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もう1人の皇帝
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暗い夜の闇にすっかり呑み込まれてしまった広い空を、ベンツの窓から見るともなく眺める。
皇神居で飛鳥馬様の手を温めたあの後、部屋に入ることなく飛鳥馬様に連れられて、ベンツに乗り込んだ。
「あやちゃん、今日は本当にありがとう。いい気晴らしになった」
わたしの隣で静かに凪いだ声音でそう囁く飛鳥馬様。
お礼を言われるようなこと、何もしてないのに……。
それにわたし、随分と失礼なことばかりしてしまっていたような……。
「い、いえ……っそんな、」
「あやちゃん。おれがいい気晴らしになって言ってんだから、それでよくない?何を反抗する必要があるの」
「べ、別に反抗しようとしていたわけじゃ……!」
そこまで言って、顔をバッと正面に背ける。
飛鳥馬様の漆黒の瞳にこれ以上見つめられて耐えられる自信がなかった。
「あーやーちゃん。ねぇってば」
「……は、はい。何でしょうっ」
「なんで目ぇ逸らすの」
わたしの反応を愉しむような、そんな声。
口調が随分と崩れた飛鳥馬様は、不躾かもしれないけど、ちょっとだけかわいい。
そんなことを思い気が緩んだおかげか、めちゃくちゃ緊張して強く握りしめていた拳の力が、ふっと抜けていく。
「……もしかして、まだおれのことが怖い、とか?」
なぜか途切れ途切れに、少し抑揚のない声でそう呟くのが隣から聞こえ、わたしは反射的に顔をそちらに向けて、口を開いていた。
「そ、それは違います……っ。違うんです、ただ…」
「ただ?」
わたしの続きの言葉を、優しげな表情を浮かべて静かに待つ飛鳥馬様。
肘掛けに頬杖を付いて、ゆったりとしたお姿でこちらを見据えるその姿は、誰が何と言おうと美しい。
「あまりにも、飛鳥馬様が美しすぎて、お綺麗で……」
「ふふっ、なにそれ。あやちゃん、おもしろいこと言うね」
「こっ、これは冗談などではなく本気でそう思っていて……!」
わたしの言葉を真剣には受け取ってくれないのがひどくもどかしい。
飛鳥馬様には、かっこいいという言葉より綺麗とか、美しいとか、そっちの言葉が似合うのに……。
本人は、それに気づいていないのだろうか。
……もしそうなら、それはかなり重症だけれど。
「───かっこいいって言ってよ」
「……っへ?」
低いトーンで落とされたその言葉。
わたしの聞き間違いかと思って、飛鳥馬様を2度見してしまう。
だけどそこには、静かに微笑みながら挑発的な瞳でこちらを見つめるお姿があるばかり。
自分に自信がある人って、なんて美しいんだ。
まっすぐに前を向いているだけで、胸を張って生きる姿だけで、その人がこんなにも眩しく映る。きっとそれは、飛鳥馬様だけでなく全人類に共通していること。
「あ、飛鳥馬様は美しい、とオモイマス……」
「なんでカタコト?てか、おれが言ってほしいの、その言葉じゃねぇんだけど」
ううっ……、口調が崩れた飛鳥馬様の威力、凄まじすぎる……っ!
俯いていたわたしの頬に、ひんやりとした冷気がかかる。
それが飛鳥馬様の手だと気づいた時には、わたしはもう漆黒の闇に吸い込まれそうになっていた。
飛鳥馬様の大きな手が、わたしの頬を撫で、顎下に持っていかれ、ゆっくりと優しく顔を上を向かせられた。
「おれ、あやちゃんにはかっこいいって言われたいのになあ」
「……っ、」
「わたしじゃなくても、飛鳥馬様には沢山そう言ってもらえる女性がいるのではないのですか……」
どうして、わたしなの。どうして、わたしに限定するの。
わたしがその言葉を言わなくても、飛鳥馬様なら「かっこいい」と言ってくれる女性の方々が沢山いるだろうに。
「……もう、あやちゃんのばか」
「…えぇっ。ば、ばか……??」
唇をキュッと引き結んで、拗ねたように眉をしかめる飛鳥馬様の、不機嫌な声。
「他の女なんて……、いない。おれには、あやちゃんだけ」
だから、“だけ”って何なんですか……!!
