冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花

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抑えられない執着心(伊吹side)

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 -伊吹side-

『異常者』

 それは、俺の幼い頃からの異名。
 悪く言えば、ただの悪口。しょうもない渾名あだなだ。
 俺自身もそう思っているから、別にそう呼ばれるのは気にしていない。
 ただ、自分のことを何も知らない連中にそんな言葉を吐かれるのは心底胸糞悪かった。
 そういうわけで、幼い頃からどこか尖っていた俺は両親からもあまり良く思われていない。
 誰でもいいから、教えてくれよ。
 残酷なこの世界において、“幸福”とは何なのかって。
 俺の何が足りなくて、こんな世界を生きていかなくちゃいけないんだ。
 両親にも、友達にも、自分が信じたたった1人にも見放されて、それでも生きていかなければならない理由。
 非力な自分を助けてくれる人間はいない。

『…っ、あ、あの!これっ、落としましたよ?』
『───…え?』

 それでも、あの日。
 真新しい上質な制服に身を包み、春の桜吹雪が綺麗な高校の入学式の日。
 妙に晴れ渡った真っ青な空の下、俺は初めて息を吸えた気がした。
 桜色のハンカチを手に、艶のある黒色の長髪を耳にかけながら、首を傾げてこちらを見つめるその姿に。
 ──俺は一瞬で目を奪われた。
 我ながら単純だと思う。たった数秒間で、その日初めて見た女相手に簡単に落ちてしまったんだから。
 金縛りにあったように何の言葉も発さなかった俺を、彼女──彩夏は柔らかそうな頬を緩めて、穏やかに微笑んで一歩、また一歩と俺の方へ歩み寄って来た。
 色白の細くて綺麗な足に鼻血が流れそうになるのを必死に抑えた。
 なんだよ、情ねぇ。天馬家次男ともあろう俺が、女相手に余裕をなくしてしまうなんて。

『…大丈夫、ですか?このハンカチ、やっぱりあなたのものですよね』

 どうしてそんな目で、俺を見るんだ。
 出来損ないの俺に、どうしてそんな風に優しい目をして、見つめてくるんだ。
 両親からも向けられたことのない、慈愛に満ちた温かいその瞳は、俺の目のように汚れを知らない曇りなきまっさらな透明な色をしていた。
 ……いや、まあ目が透明な色なんてあり得ないんだけど。
 実際には、彩夏の目は綺麗に透き通った薄茶色をしていた。
 淡い桜色の唇は男の欲を煽るほどキスしたら気持ちいいだろうなぁ、なんていう気持ち悪い思考を連想させるもので、伏せられた睫毛が凄く長くて綺麗だなぁとか、今にも消えてなくなってしまうんじゃないかってくらい透明なほどに色白なその肌に目を奪われて、大きな双眸が物凄く魅力的で、高い鼻も、すっと通った鼻筋も、無駄のない完璧なまでの輪郭も、───。
 俺がその女に惚れる材料はあまりにも揃いすぎていた。

『……いや、俺んじゃねぇよ』

 男がピンクのハンカチを持ってるって、どう考えてもカッコ悪いだろ。
 惚れたばかりの女に、そう思われるのが嫌だった。
 恥ずかしさからか、いつもは意識して丁寧に発している言葉遣いも、情けないほどに粗っぽい口調になってしまう。

『…そう、ですか?確かにさっき、あなたのポケットからこれが落ちるのが見えたのですが……』

 困ったように眉を下げて、もう1歩前に踏み出した彩夏。
 その表情に、俺を小馬鹿にしたりする感情は全く見えない。
 純粋に善意からハンカチを拾ってくれただけ、なのか……?本当に?
 そんな人、今まで俺のちっぽけな世界には誰1人として現れなかったのに。
 芸能界大御所の社長の1人息子として、御曹司という名の重責を背負ってきた俺。
 俺の住む世界は競争社会だ。弱いものが負け、強いものがのし上がる。地位も権力も、どんなに汚い手を使ったって手に入れる。
 それが、あの人たちのエゴだった。
 そんな汚い欲に溺れた人間ばかりが周りにごまんといて、俺に目を向けてくれる人間も、優しさや愛情をくれる人間も、誰1人いない。

