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第十九話
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母上に言われた通りに、あの女と接した。
最初の数日で分かった。
――面白いくらい、簡単だ。
花を渡す。言葉を選ぶ。少しだけ優しそうな顔を作る。
それだけで、あの女は胸を熱くして、目を潤ませて、俺を見上げた。
靡く、というより縋り付く。
溺れるみたいに。
おかしかった。
レオハルトが欲していたものの“軽さ”が、滑稽でたまらなかった。
あいつがこそこそ手を伸ばしていたものが、こんなにも脆くて、こんなにも簡単に落ちる。
笑いが、腹の奥から込み上げた。
いい婚約者を演じるのは退屈だった。
だが仕方がない。相手が退屈な女なのだから。
名と家と後ろ盾。
中身のない宝箱みたいな女。
母上の狙い通り、モンテリオールの女は俺に縛り付いた。
――それで終わりだ。
勝手に縋り付く女に、時間を割くのは面倒だ。
感情を割く意味がない。
適当に扱っても、雑に扱っても、あの女は俺を見つめ続ける。
期待と祈りと、痛々しいほどの希望で。
――そんな目に、応える必要があるか?
だから俺は、無視して楽しんだ。
一人で夜会に出て、笑って、踊って、酒を飲む。
見せつけるためですらない。単に、自由を謳歌していただけだ。
不貞を見られたとしても、焦る理由はない。
あの女は俺に縋り付くことしか出来ない。
━━━━━━━━
舞踏大広間は、光で満ちていた。
砕けた星みたいなシャンデリア。金糸のドレス。白い手袋。笑い声。香水の甘い匂い。
くだらない。けれど嫌いではない。こういう場は、人間がよく見える。
俺の周りには勝手に輪ができる。
祝辞。追従。探り。媚び。
その全部を、適当に受け流す。
「殿下、今夜はご機嫌がよろしいようで」
「そう見えるなら、君の目がいい」
軽く返して笑えば、相手は勝手に喜ぶ。
俺が欲しいのは会話じゃない。時間の潰し方だ。
最近の足枷は婚約者。セレスティア・モンテリオール。
大広間のどこかにいるのだろう。壁際の影みたいな場所に。目立たないように息を殺して。
(待つのに慣れている顔)
思い出すだけで、少し苛つく。
縋り付く瞳が煩わしい。
母上の命令で優しくしたら、簡単に落ちた。
安い駒。駒以上にはなれない女。
俺は杯を置いた。
甘い空気の中にいると、息が詰まる。
「少し風に当たってくる」
誰に言うでもなく呟き、回廊へ出る。
音が薄くなると、やっと呼吸が楽になる。
庭園の夜気は冷たい。
砂利は月光を吸って白く、薔薇の葉の縁が淡く光っている。
遠くの楽団の音は、水の底から聞こえるみたいに滲んでいた。
東屋に、先客がいた。
細い肩。白い首筋。薄い笑い声。
俺の名を呼ぶ声は、いつも少し甘い。
「殿下、ここにいらしたのね」
「うるさいところが苦手でね」
女は近づいてくる。香水が鼻にかかる。
嫌いではない。考えなくていい匂いだからだ。
指先が俺の袖をつまむ。
俺はその手首を掴んで引き寄せた。
「……殿下」
熱のある声。期待のある声。
こういう声は扱いやすい。
女の首筋に指を滑らせる。
慣れた動き。慣れてしまっていることに、罪悪感はない。
