この噛み痕は、無効。

ことわ子

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約束

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 トキからの連絡を無視してもう三日経った。
 ついでに知恵熱を出して学校も休んだ。
 内心安堵していたが、熱が下がってしまい明日には学校に行かないといけない状況になり、憂鬱な今に至る。
 やることもなく、自分のベッドの上で寝転がりながら、ぼーっと天井を見つめる。こうしていないと流れ出てきてしまっていた涙も、もう枯れたのか視界を歪めることは無くなった。目が腫れ上がるほど泣いたのは初めてで、デリカシーが無い母さんも流石に何も聞かないでいてくれた。
 はぁ、と胸のなかに溜まった悪いものを吐き出すように息をする。
 あんなに楽しくて浮かれていたのが馬鹿みたいだと思った。
 結局、俺は、トキの練習台だった。
 筧のことが本命で、同じ男でチョロそうな俺を練習台として選んだのだと思うと、怒りより悲しさが勝った。
 いつもの俺なら、復讐してやると息巻いていた。だけど、そんな感情にもならないほど、トキのことを好きになり過ぎていた。
 いっそ、練習台でもいいんじゃないかと思ってしまう。そう考えるたびに胸が痛くなる。心が拒否する。
 多分、この関係を続けていたら、俺は壊れてしまう。破滅しか残されていない道に意味なんかあるんだろうか。
 俺は枕の横に投げ出していたスマホを手に取った。トキから来る連絡が鬱陶しくて電源を切っていた。
 恐る恐る電源を入れる。画面に表示されたメッセージの数にまた心臓が痛くなる。
 それを一切読むことなく、メッセージを入力する。

 『俺と別れて』

 これを送れば全てが終わる。こんな短い文一つで終わる関係なんだと思い知る。
 俺たちの間に運命なんてない。

 もし、俺がΩだったら。
 もし、俺がトキの運命だったら。

 くだらないと思っていた運命がこんなに欲しくなるなんて。
 絶対に手に入らないものを追い続けるなんてバカのやることだと思っていた。俺はそんな生き方はしない。そう、思っていたのに。

「ほんと、どうかしてる……」

 送信ボタン一つ押す勇気さえない。
 ぐずぐずと同じ文を書いては消してを繰り返す。

 もう嫌だ。

 痛くなってきた頭を抑えるように後頭部に手を回す。それから徐々に下に行き、首筋の痕を触る。皮膚は色素沈着しているが、手触りは凹凸がない。それなのに、ここに痕があるとはっきり分かる。

 この痕さえ無ければ。

 そう思わずにはいられない。
 うなじの痕を両手で覆いながら、俺は丸まるように膝を曲げた。起きたら消えていてくれないかな、とそんな碌でもないことを考えながら、俺は意識を手放した。

***

 目を開けると、目の前にはトキの顔があった。トキは俺のベッドにもたれ掛かるように眠っていて、目元には薄っすら涙の跡があった。それよりも俺の目を引いたのは、見たこともないほど、濃くなっている隈だった。隈だけじゃない、全体的にやつれた印象になっていて、いつも綺麗な髪の毛もぼさぼさだった。

「…………トキ?」

 起きたらトキの顔があるなんて、夢を見ているんだろうと名前を呼ぶ。
 トキはゆっくりと目を開け、やがて飛び起きた。

「トキ、元気……?」

 元気が無さそうなトキのことが気になって声をかける。夢の中くらいは元気で幸せそうなトキを見ていたい。

「元、気じゃ……ない! 急にこんなこと言われて元気でいられるわけないだろ!」

 そう言いながら、トキは自分のスマホの画面を俺に突き付けてきた。あまりの剣幕に普段落ち着いてしゃべるトキの姿が重ならない。
 瞬間、これは現実なのだと頭が覚醒する。
 何故か、トキが自分の部屋にいて、泣きそうな顔をしながら俺を見ている。

「別れるって何? 俺が何かした? 俺のこと嫌いになった? それとも他に好きな人でもできた?」

 矢継ぎ早に問い詰められ、混乱する。
 手元に置いてあったスマホの画面はメッセージが送信済みになっていた。

「これは…………」
「納得いかない」

 そう言われてもこっちだって納得いかない。どんな説明をされても納得いくことなんてない。

「送った通りだよ。…………別れよ」
「なんで!」

 怖いくらいの気迫に尻込みしそうになる。
 だが、ここで濁したところでこの地獄は続く。だったら、誤送信でもきっかけにするしかない。

「トキと一緒にいるとツラい」

 好きなのに、報われない気持ちがツラい。

「だからなんで!?」

 なんで、なんで、とさっきからそればかり。心当たりはあるはずなのに、全部俺に言わせようとしてくる。

「心当たりあるだろ、自分に聞けよ」
「分からないから聞いてるんだよ」

 荒れる口調に、今自分が話しているのは本物のトキなのかと疑問に思う。もしかしたらトキは二人いて、俺の好きなトキは俺のことを本当に好きで、そしたらなんの問題もなく今まで通りの二人でいられるかもしれない、なんて、都合のいい妄想が浮かんでくる。

 現実見ろよ、俺……

 現実逃避を続けていても埒があかない。
 俺は意を決してトキの目を見た。

「筧なんだろ? ……トキの運命の番」

 言ってやった、そう思うのに、どんどん悲しくなってくる。出来ればトキから打ち明けてほしかった。例え、俺との関係が遊びにすら満たないものでも、誠実に答えてほしかった。
 その願いすら叶わず、結局俺は惨めな姿でトキを糾弾した。