『……それ、実は母さんの手作りなんだ。けど、男がそんなもん持ってるのって、かっこ悪いだろ──『…っ、かっこ悪くなんてないよ!!』

 その時は、言葉を遮られたのと、彩夏の気迫が何だか凄くて、俺は情けなくもポカンとしてしまった。
 今までずっと、他人にはしてこなかった自分の話。
 もうこの先関わることもないんだろう……、とどこか残念に思いながらも、この子の反応がもっと見たいっていう衝動に駆られて、俺はいつもより数倍口数が多くなったんだ。

『……え、?』
『すごく、凄く、素敵なことだよ……っ。このハンカチ、あなたのお母さんが作ってくれたんだよね。いいね、いい、なぁ…』

 キラキラとした瞳で、自分の手の中にある俺のハンカチを見つめる彩夏。だけど、そう言った声が掠れていたのは、俺の聞き間違いだったのだろうか。
 彩夏は俺の手を優しく掴んで、そっとその桜色のハンカチを手渡してくれた。

『ありが、とう』
『ふふっ、ううん。あなたの大事なハンカチを拾えて良かった!……あなたは、沢山の愛情を貰えているんだね』

 それは、何かを渇望しているような羨望しているような眼差しに見えた。
 俺を見つめ、優しく微笑みを浮かべる彩夏は、何だかすぐにどこかへ消えていなくなってしまいそうで……。
 だから、迷わずに彩夏の細く綺麗な手首を柔く掴んだ。

『…ねぇ、俺たち、付き合わない?』

 自分の顔が他よりも長けているのは自覚済みだ。
 それなら、この無駄に綺麗な顔を最大限利用させてもらおう。
 自分が1番格好良く見える角度で首を傾げて、彩夏の手首を握る手にぎゅっと弱い力を込める。
 好きなんていう気持ちは、まだ芽生えかけの小さなものだったけれど。
 それでも、その気持ちがまだ薄くても、彩夏が俺のことを好きでもなんでもなくても、俺はどうしても彩夏を繋ぎ止めたかったんだ。
 こんなにも温かい優しさをくれた初めての人との縁を、簡単に切りたくなんてなかった。

『…っへ、え!!?……っ、な、なぜですかっ?』

 取り乱す彩夏が、あの頃はただただ可愛かった。
 ……彩夏、俺、本当は母さんにも父さんにも、愛されてないんだ。
 あの人たちは、俺のことをただの商売道具としか見ていない。
 彩夏の手首を掴んでいない方の手に握ったこのハンカチは母さんが俺にと作ってくれたものだったけれど、それはもう随分と前の大昔の話。
 赤ん坊じゃなくなって、成長していくごとに可愛げもなくなって、両親は俺に沢山のことを求めてきた。
 それが、心底嫌だった。苦しかった。息ができなかった。

『一目惚れしたから……です』
『…ええっ!?ひ、一目惚れ……でもわたし、まだあなたの名前も知らなくて…』

 ……それでも、きっと。
 この子の隣にいれば、俺は楽に息を吸える気がする。

『俺の名前は天馬伊吹。ほら、もう覚えれるでしょ。俺と、付き合って』

 つまり、俺は利用したんだ。
 どこまでも深い彩夏の優しさに浸け込んで、俺にしか得のないことを無理やり頼み込んだ。
 優しい彩夏は、きっと俺からの告白を断れないはずだから。
 それにちょっとは、俺が心底嫌いなこの顔を、彩夏が好きになってくれるかもしれないから。
 そんな淡い願いを込めて、俺は“一方的で身勝手な告白”という最低なことをした。

