁の絵にはどれも分厚い布がかけられている。
作品保護のため外すのは当日まで禁止だ。
(……残念)
個展当日は、可奈が指揮役に回るため、彼の絵を直に見られるのは今日だけだった。
以前、彼から“画家・紫雨”の絵を見たことがあるかと聞かれたとき、すぐネットで調べた。
その時は本人だと露知らず、最初に見た絵を『温かみのある絵』だと評価した。
あの絵を、実際にこの目で見てみたかった。
可奈は脇にかけられた金色のプレートを一つずつ追いながら回廊を進む。
そして、突き当りでやっと見つけた。
『浮動』
無論これにも布がかけられているし、絵に触れないように侵入禁止用のポールパーテーションが設置されている。
(あの絵は…)
そっと目を閉じる。
まぶたの裏に広がるのは、朝の光のような柔らかな光源。
淡く揺れる泡のような数多の光が、ただ静かに浮遊してる抽象画。
(彼の絵は…人の心を揺さぶる)
以前、評論家がこんな言葉を寄せていた。
『見た者が最も見たくないもの。或いは最も願うもの。…人の内なる絶望や希望を写し出す姿見のような絵である』
人の心にある光と闇。刻々と変化する、人の心情の浮き沈みを描いたのが“この絵”である。
見る者の心情によって、時には安らぎに、時には不安を抱かせる絵になる。
そのなか、可奈がその絵に重ねたイメージはーー
「天国…」
可奈が思い浮かぶのは『天国へ繋がる道』だ。
光だけが満ちた空へ清浄な魂が還る、そんな風景に思えた。
途端に胸がきゅっと痛くなる。
閉じ込めていた記憶がふっと顔を出した、その時。
「なるほど、あなたにはこの絵が天国に見えるのですな」
低く穏やかな声に、可奈は振り返った。
そこには白シャツの袖を巻き上げ、黒いスラックを着た細身の男性が立っていた。
伸びた前髪に白髪が混じっているが、初老というには若い。
「申し遅れました。私、海司馬 進と申します。あなたが紫雨のフィアンセですかな」
「…ええ。菜島 可奈と申します」
可奈は丁寧に頭を下げた。
「彼の絵は不思議だ。その日の心で姿を変える」
進は布のかかった絵に視線を向ける。
「あなたには天国に見えた。もしかしたら…“天国に会いたい方”がいるのでは?」
進の言葉に、可奈の胸の奥が揺れた。
「先生」
声に振り返ると、紫雨が立っていた。
「……ああ。紫雨、久しぶりだね」
「…ご無沙汰しております」
挨拶を交わすと、紫雨はさりげなく可奈の横に立ち、庇うように距離を詰めた。
「元気そうでよかった。私生活も充実してるようで、なによりだ」
意味深に可奈を見る進。
「おかげさまで…」
「今度、彼女も連れてうちにおいで。忍にも紹介したいからね」
「機会があれば、ぜひ」
「待っているよ」
「あ!!進先生!」
そこへスタッフリーダーが駆け寄り、進は書類確認のため場を離れていった。
「…可奈さん、大丈夫でしたか?」
「?……平気よ」
なぜそのような顔をするのか、可奈にはわからなかった。
「何か言われましたか?」
「特には。あ、でも…この絵を天国だって言ったのを聞かれてしまったわ』
「………」
「それで、天国に会いたい人がいるんじゃないかって」
「…そうですか」
紫雨は気づいていた。可奈の声に、ごくわずかに悲しみが混じっていることを。
「会いたい人…きっと母親だと思うわ」
紫雨が息を呑んだ。
「小学生の時に……亡くなったの」
可奈は布をかけられた絵を見つめながら、静かに続けた。
「ネットでこの絵を見た時、直感的に“温かい”と思ったの。きっと、母親そのものだったからね」
可奈がふわりと微笑む。
「突然の死で辛かったけど…今は懐かしい気持ちになった。紫雨のおかげね」
「私はなにも…」
「謙遜しないでいいわよ。貴方の絵は温かいもの」
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