もしや飛鳥馬様、誰か1人を限定しないと気がすまない性分なのですね!?
1人で焦り、テンパる高校2年、16歳、七瀬彩夏。
ちなみにまだ誕生日(9月24日)は来ていない。
「そんな……、どうして、なんで。…なんで、わたし……?」
敬語を使わないと失敬に当たるだとか、飛鳥馬様の反応が怖いだとか、そういうことは一切考えられず、語彙力が崩壊する。
「…自分で考えれば。そんなの」
倒置法……。
飛鳥馬様がわたしからフイッとお顔を逸らしたのは、これが初めて。
お人形のように綺麗で浮世離れしたお顔から、呑み込まれそうになるくらい暗く深い漆黒の瞳から、耐えきれなくなって目を逸らすのはいつもわたしだったから。
あれ…、ちょっと暗くて見えづらいけど、飛鳥馬様の頬っぺたちょって赤くない……?
ほんのりと微かに桜色に染まっている、飛鳥馬様の陶器のように綺麗な色白の頬。
「あ、飛鳥馬様……。体調、優れないのですか」
「……」
む、無 反 応……。
心配になって、顔色を窺おうと試みるも。
さっき以上に顔を逸らされて、今度は体ごと背けられる。
「む、無視はよくないと思いますよ~~…?」
勇気を出して、言ってみる。
普段わたしの口からは決して出ないようなことを。
それでも
「…………」
・・・
沈黙がさっきよりも長くなったような……?
仁科さんが運転するベンツの走行音だけが、車内に響き渡る。
体ごと背けられてしまったものの、飛鳥馬様の両耳は後ろからでも真っ赤っ赤に染まっているのがよく見える。
「……あすま──」
「…一旦黙ろうか」
ふいに、飛鳥馬様が振り向き、その漆黒の瞳に捕らわれたと思った瞬間。
唇に温かな温もりが触れた。
キスをされている───そう気づいたのは、冷静さを取り戻した時。わたしの腰に回された腕が、わたしを離さないとでも言うように強く引き寄せる。
何度も何度も違う角度から唇を落とされる。飛鳥馬様のことしか考えられなくて、必死にキスに応えた。
「……彼氏がいるのに、イケナイ子だね。おれに抱きしめられてるのに、突き放さないなんて」
そっと唇を離したかと思うと、そう不敵に微笑む飛鳥馬様。
「……っ、~~!」
飛鳥馬様はいじわるだ。私がどんなに足掻こうとしたところで男の人の力には到底敵わないのに。
「…それとも、おれにこうされるの、いやじゃない?」
わたしの肩に顎を乗せて、甘えたように頬をすり…、と掠る飛鳥馬様。
低い低音ボイスが、耳のすぐ近くで響いて甘く痺れる。
「………っ、ぇぁ」
口元から漏れる、聞いたことのない甘すぎる声。
自分のものとは信じ難くて、目に涙が浮かぶ。
恥ずかしい、恥ずかしすぎるよ~~!
