ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第32話

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 日曜日の早朝、まほろのケータイから、電話がかかってきた。まほろのケータイからの連絡は、事故の知らせを受けたとき以来だ。
 胸がざわつき、首を締めつけられるような感覚に襲われる。透明なロープを緩めたくて、首に爪を立ててしまう。

 意を決して電話を繋ぎ、ケータイを耳に当てる。「もしもし」ごまかしようがないくらい、声が震える。まほろのお母さんはあのときと同じように、呼吸を整えるような間を置いて、静かに口を開いた。

「ごめんなさい、朝早くに……」

 まほろのお母さんの声は、だんだん弱くかすれていった。病院にいるのだろうか、声の後ろには冷たい静寂が直線的に広がっているように感じた。

「佐保さん、まほろが、一時間ほど前に……」

 耳に入ってきた声は小さくて消えかかっていたが、たしかに鼓膜を震わせた。しかし、それを脳が言葉として理解するのを拒否している。意味のある音ではない、ただのそよ風だったのだ、と思いたがっている。

 なくなりました。

 そう聞こえた。意味はわかりたくない。

 わたしは言葉を失い、部屋の一点を見つめていた。まほろがわたしに使ってほしいと言って託してくれた、まほろカフェの道具だ。まるで、この世からいなくなる準備ではないかと思ったのだが、まさか……。

 まほろのお母さんは電話口で泣いている。だけど、ケータイを当てていない左耳にも、泣き声が聞こえている。わたしは頬をこすり、濡れた手のひらを眺めた。口からは吐息と、抑えきれない声が漏れていた。

「今から……今から行ったら……ご迷惑、ですよね」

 わたしはまほろに会いたい一心で、そう口走っていた。昨日までいっしょに暮らしていた、意識だけの存在になったまほろはまだいるのではないか。
 暗闇の中、消えそうなくらい小さな星のひと筋の光にすがるような思いだった。これはまだ永遠の別れではない……そう信じたかった。

「佐保ちゃんに来てほしい……まほろに会ってほしいと思って、お知らせしたの。もちろん、佐保ちゃんがよければと思っていたんだけど……」

 わたしはすぐに向かうと言って、通話を切った。急いで身支度を整えて、家を出た。
 電車の速度をもどかしく思いながら、心の中ではまほろを呼んでいた。今までふたりでできたことや、話せたことじゃなく、できなかったこと、まだ伝えていないことばかりが浮かんでくる。

 実現したかもしれない、まほろとの大学生活。
 取材は関係ない旅行。もちろん、漫画だってたくさん描けたかもしれない。
 まほろの手料理だって食べたかった。まほろに手料理を食べてもらいたかった。

 ありがとうも伝えきれてない。わたしよりもまほろの方が、トーン貼りが上手だと褒めるのも忘れていた。大事な友だちだってことも、口に出しては言っていない気がする。
 二年もあったのに何をしていたんだ、と自分を責めたくなるくらい、わたしはまほろに何も伝えていなかった。

 まほろはいつも、たくさんの気持ちをわたしにくれたのに……。

 日曜日は駅と病院とを往復する送迎バスの運行がなかった。他の市内循環バスが病院前の停留所を経由しているのかもしれないが、普段バスを使っていないためどれに乗ったらいいのかわからない。
 運行表をたしかめる暇も惜しく、その上大通りの交差点の信号が青だったのもあり、あまり考えずに駆け出していた。

 休日の早朝の街は、通学、通勤の人混みがないおかげで空いていた。たまに見かけるのはウォーキングを日課にしているらしい、トレーニングウェアの人か、遠出するらしいスーツケースを転がしている人くらいだ。
 駅前から発車したバスが、わたしを追い越していく。ガタガタと派手な音を立てるバスには乗客は少なく、つり革が騒がしく揺れているだけだった。
 
 信号が赤でない限り、足を休めて息を整えることもなく、一心不乱に走った。全力疾走は高校の体育……いや、そんなの適当にやり過ごしていたから、小学生まで遡るかもしれない。乱れた呼吸に無関心なふりをして、減速しそうになったら大股で、必死に病院を目指す。
 バスだと十分くらいだったから、三十分はかからないだろうか。バスに乗って移動していたときは気にも留めなかったが、病院への道のりが上り坂じゃなくてよかったと思った。