『…っ、は、はい。いい、ですよ』

 頬を赤く染めて、上目遣いで俺を見つめる彩夏に、きっと俺は知らぬ間に底なしの沼にはまっていったんだろう。
 だって、今ではこんなにも、彩夏のことが好きだから。
 1年という月日をかけて、俺はきっと重たい彼氏へと化してしまったんだろう。自覚はある。
 俺の言葉に、怖がっている彩夏に気づかないフリをして。
 彩夏が俺を好きじゃなくても、俺はもう離してあげられない。俺には彩夏だけが必要だから。

「……なあ千明。“あっち”の街は変わりないか」
《ええ、全くお変わりありませんでしたよ。今日は天馬様の命通り東宮内高校を休んで西ノ街まで視察に行っていましたから》
「……そうか」

 まさしく猫を被ったというような男が俺の質問に答える。
 ──神楽千明。
 それが、俺の直属の配下の名前。
 飼い主の機嫌を高めるのがこれほどまでに上手い従順さを持ち合わせた便利な男。
 否、どこか危険で用心深い人物。

《……。天馬様、何かございましたか》

 ほら、今だって。
 俺の寸分の変化にこの男は鋭いのだ。

「……ああ、まあな。彩夏のことでちょっと」
《そうでしたか……。私の部下に彩夏様の捜索を命じさせましょうか?》
「いや、いい。今彩夏の家の目の前にいる」
《……っふ、相変わらず彼女想いなんですね。天馬様は素敵なお方です》

 電話の向こうで男が小さく笑う気配がする。
 ……本当にこいつは、俺の機嫌を取るのが上手い。
 正直お手上げ状態だ。
 配下は、主のことに簡単に首を突っ込んではいけない。
 そんな常識があるはずなのに、俺は千明を叱責する気力も体力もなくなるくらい、千明の世渡りの巧みさに辟易としていた。

「そんな世辞いらねぇ。……じゃあ切るわ」

 黒塗りのベンツが彩夏の家の近くで止まるのを流し目で見ながら、千明との通話を切る。
 あんな高級車が、なぜこんな下層住宅街の一角に停められているんだ……?
 用心深い俺は、訝しげにその車が停められている方向に視線を走らせる。
 おんぼろアパートや不気味な家が立ち並ぶ地に、いかにも金持ちが乗っていそうなベンツが停められているというのは妙に異色すぎて、僅かな好奇心が湧く。
 すると、きっちりとスーツを着こなした20代くらいの色男がこちらに近づいて来ているところだった。
 これはタイミングが良いと思って、その男に声をかけようと思った時。
 俺の顔を見たのか、それとも何か突然の事態が起こったのか、こちらに背を向けて黒塗りのベンツの方へと速足に戻っていく。

「……は、」

 何なんだ?あの男は。
 次第に、先程まで抱いていた好奇心が疑心へと変わっていく。
 そう言えばあの男、手袋をしていたな……。
 ということは、あの車の運転手か?
 そういう推測を立てた俺は、そのベンツの後部座席に乗っているであろう主人の正体が知りたくなった。
 スーツを来た男は、そのままベンツの後部座席の窓をコンコンとノックして、主と何か話しているようだ。
 今は暗くてその男の表情までは見えないけれど、何かに焦っている様子がこちらまで伝わってくる。
 ますます怪しくなってきたな……。
 ……っ、まさか、俺の顔を知っていたとか。
 ───マズい。
 もし俺の正体を知っている者ならば、あの車に乗っている奴らは全員俺とは敵対する奴らだ。
 だって、この東ノ街の夜に生きる者たちなのだから。
 俺は彩夏の家とベンツを交互に見て、どんどん速くなっていく心臓の鼓動を必死に抑えた。
 ここにいては、彩夏に正体を知られる恐れがある……っ。
 それだけは絶対に避けたい。
 あちらの動向を探りながら、俺は密かに待機する。
 制服のズボンのポケットからスマホを取り出し、一応念の為を思って千明に連絡し、精鋭部隊を揃えてもらう手立てをした。
 しばらく静かな時が流れた。
 あちらは一向に動く気配がない。
 俺に背を向けてベンツへと戻っていった男の姿も今は見えない。
 すると……。
 ────ガチャッ。
 夜の静寂を破ったのは、突然開け放たれたベンツのドアの音だった。
 俺は素早くあちらの様子を窺う。
 あちら側からは死角になっている住宅街の曲がり角の所に、千明が呼んだ部下たちはもうすでに待機している。
 俺の隣に立つ人物は、今か今かとウキウキしている様子だ。
 ……全く、この男は恐ろしい。