一向に反応のないわたしを不思議に思ったのか、飛鳥馬様が「あやちゃん……?」と不安そうな声音で顔を上げた。
その時───
「え……」
「…~~いっ、今は見ちゃだめ……っ!」
驚いたような飛鳥馬様の声と、敬語も語彙力も失ったわたしの慌てたようなか細い声。
顔中に血液がぶわぁっと昇り、飛鳥馬様のお耳に負けないくらい真っ赤っ赤になったそれを、見られてしまった。
こんなにも赤く染まった顔を見られてはいけない相手に、見せてしまった。
本当は、飛鳥馬様に抱きしめられたその瞬間から血液が逆流すように沸騰して、真っ赤に染め上げられていた自分の顔。
「…っ、それって、ちょっとはおれのこと意識してくれてるって受け取ってもいいの?」
うわずった声。いつもより幾分か高いそれは、飛鳥馬様らしくない余裕のない声。
だけどそこには、微かな期待も確かに見え隠れしていて……。
「は、い……っ」
そう答える以外に、他の答えなんて見つからなかった。
ああ、ああ……、ごめんなさいっ、伊吹くん。
こんなにも最低なわたしを、どうか許して。
あなたのいない所で、他の男の人の腕の中にいることに“幸せ”を感じてしまったわたしを、赦して。
……こんな感情を抱くからには、わたしはやらなければならない。
しっかりと心を決めて、固く揺るがない決意を持って、言わなければいけない。
「───彼氏に、別れを告げます」
ひどく緊張した、硬い声だった。
わたしと飛鳥馬様の息遣いの他には何も聞こえない車の中で、そう言ったわたしの声は震えていたけれど、そこには確かな決意と、静かな絶望があった。
ごめんね──…、伊吹くん。わたしを心から愛して、慈しんで、ずっと大切にしてきてくれたのに。
どうして、わたしはこんななんだろう。
今目の前に見えた幸せだって、いつか幻のように消え去っていってしまうのに。
相手が飛鳥馬様だろうと誰であろうと、幸せを感じられなくなるのは時間の問題なのに。
「……っ、本当に?」
ほら、今だってすぐに分かる。
やけに嬉しそうな上ずった声が、わたしの鼓膜に虚しく響いた。
───『彩夏は幸せになってはいけない。お前はね、他人を不幸にばかりする疫病神なんだから』
血も涙もない冷酷なその言葉が脳裏をよぎる。
───『私だって、辛いのよ。あんたを産んでしまったせいで、生活が苦しくなって……!!お父さんの看病でただでさえ気が病んでいるのに、あなたを養うお金も稼がなくちゃならない。……どうして、どうして。私ばかりこんなに頑張らないといけないのよ!?どうして私だけが苦しまないといけないのよ!?あなたなんて───っ』
だめだよ彩夏。この先は決して思い出しちゃダメ。
その言葉だけは絶対に言われたくなかった。1番言ってほしくなかった人物に、容赦なく傷つけられたんだから。
傷つくのは、一度で十分なの……。
もう2度と、あんな思いはしたくないの。
「……はい。もう、逃げません」
「……、そっか」
きっと、何に対して逃げないのか、飛鳥馬様は賢いから言葉の裏を読み取ってすぐに理解したのだろう。
霜蘭花から随分と離れ、車はわたしの家に向かって走り続けている。
何の音も発さない静かな走行音がわたしの心を落ち着けた。
妖しげに煌々とした光を発する満月が、スモークガラス越しに車内に洩れ出ている。
その光が飛鳥馬様の頬を照らし、何とも言えない幻想的な雰囲気が漂う。
「月が綺麗だね」
しばらく見惚れたように飛鳥馬様の横顔を眺めていたから、突然こっちを向かれた時は驚いた。
ふんわりと穏やかに微笑む飛鳥馬様の表情からは、今このお方がどんな感情を抱いているのかは分からない。
“月が綺麗ですね”
それは、夏目漱石が唱えた「月が綺麗ですね」を「I love you」と訳した表現として受け取らないといけないのかな……?
わたしは、そんな風に受け取るのは心底嫌なのだけど。
こんなにも見目麗しくて優しい人を、わたしのせいで不幸になんてしたくないんだもん。
わたしみたいな疫病神は、もう誰とも結ばれることなく生きていくほうが精神的にずっと楽。
そんな気持ちで飛鳥馬様の瞳を見つめるけれど、そこには別に大した意味はなさそうにも思えた。
「…はい。綺麗です」
だから、わたしはその言葉を笑顔で返した。
飛鳥馬様がこう何度もわたしの前に自ら現れる理由が、わたしに対して何か特別な情を抱いているという可能性は薄そうに思えたから。
だから、視線を外したその先で、わたしの言葉に飛鳥馬様が恍惚と頬を真紅に染めているとは誰も思わないでしょ……?