「巳波……? なんの話……?」
「とぼけるなよ……! 筧はΩだって本人から聞いたんだぞ!」

 まだしらを切るつもりなのか、トキは後悔も反省の色も滲まない瞳で俺を見る。

「確かに巳波はΩですけど、それと俺になんの関係が──」
「だから、トキの運命の番が筧だって! 証拠の噛み痕もちゃんと見せてもらった!」

 つい大声になってしまい、俺は声を低くした。
 なんで、トキが俺の部屋にいるのかは分からないが、きっと母さんが上げたのだろう。今、母さんが家にいるかは分からないが、こんな言い争いを聞かれてしまったら心配をかけてしまう。
 トキは表情を歪めた。

「だから、巳波はΩで確かに噛み痕はありますけど、あれは俺がつけたものじゃありません」

 吐き捨てるように、そう言う。

「やっと認め………………え?」
「巳波の運命の番は俺も知ってる別の人です。αのコミュニティって結構狭いんで、そういう噂はすぐに流れてきます」
「え、じゃあなんで筧は嘘なんか……」
「さぁ? そこまでは分かりませんが……千秋くんに誤解されるように仕向けてきたのは事実なので、それ相応の償いはしてもらいます」

 トキの声が一段と低くなり、背筋に悪寒が走る。筧の危険を感じ取った俺は慌てて口を挟む。そんなことをしてやる義理はないとも思ったが、あんなやつとはいえ、トキが幼馴染と仲違いしている姿は見たくなかった。

「で、でも誤解なら、良かった!」
「良くないです。いきなり別れようなんて言われて俺がどれだけ焦ったか分かりますか? 急に連絡も途絶えて、会いに行っても休んでて、どうしたのか聞くことさえ許されなかった俺の気持ちが分かりますか?」
「それは……ごめん……」

 筧の話を鵜呑みにして、確認を怠った責任は重い。最初からトキと話し合っていれば良かったのだ。
 自分の暴走ぶりに呆れると共に、やつれてしまったトキの顔が痛々しくて申し訳なくなる。

「…………本当にごめん」

 俺はベッドから身を投げ出しトキに抱きついた。トキの膝の上に跨り、向き合う姿勢になりながら、更に背中に腕を回す。

「…………千秋くんはズルい。こんなことされたらもう何も言えなくなる」
「そんなつもりじゃなかったんだけど」

 ただ謝りたい一心で抱き締めた。気持ちを伝えたくて近づいた。それだけだったはずなのに、お互い無言になる。
 俺は自然に目を閉じた。当たり前のように感じる熱に何だか泣きたくなってくる。
 トキのキスはどんどん熱くなってきて、俺もそれに応える。恥ずかしいとか、寂しかったとか、苦しかったとか、全部の感情がかき消えて真っさらになる。
 ようやく離れた頃には俺の身体は力が入らなくなっていた。トキの胸にもたれかかったまま荒く呼吸する。

「千秋くん、」

 トキが俺の名前を呼ぶ。

「訂正しておきたいんだけど」
「ん?」

 真面目な顔でトキが言う。

「俺は、好きな人にしか痕はつけない。後にも先にも千秋くんだけ」

 そう言いながら、俺のうなじを撫でた。
 ゾクゾクと反応する身体とは裏腹に、心は熱くなってくる。

「なんで、俺なの……?」

 ずっと心の隅にあった疑問。
 トキがあの時のαだと分かってから、好きになってからも、聞けなかった疑問。

「千秋くんが初めての友達だったんだ」
「初めて……?」
「そう、初めて。あの日、千秋くんが声をかけてくれなかったら、俺は多分一生一人だった」

 筧がいたんじゃ……と言いかけて、思いとどまる。この雰囲気を壊したくはない。

「友達だと思ってたのに、気づいたら好きになってた。離れるのが悲しくて、もう会えなくなるかもしれないと思ってたら、どうしても自分のものにしたくなった……だから」

 もう一度、トキは俺のうなじに指を滑らせる。俺にとってはただのトラウマのこの痕にそんな思いが込められていたなんて思ってもみなかった。

「千秋くんが俺の初恋なんだよ」
「初恋……」

 百戦錬磨のトキの口から初恋なんて言葉が出てくるとは思わず、本当に自分に向けて言っているのかと混乱してくる。

「千秋くんには本当に申し訳ないことをしたって思ってた。でもそれと同時にこの痕がある限りまた会えるんじゃないかって期待もしてた」

 実際、俺とトキは再会して、今こうして友達以上の距離でしゃべっている。
 これが運命なのかもしれないと思った。

「確かに俺はαで、世界のどこかに運命の番がいるかもしれない。それでも俺の好きな人はずっと千秋くんだけだよ」
「俺だけ……?」
「うん。自分で選んだ、俺の好きな人」

 心臓が動きすぎてそろそろ限界を迎えそうだと思った。それでもこれだけは言っておきたかった。

「じゃあ、約束してくれる?」
「約束……?」

 俺は身体を捻ると首を傾けて首筋を晒した。

「次噛んだら、もう取り消しきかないけど」

 トキの舌が昔の痕を愛おしそうになぞる。
 そして次の瞬間には、鈍い痛みと、遅れて身体中の熱が首筋に集まる感覚がした。そんなに強く噛まれてはいないはずなのに、心臓が脈打つたびに傷も疼く。

 αとΩの約束の行為。
 もちろん、βの俺にはなんの意味もない。
 …………はずだった。
 でも、今は。

 やっぱり少しだけ恥ずかしくなって俯いた俺をトキは嬉しそうに抱きしめ続けた。

fin
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