「──やあ、西ノ街の皇帝サン。久しく顔を見ていなかったね。天馬伊吹」
「……ああ、そうだな。───飛鳥馬麗仁」

 そうフルネームで呼び合う俺たちには、端から見ればとんでもなく険悪なムードが流れているように見えると思う。
 だが、別段そういうことはない。
 この感じが、俺とこの男の普通だ。

「さっそく聞きたいんだけど、なんでお前がここにいるの?」

 丁寧な話し口調は昔も今も変わっていない。この男は、己の本性を隠している。
 常に穏やかで、慎ましく、静かに微笑みを浮かべているような読めない男。
 否、その本性を暴かれないように“完璧”という名の仮面を被っているだけの汚い男。
 天馬伊吹にとって、飛鳥馬麗仁とはそういう人物だった。

「逆に、なんでこの俺がこの街にいたことに気づけなかったのか、問いたいところだ」

 この男を煽るのはたのしい。
 自分と同じ、もしくはそれ以上に強い相手を軽んじるのは、こんなにも面白いのだ。

「……ふっ、いつまでそう強がってられるかな。お前の肝試しが心底楽しみだよ」

 ……イラッ。
 本当に、人を煽り返すのが巧い。

「───おい。ヤるか?」
「ううん、ヤんない。ここは俺の管轄地だからね。この街の住民にあまり怖い思いはさせたくない」
「……っふ。随分とデッケぇ猫を被ってやがる」

 西ノ街の皇帝であるはずの俺を恐れていないどころか、俺よりも随分と余裕を持て余しているその姿に、イラ立ちが募る。

「はは、お褒めの言葉をどーも」
「…(イラッ)褒めてないから」
「相変わらず短気だね。そんなんで皇帝が務まるのか心配だなあ」

 ニヤッと唇の端を上げて、ムカつくほど綺麗に整った顔を悪役のように歪ませる飛鳥馬麗仁。
 ……ほら。これがこいつの本性。

「……、それより、お前はどうしてここに?」
「……、それ、おれが聞きたいことなんだけど」

 お互いどちらとも据わった目で相手を睨みつける。
 その瞳の奥には“お前は邪魔だ。今すぐ消えろ”という感情が隠れることなく見えていて、譲らない性格が見て取れる。

「おれは“彼女”を家まで送り届けに来たんだ」

 案外相手が正直に答えたことに、俺は目を見開いた。
 ウソを言っているようには見えない。
 ───だけど、どうしても信じられない。

「お前、……女なんか作る人間だったのか?」
「………、さあな」

 俺から目を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔をする飛鳥馬麗仁。
 らしくねぇな。
 女なんていうワードに、ここまでハッキリとした反応を見せるこいつは。
 それよりも───。
 こいつが喧嘩をふっかけて来ないのなら、俺はもうお前に用済みだ。
 俺は飛鳥馬から視線を外し、すぐ真後ろにある彩夏の家の2階の窓を見上げた。
 いつものことながら暗いな……。
 カーテンを全て閉めきったその2階建ての家は、どこか異様の雰囲気を放っている。
 ──寂しい。切ない。悲しい。
 そんな思いが、にじみ出ている気がした。
 だけど、それは俺の勘違いだろう。
 彩夏はいつだって笑顔で、暗い一面なんて何もない。
 いつだって穏やかで、優しく微笑みを浮かべる優しい子なんだから。