“月が綺麗ですね”に“はい、綺麗です”と答えた場合、夏目漱石によるとそれは相手の告白を受け入れたことになる。
わたしは後に、この時もっと真剣に物事を考えてから、飛鳥馬様に対する返事を返せばよかったと深く後悔することになる。
♦
自分の家に向かうに連れ、わたしの心臓がバクバクと鼓動する音が大きくなっていくようだった。
スマホは家においてきたまま。電源も切っていない。
そして、只今の時刻は車内に取り付けられている電子版から見て23時を過ぎている。
家を出てから、もう2時間以上が経過しているなんて……。
わたしの顔は真っ青を通り越して真っ白に染まっていた。
わたしがこんなにも狼狽えている理由。
──それは、伊吹くんからの電話にあった。
伊吹くんは、毎日必ず、夜に電話をかけてくる。
伊吹くんに3コール以内に電話に出てと言われたあの日から、わたしは忠実にそれを守ってすぐに電話に出られていた。
そんなわたしが、今日は何度電話をかけても出ない。
伊吹くんは心配を通り越して怒り心頭だろう。
……ほんと、どうしようっ。
わたしが恐るべき存在は、今や飛鳥馬様だけでなく伊吹くんだって例外とは言えないのに。
そんなことも忘れて、飛鳥馬様との約束に頭がいっぱいになって、スマホを家に置き忘れてくるなんて……。
わたしのばかっ、アホ……!!
「あ、あすま様……っ、もうここで降ろしてもらって、大丈夫なので…っ!」
伊吹くんがわたしの家の前にいたらマズい。
他の男の人と出掛けていたと知られたら、伊吹くんが何をしてくるか分からない。
伊吹くんも東ノ街の人間なのだから、飛鳥馬様の名前こそは知っていても、そのお顔までは分からないだろう。
だから、この街の皇帝だということを知らずに飛鳥馬様に対して失礼な言動をとってしまったりしたら、恐らく死刑に当たる。
いくらわたしがもう伊吹くんのことを好きじゃなくなってしまったからといって、身近な人がそんな残酷な目に遭うのは耐えきれない。
「……?どうして?家の前まで送ってくよ。それに、またおれがあやちゃんを抱いて運んであげないとだしね」
意地悪く妖艶に微笑んだそのお姿に、一体どのくらいの女性が恋に堕ちていくことだろう。
それでも、わたしにとっては白い顔をさらに真っ白くさせるだけのことだった。
「そ、それはそうなのですが……。飛鳥馬様のお手を煩わせてばかりで、迷惑じゃないかと思って……」
何とか今ここで降ろしてもらうための口実を必死に考える。
「あやちゃんに対して迷惑だと思うことなんて、今までもこれからも一度たりともないよ」
「(うぐ、……っ)」
声にならない呻き声が吐き出される。
これはわたしの技量が足りないんじゃなくて、挑んだ相手が悪かったのだ。
決して、わたしの話術が優れていないわけではない。
「あ、あはは…」
今の状況に心が折れないようにそんな言い訳をしながら、愛想笑いを浮かべることしか出来ない。
飛鳥馬様の言葉の端々に感じられるわたしへの特別扱いには、気づかないフリをした。
それから3分が経過した後。
その間もわたしは何度も「今ここで降ろして欲しい」と飛鳥馬様に懇願したが、飛鳥馬様がそれに動じることはなかった。
だから、問答無用で絶望の淵に立たされているわたしは、もう何もかもを諦めたように死人みたいに精気のない顔をしていた。
この人、明日死ぬのかな。
わたしの今の表情を見て、誰もがそんな失礼なことを思うだろう。
わたしの家の目の前に佇む人影は、きっと幻影なんかじゃないんだろう。
視力が昔から良いこのわたしが、見間違えるはずない。
ベンツの眩いライトが、目の前の人物を照らす。
相手はまだわたしの存在に気づいていない。
この車の窓がスモークガラスで、運転席と後部座席の間が分厚く上質な布で仕切られていて、良かったと思ったのは今が初めて。
「飛鳥馬様、只今彩夏様のご自宅に着きました。……しかし、何者かが彩夏様のご自宅の前に」
私が確かめて参ります、という言葉を残して、仁科さんはベンツのドアを開け、迷いない足取りで伊吹くんに近づいていく。
そのスーツの後ろ姿を、不安な面持ちで窓から見つめる。
だけど、仁科さんはすぐに“慌てた様子”でベンツの止めてあるわたしたちの所へ戻って来た。
どうした、のかな……?
