【完結】「お前を愛する者などいない」と笑われた夜、私は“本物の王子”に拾われた

波依 沙枝

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第三十二話

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彼女がいるはずの場所へ、私はゆっくり視線を巡らせた。
探すというより、確かめるみたいに。

——見つけた。

淡い水色のドレス。扇の影。
人の輪の端で、居心地悪そうに立ち尽くしている令嬢。

「あら」

私は声に出した。驚いたふりをするのが、いちばん簡単だ。

「あそこにいらっしゃる令嬢は——殿下と親しい方じゃなかったかしら?」

言葉は柔らかい。
そのぶん、逃げ道を塞ぐ。

リヒト殿下の指先が、私の手袋の上でわずかに強くなる。

「……何を言っている」

低い声。否定の形をしているのに、焦りの匂いがした。

私は首を傾ける。責めない。ただ、記憶をなぞるだけ。

「庭園で。月明かりの下で」
「殿下の傍にいらした方ですわ」

——周囲の空気が、すっと静まった。

扇が止まり、笑い声が切れる。
誰もが“その夜”の噂を知っているから。

「どこのお家の方なのかしら」
「殿下、紹介していただけます?」

紹介。
それは“公式”にするという意味だ。

リヒト殿下の喉が動く。
口を開けば詰む。だから、言葉が出ない。

一方で、令嬢は顔色を失った。
逃げようとして、けれど逃げられない。目が合ってしまっている。

私は最後にもう一度だけ、優しく言った。

「大丈夫ですわ」
「殿下のお友達なのでしょう?」

令嬢は唇を震わせた。
扇を握る指が白くなる。目尻が熱に滲む。

「……殿下……」

掠れた声。
守ってと言う目で、リヒト殿下を見つめる。

リヒト殿下は、首を振った。

「知り合いではない」

その瞬間、令嬢が叫んだ。

「殿下が……わたくしのことを愛してるって!」
「そう、おっしゃったから……!」

言い終えられず、涙が落ちる。肩が揺れる。

「だから……信じて……!」

縋るように一歩前へ出た瞬間、周囲の空気がざわめいた。
同情と好奇と、期待——王子がどう裁くのか。

リヒト殿下は微笑みを作ろうとして、作りきれない。

「……誤解だ」

短い否定はまだ“王子”の形を保っていた。
けれど、令嬢は必死に首を振る。

「でも……昨夜も……」
「庭園で……」

昨夜。庭園。
その単語が落ちた瞬間、場の温度が一段落ちる。

リヒト殿下の目が、苛立ちに細くなる。

「昨夜? 何の話だ」

丁寧語のまま、刃だけが剥き出しだ。

「君は一体誰だ。話したこともない」
「自分に都合のいい物語を作って語るな」

令嬢の顔が青ざめる。

「ち、違います……私は……」

「違わない」

容赦なく切った。

「もう一度言う。君は誰だ」
「名乗る資格もなさそうに見える」

大広間に、扇が一枚、ぱちりと閉じる音が響いた。
怒りではない。驚きと、嫌悪の音。

「……まぁ」
「殿下、言い過ぎでは……」
「泣いている令嬢に、あの言葉……」

囁きが膨らみ、顰蹙が形になる。
令嬢は嗚咽を堪えきれず崩れそうになり、侍女が慌てて支えた。
その様子が、さらに“弱いものを踏む者”として殿下を浮かび上がらせる。

リヒト殿下はそこでようやく自分が“見られている”ことに気づいたらしい。
だが立て直すより先に、視線が隣へ滑る。

私へ。

燃えるような赤髪は揺れもしない。
涙もない。
ただ、ひとつも崩れない微笑みがそこにある。

その微笑みが、殿下の神経を逆撫でした。

「……お前」

王子の声ではない。
思わず漏れた、剥き出しの呼び方。

「……わざとだな」

睨みつける目。
その荒れ方だけで、内側がどれほど乱れているか分かる。

私は怯えない。
ほんの少し顎を上げ、唇だけを動かした。

「……私に八つ当たりなさらないで」

小声。
けれど針のように刺さる言い方だった。

リヒト殿下のこめかみが脈打つ。
喉が鳴り、手袋の指がきしむほど握り込まれる。

——次の瞬間。

乾いた音がした。

白い手袋が空気を切り、私の頬を打つ音。

大広間が、凍った。

楽団の音さえ遠くなる。
令嬢の嗚咽も止まる。

リヒト殿下自身も固まっていた。
“やってしまった”と、顔が語っている。

私は倒れない。
顔も伏せない。

泣かない。怒鳴らない。
ただ、ゆっくり殿下を見る。

翠の瞳で、まっすぐ刺す。

そして、声を出さずに唇だけを動かした。

——あなたの、負け。

それは殿下にだけ通じる宣告だった。

リヒト殿下の目が、かっと赤くなる。
呼吸が荒くなる。

「おまえ——!」

言葉が形になる前に、殿下の両手が私の肩を掴んでいた。

強く。
逃げられないように。

「ふざけるな……っ!」

その瞬間。

「殿下」

低い声が落ちる。
続いて鎧の擦れる音、靴音が二つ。

侯爵家の騎士が、殿下の背後から肩と腕を押さえた。

「お控えください」

殿下の手が私から引き剥がされる。
指先が空を掻く。

「離せ! 私は——!」

怒号が、今度こそ社交界の“証拠”として響いた。

私は一歩も退かない。
乱れた呼吸を整え、ただ静かに言う。

「……リヒト殿下。衆人の前ですわ」

その一言が、殿下の喉を詰まらせた。

騎士の腕がさらに強くなる。
殿下は抵抗しながらも、引きずられるように後退する。

扇が止まった。
誰もが見ている。

——第二王子が、婚約者を掴みかかり、騎士に取り押さえられる姿を。
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