「……なんで去らないんだ?もう俺に用はないだろ」
「去るべきはお前の方だろう?なぜおれの街で、おれがお前の前から去らなきゃいけないんだ?道理に反していると思わねぇか?」

 両者は1歩も譲る気はない。
 ここでは自ら去った方の負け。
 ───去れば自分が相手よりも弱いということを、認めるということ。
 それだけは、俺のプライドが許さない。
 そして、プライド以前の問題に、俺は彩夏の家に用事があるのだ。

「俺はこの家に用があるから去ることはない」
「……、ふーん。偶然だね、おれもその家に“大事な子”を送り届けるっていう用事があるんだ」

 ・・・
 何を、言っている、んだ。こいつは。

「………」
「………」

 こいつは一体、何をほざいている?

「────…っ、は?」

 永遠とも思われた沈黙を破ったのは、俺の情けない素っ頓狂な声だった。
 この家に、“大事な子”を送り届ける用事があるだと……?
 目を限界にまで瞠って、飛鳥馬麗仁と目の前の彩夏の家を交互に見つめる。
 体全身がブルブルと小刻みに震えてくる。
 震える指先を、彩夏の家に指しながら、俺は精一杯の質問をした。

「…っ、お前の言う“大事な子”って、七瀬彩夏のこと、だったりしないよなァ……??」

 ヤバい、マズい。
 怒りが抑えられない。
 こいつに対する激情もそうだけど、彩夏に対する怒りの感情がどんどん膨らんでいってしまう。
 ……っ、まだ、飛鳥馬麗仁の答えも聞いていないんだぞっ。正気になれよ、俺!!
 人生最大の敵である飛鳥馬麗仁の言葉を鵜呑みにして、自分の彼女である彩夏を疑うなんて、俺のプライドが許さない。
 俺は彩夏が大切で、大好きで、1番愛おしくて、いつだって守ってあげたい存在で……。
 俺には彩夏だけで……、彩夏だけいれば、後は全部どうだって良くて。
 ……だけど。
 そう思うのと同時に、彩夏のことを疑ってしまう。
 だって、あまりにも事が重なりすぎだ。
 今日、俺に何も言わずに俺を置いて家に1人で帰った彩夏。
 何度電話をかけようと、心配のメッセージを送ろうと、1度も出てくれなかったし、ずっと未読のままだったスマホのライン画面。
 半分死にかけ、もう半分は抜け殻のような状態で彩夏からの着信を待っていたのに、俺の必死の願いは叶うことはなかった。

「───…ふふっ、そうだけど?」

 僅かな間をおいて、俺を煽るようにそう言ってきた。
 ……ああ゛、最悪だ。
 頭の中で何か大切なものがガラガラと崩れていく音を聞いた。
 目の前が真っ暗になる。

 “彩夏に裏切られた───”。

 真っ黒で、ドロドロとした感情が俺の心を覆い尽くす。

「…っ、お前ッ゙、どうして彩夏と……ッ!!」

 俺は沸々と湧き上がる怒りを抑えきれずに、飛鳥馬麗仁の首根っこを強く掴む。
 ……というか、こいつ相手に何も我慢することはないじゃないか。

「えー、なんで答えなきゃなんないの。プライベートにまで押し入るなんて、西ノ街の皇帝は礼儀も知らないのか」

 ……っ、本当に本当に、こいつは俺を煽るのが巧い!
 俺に首根っこを掴み上げられても尚、余裕そうな表情で俺を見下ろして微笑を湛える飛鳥馬麗仁が、今何を考えているのかサッパリ分からない。
 ……もしかして、こいつは俺と彩夏のカンケイを前から知っていたとか。
 俺の脳内に、とんでもなく恐ろしい仮説が浮かぶ。

「お前、もしかして───」

“俺と彩夏のカンケイを知った上で、わざと煽ってやがるのか?”