罪悪感を抱くほど、俺は誰かを大事にしたいと思ったことがない。
「殿下……あの方、今夜は随分と装っていらっしゃいましたわね」
その言葉に、俺は笑った。
低く、柔らかく。
相手が喜ぶ声を選ぶのは、呼吸と同じくらい簡単だ。
「元が元だ。いくら金をかけても、あれが限界だろう」
女がくすくす笑う。俺も同じくらい軽く笑う。
「あの女の話はやめてくれ。萎える」
口にした瞬間、妙にすっきりした。
胸の奥に溜まっていた苛立ちが、言葉の形で抜けていく。
「モンテリオールの一人娘だから婚約しただけだ」
事実だ。
あの女に価値があるのは、紋章と血だけ。
女が嬉しそうに俺の胸に頬を寄せる。
俺はその頭を軽く撫でた。
こうしておけば、勝手に満たされる。
――そのとき、砂利が鳴った。
細い足音。迷いのある足音。
見なくても分かる。面倒が来た。
振り向くと、月明かりの下にセレスティアが立っていた。
顔色が悪い。唇が震えている。
その目は俺を見ているのに、俺ではないものを見ている。
「……殿下」
震える声。泣きそうな声。
期待の残り滓みたいな声。
俺はため息すら飲み込まない。
気遣う必要がない。
「こんなところで一人で何をしている」
冷たく言う。冷たく言った方が早い。
「……殿下のお姿が見えませんでしたので……」
俺は、頭の先から足元までを一度見た。
金をかけてもこの程度。必死さが滲むのが、哀れさを倍にする。
「侯爵令嬢が護衛も付けずに夜を歩き回るなど、はしたない」
後ろで女が笑う気配。
セレスティアの肩が揺れた。
それでも、まだ何かを求める目をする。
(……まだ期待しているのか)
その鈍さが、心底うざかった。
「お前みたいな女を愛する者などいない」
言った瞬間、彼女の顔から色が抜ける。
膝が折れ、砂利に沈む。
この女を見下すとき、胸の奥が少し軽くなる。
きっと、レオハルトごと踏みつけている気になれるからだ。
「興が醒めた。行こう」
俺は隣の女に手を差し出す。
女は嬉しそうにその手を取る。
それで終わりだ。
去り際、念押しするみたいに言った。
「いい家紋に生まれたことに、せいぜい感謝しろ」
背中に泣き声が落ちてくる気配。
振り返らない。振り返る意味がない。
俺はそのまま東屋を離れた。
夜気が冷たい。
冷たい方がいい。
その方が、心地良い。
最初の数日で分かった。
――面白いくらい、簡単だ。
花を渡す。言葉を選ぶ。少しだけ優しそうな顔を作る。
それだけで、あの女は胸を熱くして、目を潤ませて、俺を見上げた。
靡く、というより縋り付く。
溺れるみたいに。
おかしかった。
レオハルトが欲していたものの“軽さ”が、滑稽でたまらなかった。
あいつがこそこそ手を伸ばしていたものが、こんなにも脆くて、こんなにも簡単に落ちる。
笑いが、腹の奥から込み上げた。
いい婚約者を演じるのは退屈だった。
だが仕方がない。相手が退屈な女なのだから。
名と家と後ろ盾。
中身のない宝箱みたいな女。
母上の狙い通り、モンテリオールの女は俺に縛り付いた。
――それで終わりだ。
勝手に縋り付く女に、時間を割くのは面倒だ。
感情を割く意味がない。
適当に扱っても、雑に扱っても、あの女は俺を見つめ続ける。
期待と祈りと、痛々しいほどの希望で。
――そんな目に、応える必要があるか?