 やっと病院が見えてきて、足が俄然軽くなった。空気をかき分けるように腕を大きく動かし、身体を前へと送り出す。
 呼吸と身だしなみはエレベーターの中で整えればいい。自動ドアが開くのも待ちきれず、身体をねじこむようにして入った。

 すぐに開いたエレベーターに乗りこみ、深呼吸を繰り返す。のどが真っ白になったような感覚に襲われる。三階に着くまでの短い時間ではどうにもならず、わたしは廊下をゆっくりと歩きながら息を整えた。しかし、今度は別の意味で鼓動も呼吸も乱れてゆく。

 わたしはこれから、まほろに……生きていたときはまほろだった身体と向きあうのだ。
 足の先から徐々に削られていくような、静かな恐怖にさらされている。
 心臓がいつもの倍まで膨張しているかのようで、全身に鼓動の振動が伝わっている。あばらを押しのけて出てこないことが不思議なくらい、身体の中ですごい音を立てている。

 病室の前に立つ。ネームプレートはまだついているが、ホワイトボードの上で少しだけななめになっていた。右手を胸の高さまで上げ、ドアをノックする。しかし、手が震えてうまく音が出ない。もう一度ぎこちなく手首を曲げたとき、磨りガラスの向こうに人影が見えた。静かにドアがスライドされる。

「佐保ちゃん……朝早くにありがとう」

 まほろのお母さんは、もともと小柄だったのがまたひと回り小さくなったようだった。頬に涙の跡はないが目は真っ赤に充血し、まぶたの縁にはこぼれ落ちそうな涙がどうにか踏みとどまっていた。
 病室の奥、ベッドの脇には、はじめて会うお父さんがいる。会釈すると、まほろのお父さんは弱々しくほほえんだあと、うなだれるように頭を下げた。

「あの……このたびは本当に……」

 わたしは人のさいごに立ち会ったことがなく、まほろの両親に何と声をかけたらいいのかわからない。身の丈にあわない言葉遣いでたどたどしくあいさつをするのを、まほろのお母さんが制止した。

「いいのよ、そんな改まったことはしなくても。まほろに……会ってやって。もうそろそろ、ここから移動しなくちゃいけないから……」

 背中に手を添えられ、病室の中ほどまで進まされる。ベッドの周りにあれだけあった点滴や器具が、一切なくなっていた。布団の中に伸びていたチューブやコードも見当たらない。まほろはいろいろなものに……機械や薬品によって生かされていたのだと改めて実感させられる。
 まほろのお母さんが、心配そうにわたしを振り返ってきた。いつのまにか、わたしの足は動きを止めていた。くちびるはかさかさに乾き、巨大な手で握りしめられているみたいに頭が軋んでいる。

「苦しんでいる顔じゃない。本当に、ただ眠っているみたいなんだ。綺麗な顔なんだ」

 まほろのお父さんは、わたしの方は見ず、まほろに語りかけるように言った。その言葉に手を引かれるように、ふらふらとベッドに歩み寄っていた。枕もとに立つ。

 まほろは布団から顔だけを出した状態で横たわっていた。まぶたは自然な弧を描いて閉じられ、なめらかな頬にはカーテンに遮られたかすかな陽光がにじんでいる。
 眉間にも口もとにも苦痛を刻んだようなしわはない。それどころか、まだほんのりと血色がうかがえるくちびるは、楽しい夢を見ているかのように少しだけ口角が上がっていた。

 わたしは床にひざをつき、枕もとに手を置いた。包帯を外されたまほろの頭は、坊主に近い状態だった。事故直後の手術の際に剃られたのだろう。
 三ヶ月のうちに伸びた髪の毛の隙間からは白い頭皮が見え、縫いあわせられた傷口は赤かった。さらさらで柔らかい、わたしが密かに憧れていたセミロングは、見る影もなかった。

 となりに立ったまほろのお母さんが、わたしの肩にそっと毛布をかけるような優しい声音で話しはじめた。

「昨日の夜……急に呼吸が止まったんですって。呼吸器は、患者がちゃんと酸素を吸入していないとナースコールが鳴る仕組みになっているらしいんだけど、ちょうど……って言ったらおかしいかな。顔と呼吸器のあいだに、普通はない隙間が空いてて、そこから酸素が漏れ出ていたから、警報が作動しなかったみたいで……」
「看護師さんが来たときには、もう……」