 そう言葉を続けようとしたが、俺は日和ひよった。
 もし飛鳥馬麗仁が俺と彩夏のカンケイを知らなかった場合、その質問をすることによって自ら秘密を明かしてしまうことになる。
 そうなったら、彩夏は飛鳥馬麗仁に人質として利用され、怖い目に遭ってしまうだろう。
 ……それだけは、絶対に避けたい。
 今まで何のために彩夏とのカンケイを周囲に隠してきたと思っているんだ。
 他でもない大切な彩夏を守るため、だろう?
 そんな存在に、どうして俺は憎しみを抱いていたのだ。
 愛する女性を、どうして疑うなんてことが出来たのだ。
 俺にとっては彩夏が全てで、彩夏なしでは生きられなくて、彩夏が俺から離れていくのなら、死んだ方がマシだって本気で思う。
 さすがに重すぎる彼氏だと思う。俺がこんなだから、彩夏を怖がらせてるっていうのも、ちゃんと自覚してる。
 怒りを抑え、地から足が離れるくらいに高く持ち上げていた飛鳥馬麗仁の首根っこを離して、俺はそいつに背を向けた。
 飛鳥馬麗仁がドサッと倒れる音が背後から聞こえたが無視をして、彩夏の家の扉の前まで行き、インターホンを押す。
 ……お願い、あやか。俺、もう疑ったりなんかしないから。だから、早く出てきてよ。
 後ろに飛鳥馬麗仁がいるというのに、こんなことしたら2人のカンケイがバレてしまうというのに、俺はがむしゃらだった。がむしゃらすぎた。
 ────それでも。
 彩夏がその家から笑顔で顔を出すことはなかった。
 どういう仕打ちなんだろうな。俺が悪かったのかな。

「伊吹くん……っ、!」

 この世で1番愛おしい子の声が、俺の背後から聞こえてくるなんて。……そんなの、誰も望んでなんかいねぇのに。
 振り向きたくない。現実を受け止めたくない。
 だって、振り向いたらもう、俺たちのカンケイは終わりなんでしょ……?
 そう思わせるには十分な、彩夏の悲痛に満ちた声が聞こえてくる。

「…っ、なに、彩夏」

 震える拳を強く握りしめて、唇が切れるくらいに強く噛んで、ぐっと目を瞑る。
 ……俺は、振り向くことが出来なかった。

「わたし……っ、わたしね…、伊吹くんに伝えなきゃいけないことがある、の……っ」
「そんなの、言わなくていい」

 ていうか何も言うな……。

「わたしと……っ、別れて欲しい、ですっ」

 言うなよ───、そんな悲しいこと。
 俺の目の前は、今度こそ本当に真っ暗になった。

「ははっ、言わなくていいって言ったのに」

 俺は乾いた笑い声を上げ、目に涙をにじませた。
 さっきまでは、彩夏が俺から離れようとしても絶対に離せないって本気で思ってたけど。
 ……現実は悲しいな。
 俺と本気で別れたがってるのが一直線に伝わってくる彩夏の涙声が鼓膜に届いて、俺は「絶対に離さない」なんて言う気力もなくなるほどに、傷ついているんだから。
 彩夏が背負うには、俺の愛は重すぎたのかな……。
 ……誰かを愛するなんて、両親にも誰からも愛されていない俺がするには、まだ早かったのかな。
 いや、違う。きっと、そうする資格さえなかったんだ。

「そっ、か……。それならもう───別れよう」

 大切なものを、大事にしていたものを手放すのはこんなにも苦しいのか。現実を受け入れるのは、こんなにも心が痛いのか。
 勇気を振り絞って振り返った先には、涙を必死に堪えて唇を強く噛む制服姿の彩夏がいた。
 それを見て、思ってしまう。
 ───やっぱり彩夏は、優しい子だな。
 きっと、今泣いていいのは自分じゃないから、なんて思って必死に我慢してるんだろう。
 本当に泣きたいのは俺の方だからって、大嫌いな元彼のために泣くのを堪えているんだろう。