だから俺は、無視して楽しんだ。
一人で夜会に出て、笑って、踊って、酒を飲む。
見せつけるためですらない。単に、自由を謳歌していただけだ。
不貞を見られたとしても、焦る理由はない。
あの女は俺に縋り付くことしか出来ない。
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舞踏大広間は、光で満ちていた。
砕けた星みたいなシャンデリア。金糸のドレス。白い手袋。笑い声。香水の甘い匂い。
くだらない。けれど嫌いではない。こういう場は、人間がよく見える。
俺の周りには勝手に輪ができる。
祝辞。追従。探り。媚び。
その全部を、適当に受け流す。
「殿下、今夜はご機嫌がよろしいようで」
「そう見えるなら、君の目がいい」
軽く返して笑えば、相手は勝手に喜ぶ。
俺が欲しいのは会話じゃない。時間の潰し方だ。
最近の足枷は婚約者。セレスティア・モンテリオール。
大広間のどこかにいるのだろう。壁際の影みたいな場所に。目立たないように息を殺して。
(待つのに慣れている顔)
思い出すだけで、少し苛つく。
縋り付く瞳が煩わしい。
母上の命令で優しくしたら、簡単に落ちた。
安い駒。駒以上にはなれない女。
俺は杯を置いた。
甘い空気の中にいると、息が詰まる。
「少し風に当たってくる」
誰に言うでもなく呟き、回廊へ出る。
音が薄くなると、やっと呼吸が楽になる。
庭園の夜気は冷たい。
砂利は月光を吸って白く、薔薇の葉の縁が淡く光っている。
遠くの楽団の音は、水の底から聞こえるみたいに滲んでいた。
東屋に、先客がいた。
細い肩。白い首筋。薄い笑い声。
俺の名を呼ぶ声は、いつも少し甘い。
「殿下、ここにいらしたのね」
「うるさいところが苦手でね」
女は近づいてくる。香水が鼻にかかる。
嫌いではない。考えなくていい匂いだからだ。
指先が俺の袖をつまむ。
俺はその手首を掴んで引き寄せた。
「……殿下」
熱のある声。期待のある声。
こういう声は扱いやすい。
女の首筋に指を滑らせる。
慣れた動き。慣れてしまっていることに、罪悪感はない。
罪悪感を抱くほど、俺は誰かを大事にしたいと思ったことがない。
「殿下……あの方、今夜は随分と装っていらっしゃいましたわね」
その言葉に、俺は笑った。
低く、柔らかく。
相手が喜ぶ声を選ぶのは、呼吸と同じくらい簡単だ。
「元が元だ。いくら金をかけても、あれが限界だろう」
女がくすくす笑う。俺も同じくらい軽く笑う。
「あの女の話はやめてくれ。萎える」
口にした瞬間、妙にすっきりした。
胸の奥に溜まっていた苛立ちが、言葉の形で抜けていく。
「モンテリオールの一人娘だから婚約しただけだ」
事実だ。
あの女に価値があるのは、紋章と血だけ。
女が嬉しそうに俺の胸に頬を寄せる。
俺はその頭を軽く撫でた。
こうしておけば、勝手に満たされる。
――そのとき、砂利が鳴った。
細い足音。迷いのある足音。
見なくても分かる。面倒が来た。
振り向くと、月明かりの下にセレスティアが立っていた。
顔色が悪い。唇が震えている。
その目は俺を見ているのに、俺ではないものを見ている。
「……殿下」
震える声。泣きそうな声。
期待の残り滓みたいな声。
俺はため息すら飲み込まない。
気遣う必要がない。
「こんなところで一人で何をしている」
冷たく言う。冷たく言った方が早い。
「……殿下のお姿が見えませんでしたので……」
俺は、頭の先から足元までを一度見た。
金をかけてもこの程度。必死さが滲むのが、哀れさを倍にする。
「侯爵令嬢が護衛も付けずに夜を歩き回るなど、はしたない」
後ろで女が笑う気配。
セレスティアの肩が揺れた。
それでも、まだ何かを求める目をする。
(……まだ期待しているのか)
その鈍さが、心底うざかった。
「お前みたいな女を愛する者などいない」
言った瞬間、彼女の顔から色が抜ける。
膝が折れ、砂利に沈む。
この女を見下すとき、胸の奥が少し軽くなる。
きっと、レオハルトごと踏みつけている気になれるからだ。
「興が醒めた。行こう」
俺は隣の女に手を差し出す。
女は嬉しそうにその手を取る。
それで終わりだ。
去り際、念押しするみたいに言った。
「いい家紋に生まれたことに、せいぜい感謝しろ」
背中に泣き声が落ちてくる気配。
振り返らない。振り返る意味がない。
俺はそのまま東屋を離れた。
夜気が冷たい。
冷たい方がいい。
その方が、心地良い。
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