ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第31話

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 電車とバスを乗り継ぎ、病院に着いた。八階建ての総合病院。正面玄関前のモータープールには、送迎のタクシーや自家用車が列を作っていた。
 わたしはそれほど高くもない建物を見上げ、めまいを催した。手に提げた紙袋が、急に重さを増したようだった。足が一歩も動かない。

「先輩、何してるんですか。早く行きましょう」

 まほろは数メートル先で立ち止まって、手招きしている。周りにたくさんの人がいるので、わたしはまほろ相手にごねるわけにもいかず、靴底を引きずるようにしてまほろを追いかけた。
 人がごった返す総合受付を通り過ぎ、まほろの病室のある三階へと向かう。三機あるエレベーターは、いつでもどれかがすぐに扉を開けてくれる。わたしたちは見舞客らしい数人と共に、広すぎるエレベーターに乗りこんだ。

「何か、緊張しますね。自分のお見舞いに行くなんて」

 まほろは階数表示が変わるのを見上げながら、声をひそめて言った。わたしは紙袋の取っ手を持ち直し、うつむくふりをしてうなずいた。

 三階で降りたのはわたしたちだけだった。廊下には、点滴を引っ張って歩くパジャマ姿の患者や、バインダーを抱えた早足の看護師が行き交っている。
 時刻は一時過ぎ、ちょうど昼食が終わった時間なのだろう。食べ残しが多い食器をのせたワゴンが、何台か連なって騒がしく通り過ぎていった。

「先輩、母の前では話せないので、ちょっとだけ……いいですか?」

 わたしは辺りを見回し、ちょうど人の往来が途切れたことを確認し、「何?」と聞き返した。中庭に面した窓際に寄り、外を眺めながらまほろは口を開いた。

「先輩、あの漫画……この前完成させたの、どこに投稿するんですか?」

 想像もしなかった問いかけに、わたしは言葉を失った。この期に及んで漫画の話をするまほろに、はじめて心底呆れ返った。

「そんなの、今はどうだっていいでしょ。まほろ、わかってる? もうわたしたち……本当に会えなくなるかもしれないんだよ」
「わかってますよ。わかってるから、この話をしてるんです。あたし、先輩にはほんとにほんとに、漫画を描きつづけてほしいんです。やめないでほしいんです」

 わたしはきつくくちびるを噛み締めた。そうでもしないと、声を荒らげてしまいそうだった。遠くでスリッパがぺたぺたと音を立てている。

「あたし、本当に好きだったんです。先輩といっしょに部活をしてる時間が。再会してから漫画を描けたことも、本当に嬉しかったんです。先輩の漫画が……漫画を描いてる先輩が、大好きだったから」

 まほろは固く錆びついた錠前を無理やりこじ開けるかのように、苦しげな表情で言葉を紡いだ。わたしは相槌を打つのはおろか、うなずくことも、首を振ることもできなかった。言葉といっしょに、まほろの気持ちも怒涛のように襲いかかってきて、呼吸すら苦しくなってくる。

「あたし、先輩にはいっぱい大事なものをもらったのに、あたしは先輩に何もあげられなかった。漫画を手伝っていたのも、先輩のためというよりは、あたしのためでした。先輩といっしょにいたくて、先輩が好きなことをあたしも好きになりたくて、アシスタントをしてました。まほろカフェも、この姿になってから先輩のところに来るのを選んだのも、ぜんぶぜんぶ、あたしのためだったんです。わがままです」

 わたしは溺れかけていたのかもしれない。気づけば、息をするのも忘れていた。わたしは慌てて水から顔を上げるように、息を吸いこんだ。

「まほろはわがままじゃないよ。わたしはまほろのおかげで高校生活、すごく楽しかった。まほろがいなかったら、毎日わたしは透明のまま過ごしていたと思う。だれとも話さず、だれにも認識されず、だれのことも信用せず、そんなひどい毎日になってたと思う。まほろが、わたしの生活に色をつけてくれた。何もしてあげられなかったなんて、とんでもないよ。まほろがいっしょにいてくれて、本当によかった。楽しかった」