「……っ、!…う、ん」

 驚いたように俺を見た後、彩夏は最後の声を振り絞るようにか細い掠れた声を出して、頷いた。

「あーあ、これでもうこの街にいる理由もなくなっちゃったな」

 明るく聞こえるように、俺はため息とともにそう大きな声で放った。
 今俺がするべきは、ただ1つだけ───…。

「……ぇ、?」
「俺ね、本当は西ノ街に早く帰りたくて仕方なかったの」
「……、?」

 よくもまあ、こんなウソがポンポンと出てくるものだ。
 彩夏は困惑した表情で俺を見つめている。
 飛鳥馬麗仁と繋がっていたということは、きっともう俺の正体だってバレているだろう。
 だから、俺は包み隠さずに話す。

「ここにいるとさぁ、俺を狙って襲ってくる連中は沢山いたんだよ。それを必死に交わしたり、長い時間かけて時々西ノ街に戻ったり……」
「……っ、う、うん」

 脈絡のない俺の言葉を必死に理解しようと聞いてくれる彩夏は、すごく彩夏らしくて、また愛おしい気持ちが込み上げてくる。

「───だからさ、彩夏」
「……」

 その名前を呼ぶ自分の声は、柔らかかった。

「俺を振ってくれて、ありがとう。これでようやく、東ノ街を去るきっかけが出来たよ」

 俺ってこんなに、心の広い男だったか?
 彩夏が俺を振ったことに罪悪感を抱かないように、ここまでウソを重ねて笑顔を浮かべられるような男だったのか?
 ───いや、違う。
 相手が彩夏だから、だ。
 彩夏だったから、俺は彩夏がなるべく苦しまない最後にしたかった。
 ……だって、さ。最後くらい、格好つけたいだろ。
 それくらいの我儘、許してよ。
 彩夏と飛鳥馬麗仁のいる方へゆっくりと歩を進めていく。

「伊吹、くん……っ」

 彩夏の横を通り過ぎる時、小さくて細い手が、俺の制服の袖を掴んだ。
 心臓がドクン…ッと大きく高鳴る。

「…っ、ごめんなさい……。わたし、どこまでも最低で……っ──「彩夏」

 君に言って欲しい言葉は、謝罪の言葉なんかじゃない。
 そんなふうに自分を責めないで欲しい。

「………彩夏は俺のこと、好きでいてくれた?」

 そっと彩夏の顔を見つめる。
 あの入学式の日に見た茶色の瞳は、今はうるうるとした涙で潤んでいる。
 だけど、曇ることを知らなくて、どこまでも透き通るように綺麗なのは、去年から少しも変わらない。

「…っ、うん!伊吹くんのこと、凄く好きだった。大好きだった」
「ははっ、そっか。……そう思ってくれてたんなら、俺はそれだけで報われるよ」

 なんせ、俺の一方的かつ強引なやり方で告白をしたんだしな……。
 それを断りきれずに頷いて、もしかしたら彩夏はこれまで付き合ってきた間も本当は俺のことなんか好きじゃないんじゃないかって不安になってたけど。
 ……良かったよ。少しの間だけでも、彩夏の気持ちが俺にあって。
 すると、彩夏がまた口を開いたから、俺は俯けていた顔を上げた。

「──それなのにこんなことになって…ごめ…っ、」
「あー、また謝ろうとしてる。謝罪は禁止」

 最後だから、彩夏に触れることを許してよ。
 そんな言い訳をしながら、俺は彩夏の唇に自分の人差し指を添えた。

「うん…っ、う、ん。分かった」
「良くできました」

 こんなにも悲しい状況なはずなのに、俺の心は凪いだ波のように穏やかだ。

「……それじゃあ彩夏、バイバイ」
「……っ、うん。ばいばい…!」

 どうしてそんなに泣きたそうな顔してんだよ。
 邪魔者が去れば、彩夏だって嬉しいだろ?
 自虐的な言葉を脳内で再生するけど、それによって俺はまたズキン…ッと心臓が痛くなった。
 自分の言葉に傷つくなんて、俺はまだまだ弱いな。