 お父さんが、悲痛な面持ちで力なく首を横に振った。まほろの顔を祈るような思いで見つめる。
 琥珀のような色の瞳を見たい。
 左の頬にだけできるえくぼを見たい。
「先輩」と、いつもの甘えるような声が聞きたい。

「本当に……痛かっただろうね。苦しかっただろうね。後ろから撥ねられて……何が起きたのかわからないまま眠りつづけて、こんなことになるなんて……起きてくれるって、信じていたのに……」

 まほろのお母さんは嗚咽を漏らしながら、心を切り刻むようにして言葉を絞り出した。わたしの目からも、涙がぼろぼろとあふれ出した。涙は次から次にまぶたから転がり落ちたり、頬に流れ出たりして、視界がぼやける暇もなかった。

「ごめん……ごめんね、まほろ……。わたしの合格発表についてきてくれるって、約束したせいで……」
「それは言わない約束でしょう。佐保ちゃんのせいじゃないわ」

 まほろのお母さんは、後ろからそっと肩を抱き寄せてくれた。懐かしい柚のかおりがしてきて、また涙が止まらなくなる。

「昨日、病室を出るときにね。こんなふうに、うしろから抱きつかれるような感覚がしたの。背中があたたかくなるような感じ。振り返ってもだれもいなくて、風のせいかなって思ったんだけど……きっと、まほろだったのね」
「私も昨日、夕方に見舞いに来たとき、同じような感覚がしたんだ。まほろは……昨日がさいごだってわかっていたのかなぁ。何か伝えたかったのかなぁ」

 わたしはまほろの顔を見、ななめ後ろにあるサイドボードを……その上にのっているうさぎのぬいぐるみを見た。

 ああ、と心の中でつぶやいた。
 明け方、薄闇の病室。うさぎのぬいぐるみが、眠るまほろの首にまたがり、呼吸器を慎重にずらしている様子が目に浮かんだ。なぜそんなことをしたのか……。いろいろと想像はできても、真実はまほろにしかわからない。

「きっと、悔いはたくさんあっただろうけど……まほろはあなたに会えて幸せだったと思うの。まほろは友だちがあまりいなかったのよね。親身にお見舞いに来てくれたのは、あなたと……昨日来てくれた同級生、ひとりだけよ」
「昨日……? わたし以外にも、来ていたんですか?」

 まほろのお母さんはわたしの肩から手をどかし、遠い過去のことを思い出すような目をした。

「ええ。中学校のころからの同級生だったみたいでね。ジャージ姿でほとんど荷物も持たずに……まるで、部活を抜け出して来たみたいな格好だった」

 昨日、高校前の交差点で再会した、ソフトボール部の女子生徒のことを思い出した。あのときは行かないと言っていたのに、もしかしたら、わたしたちの後をつけていたのかもしれない。

「何も言わずに、まほろと向きあっていたわ。どんな関係だったのかよくわからないけど……最後に『本当に悪かった』って言ってたのが聞こえちゃって……」

 まほろはどんなふうに、彼女の誠意を受け止めたのだろう。あの子にも、両親にしたのと同じように背中に触れたりしたのだろうか。

「まほろも喧嘩なんてするんだってびっくりして、その子にまほろの方こそ失礼じゃなかったかって訊いたの。そうしたら『私がまほろを理解してあげなきゃいけなかったのに、できなかったのが悪いんです』って……。ここまで謝りに来るの、きっと勇気が必要だったでしょうね」

 病室にノックの音が三回響いた。重く沈みこんだ空気をかき混ぜるような、軽い音だった。まほろのお父さんがドアに駆け寄り、顔を出して話をしている。二言、三言やり取りをし、まほろのお母さんに顔を向けて目配せした。

 時間だ、と思った。わたしはまほろの顔をさいごに見つめ、立ち上がった。

「まほろに会わせていただいて、本当にありがとうございました」
「こちらこそ……今までいっしょにまほろを見守ってくれてありがとう。今後のことが決まったら連絡するから……さいごにまた会いに来て」

 病室を出て、廊下を進み、エレベーターに乗って一階に降りる。外に出ると日は高く昇り、地面にくっきりとした影を落としていた。

 何でこんな日でも、空は青く晴れ、風には季節を越える溌剌とした勢いがあるのだろう。

 空、雲、風、太陽……すべてから身を隠すように、わたしは帰り道を歩き出した。
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