 まほろは隣でごしごしと頬をこすっている。ぐず、と鼻をすする音もした。
 わたしは少しだけ右に足をずらし、まほろの肩に自分の肩を重ねた。まほろは赤くなりかけた目を切なげに見開いて、わたしの肩に頬を寄せてきた。

「あたし、もっと先輩といっしょにいたかった。事故になんて遭ってる場合じゃなかった。同じ大学に行って、同じアパートに住んで、美術部のときみたいにふたりで楽しいことしたかったのに」
「ねえ、まほろ……本当に帰らなきゃいけないの? このままずっと、こういうかたちでいっしょにいられないの?」
「神さまとの約束ですから。でも……もし、神さまがいいって言っても、あたしはここには残りません。だって、先輩のこと、こんなあたしが束縛しちゃだめだもん」

 まほろは手のひらを窓ガラスに貫通させ、ひらひらと揺らした。ため息のような、力のない笑みをこぼす。
 その手を引き寄せて止めさせたかったが、窓ガラスの向こうで揺れる手には届かず、すぐ隣にある腕にも触れられず、いつになく強い無力感に打ちひしがれるだけだった。

「ごめんなさい。最後だからって、ちょっとあたしらしくなかったですね。大丈夫です。あたし、もう怖くないから」
「まほろ、わたし、お見舞いに来る。毎週来るよ」
「そんな無理はさせられません。あの……来られるときだけで、いいですから」
「あと……まほろは何もあげられなかったって言ったけど、わたしだって、まほろから大事なものをもらったよ。大事な、名前……」

 若狭あかね。
 ふたりでつけたペンネーム。

「わたし、実は……あの漫画を最後にしようと思ってた。まほろといっしょに描けないなら、もうやめようと思ってた。だけど……」

 まほろは祈るような瞳でわたしを見上げている。背後を通っていったストレッチャーが起こした風を受けたわけでもないだろうが、まほろの髪は膨らむようにふわりと揺れた。

「漫画……つづけようかなって。今、思った。まほろがいないから描けない、じゃなくて……まほろの名前をもらったからにはつづけなきゃっていうか……何かよくわかんないけど」

 感情の渦を抑えることができなくて、自分でも思っていることがよくわからなくなっていた。だけど、漫画をつづけたいというのは本心だと思う。それだけは断言できる。

「先輩……約束ですよ? あたしの名前……あたしと先輩のふたりで作った名前、大事にしてくださいね」

 まほろは窓から離れ、病室のある方に伸びる廊下へと顔を向けた。そのうしろ姿は揺らぐことなく、しなやかな強さを感じさせた。

「ねえ、まほろ」

 わたしはまっすぐ伸びた背筋に声をかけた。もう周りに人がいるとかいないとか、どうでもよくなっていた。逆に、まほろの方が気にかけて、近寄ってきてくれた。

「あのさ……さいごに、さいごに……」

 思いが言葉にならず、口にする前にしゃぼん玉のようにぱちんと割れたようだった。弾けて消えた思いは、しゃぼん液が口に飛んできて苦みを与えるように、頭の中で欠片となって存在を主張している。顔をしかめたくなるのを、ぎゅっと抑える。

 わたしは今、まほろに触れたいと思った?

 自分でも信じられなかった。抱きしめたいなんて、抱きしめてほしいなんて。
 言葉になる前に割れてくれてよかった。まほろを困らせてしまうだろうし、わたしだってたぶん困る。
 ますます別れがたくなってしまうだろうから……。

 まほろは口ごもるわたしに聞き返すことはせず、少しだけ指先を絡めてきた。弱いところに触れられたわけでもないのに、びくんと身体が震える。
 まほろは繋いでいない方の手でワンピースの胸もとを押さえ、うつむきがちにはにかんだ。

「覚悟が折れちゃいそうなので、それ以上は言わないでください」

 まほろの指がほどかれていく。身体の呪縛を解かれたかのようだった。呼吸をするのが楽になる。わたしは離れていくまほろを夢を見ている気分で眺めていた。

「先輩、ほら、早く行きましょう」


       .*・.゚・*.・:*


 街は夕暮れに沈みはじめていた。わたしは実家の最寄り駅のホームに降り立ち、わずかな利用客がつぎつぎに追い抜いていくのも気にとめず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
 電車はドアを閉め、ゆっくりと走り出す。四両編成の列車は、ぬるい風を起こして下り方面へと加速していった。