「千明、もう帰ろう。……色々と疲れた」

 彩夏たちから少し離れた所で待機していた千明に、俺はそう言った。
 千明は俺に何か言いたげだったが、今回ばかりは何も聞かずに口をつぐんでくれるらしい。

「承知いたしました。お迎えのお車を用意していますので、こちらに」

 飛鳥馬麗仁のベンツが停められているのとは反対方向に、俺を迎えに来てくれた仲間のベンツがあった。
 それを見て、堰き止めていた涙が溢れそうになったけど、まだ彩夏に見られている。だから我慢しないと。
 離れがたい想いをひた隠しにして、俺はベンツに乗り込む。
 それから千明がドンッとベンツのドアを閉める音が聞こえたのを最後に、外の景色は遮断された。
 車内からは、スモークガラスであっても外の様子は幾分窺える。だけど、俺はそれをすることはなかった。
 彩夏が他の男の隣に並んで立っているのを、どうしても手に入れたくなかったんだ。

「……天馬様はあやつに負けてなどいません。それは絶対に、揺るぎない事実ですから」

 俺の隣に座った千明は、悔しそうに眉をしかめてそう零した。

「……っふ、なんでお前が泣きそうになってんの」

「……な、泣いてなどいませんっ!何を仰るのですか!!」

 顔を真っ赤にして、俺をキッと睨みつける千明は、年相応の少年のように見える。
 そんな千明に、俺は元気づけられた。
 そして、ベンツがゆっくりと動き出し、彩夏の家を通り過ぎ、飛鳥馬麗仁のベンツが停められている横も通り過ぎ、走行を始めた。

「……なぁ千明。去年の春、俺と一緒に東ノ街に付いて来てくれてありがとな」
「…っえ、は?」
「何の理由も言わずに、突然『東ノ街に行く。いつ帰ってこれるかは分からない』って言った勝手な俺を信じて、付いて来てくれてありがとう」
「いや、まぁ……」

 ポリポリと後ろ髪を掻きながら、恥ずかしそうに声を小さくしてそう言う千明。
 俺が主ということも忘れて、いつもの完璧な“配下”はどこに行ったと思わせるくらいに敬語が抜けた千明。

「あらゆる危険から天馬様をお守りするのが、俺の仕事ですから」
「……ふーん。それだけ?」
「そ、それだけとは……」

 俺はわざと千明を困らせるようにいじけた声を出す。
 俺に付いて来ることを、単なる“仕事”だと言い切った千明に不満を抱く。
 そこはさ、もっと、なんていうか……。

「も、もう……っ。わざわざ言わせないでくださいよ。そうです、俺はただ天馬様が心配で、この私情のためだけに付いて来たんです……!!」

 俺が期待していた言葉がそっくりそのまま返ってきて、口元が緩む。皇帝ともあろう人間が、情けない。

「この照れ性が」

 千明の頭をコツンと軽く叩いた俺の方が、よっぽど照れ性だというのに。自分に向けるべき言葉を、千明に放つ。
 2人で少し笑い合った後、車の中に静寂が訪れる。
 どちらとも言葉を発すことはなく、照れの余韻が残っている気がした。
 そんな空気に慣れていない俺は、すぐに居たたまれなくなって目を瞑ろうとした。──けれど。

「1つだけ、今までずっと天馬様に聞きたかったことがあります」
「……ん?」
「天馬様はなぜあの日、東ノ街に行かれる決意をしたのですか」

 やけに緊張気味の千明の声に、俺はふっと笑みを零す。
 まあ、そのことに別段大した意味はないけど……。
 最後くらい格好が付くことでも言っておこう。

「───彩夏に会いに行くため、だったのかもな」

 本当は、飛鳥馬麗仁を倒すためにこの街へと潜入をしたんだけど……。それでも、あの入学式の日、俺の殺意なんてちっぽけなものに思えるくらい、彩夏に惹かれたんだよ。
 彩夏と幸せで静かな日々を送ってみたいって、そう思ったんだ。
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