 ひとりだった。久しぶりにひとりになった気がした。

 病室に入るときはまほろといっしょだった。まほろのお母さんと少し話をして、うさぎのぬいぐるみをサイドボードにのせた。少し遅めの誕生日プレゼントだと、言い訳めいた説明をした。まほろのお母さんは喜んでくれて、ぬいぐるみを寝ているまほろのそばに座らせた。そこまでははっきり覚えている。
 まほろはわたしにしか聞こえない声で何かを言い、わたしはわずかに首を動かしてうなずいて見せた。わたしはまほろのお母さんに自動的にあいさつをして、病室を出た。まほろはお母さんのうしろで手を振って見送ってくれたが、どんな表情をしていたのかはあまり記憶になかった。

 まほろとのふたりだけの世界は終わってしまった。
 明日には、もうまほろの意識は天国に帰っているだろう。天国の門から中に入ったら、もう現世には戻ってこられない。

 わたしが会えるのは、ベッドで眠りつづけるまほろだけだ。漫画を描くことも、話をすることも、笑いあうこともできない。
 わたしにできるのは、まほろに触れてあたたかいことをたしかめることだけだ。だけど、まほろはわたしの温度を感じてくれるのだろうか。わたしの存在を受け止めてくれるのだろうか。

 今さら、まほろがかけがえのない存在だったことに気づく。まほろはわたしの心に支柱を立てて、ぐちゃぐちゃに絡まった枝葉を優しく導いてくれていたようだった。凝り固まったわたしの心を、少しずつほどいていってくれた。支柱を失った今、行き場をなくした茎や枝が、わたし自身の歩みを止めようとしている。足に絡みつき、腕を縛りつける縄になる。

 こんなに苦しむなら、他の人間と同様にまほろのことも信じずにいればよかった。漫画を描いているのがバレても、原稿なんて見せるんじゃなかった。
 そもそも、出会わなければよかったのに。

 身体を切り裂くような別れの悲しみは、二年間の楽しかった思い出を上回っていた。
 何度も立ち止まりそうになりながらも実家に辿り着いた。今「ただいま」と言ったら声が震えてしまいそうだ。黙って二階に駆け上がり、自室に飛びこんだ。ベッドも本棚もこたつもなくなった、がらんとした部屋。窓に引かれたカーテンだけが、この部屋で唯一変わらないものだった。

 階段を上がってくる足音がする。重量を感じる音だ。部屋をノックしたあとで、母の声が聞こえてくる。

「佐保、帰ってきたの?」

 わたしは「うん」となるべく短く返事をした。鼻水が出てくるが、今はすすってはいけない。ドアを隔てていても、泣いているときと風邪をひいてるときの違いくらいはわかるだろう。

「あんた、早くお義母さんに顔見せてやって。佐保はまだかって朝からうるさくて」
「うん」

 平静を装った返事は、少し鼻声だった。お母さんの足音が遠ざかっていく。わたしは荷物を置くと、床に転がって丸くなった。
 心に空いた穴にぴったりはまるものを探して、記憶の箱をさかさまにする。出てくるものがことごとくまほろに関するものばかりで、喪失感が増すばかりだった。もう心に穴が、という状態じゃないかもしれない。これが心だったのかと疑ってしまうほどバラバラに砕かれて、治すすべもなさそうだった。

「まほろ……」

 せめて、あのうさぎのぬいぐるみがいたら、と思った。とにかく、何かに、誰かに触れたかった。人の身体になんて、触れるのも触れられるのも苦手だったのに。わたしはまほろにずいぶん変えられてしまったのだ。

 それなのに、急にいなくなるなんて。

 わたしは空気を抱えるように、両腕を軽く交差させた。まほろを抱きしめたときみたいにはあたたかくもないし、身体中に幸福感が広がる感じもしない。
 それでも、空気をつぶさないように、ひとり分の何もない空間を抱きしめつづけていた。

 これからは本当のひとり暮らしなのだと思うと、アパートに帰りたくなくなってくる。ずっと思い出の中の美術室にこもっていたかった。
 夕暮れの金色に染まった美術室。
 ハチミツ色の絵の具に溺れていたかった。
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