不安に煽られながら、窓の外を覗き込むと、後部座席の飛鳥馬様が座っている方の窓がコンコンと叩かれた。
仁科さんのただならぬ雰囲気に、飛鳥馬様は目を丸くして車の窓を開けるためのスイッチを押す。
窓の向こうの景色がクリアに見えて、視界が開ける。
ハァハァと肩で息をする仁科さんに、わたしと飛鳥馬様どちらとも目を見開いた。
「何があった、真人」
冷静な飛鳥馬様の声が降り注ぐ。
こんな時でも皇帝は狼狽えないのか。
さすがと言わざるを得ない。
「…ハァッ、ハァッ、飛鳥馬、様……っ!!あの者が、あのお方が、───西ノ街の皇帝、天馬伊吹がおりました!!」
飛鳥馬様の瞳が、剣呑な色に染まる。
仁科さんのその言葉に、わたしは気を失いそうになった。
……え、なんで、なんで。
伊吹くんが、西ノ街の皇帝……?
うそ、嘘だよ。誰か嘘だと言ってよ……っ!嘘だよね!?
「……それは、本当か?どうしてあいつがあやちゃんの家の前に……、」
その声は、並々ならぬ動揺を隠しきれていなかった。
このお方が、平静じゃいられなくなる相手だ。
伊吹くんが西ノ街の皇帝だということに、間違いはない───。
わたしはどうするべき……?
絶体絶命のこの時に、鈍くなったわたしの頭では何も考えられない。
生理的に流れる涙が頬を伝い、制服の上に染みを作っていく。
そんなわたしを、飛鳥馬様が呆然とした表情で振り返った。
「……っ、!あやちゃん、どうして泣いてるの」
「……ぁ、えっと、これは…」
どう言い訳したものか。
とりあえず留まることを知らない涙を両手で拭い、涙に濡れた瞳で飛鳥馬様を見据える。
飛鳥馬様はわたしに構っている暇はないだろうに、西ノ街の皇帝のことは置いといてわたしを第一に優先してくれる。
漆黒の瞳に垣間見える、わたしを心配する色。
このお方のことを一度じゃなく何度も冷酷だと思ってきたことが恥ずかしくなるくらい、その瞳は慈愛に満ちていた。
「わ、わたしのことは放っておいてください……」
飛鳥馬様からの心配を無下にするなんて失礼だとは思うけれど、今だけはどうか放っておいて欲しい。
今のわたしに、受け答えなんて出来ないから。
「どうしてそんなこと言うの。おれにとってはさいゆーせん事項なんだけど。あやちゃんの涙」
拗ねた口調で、膝に腕を置いて頬杖を付き、首を傾げてこちらを見据える飛鳥馬様の冷たい手が、ゆっくりとわたしの涙を拭う。
ひんやりとした手の感触が腫れた瞼に気持ちいい。
「……ん」
飛鳥馬様の手にまだ触れていたくて、わたしは自分の手でそれを掴み、瞼に押し付けた。
「もー、何してんの。かわいいんだけど」
明るい声が、飛鳥馬様がご機嫌なことを教えてくれる。
わたしは悪い女だ。
本当に、どこまでも。
わたしは今から、飛鳥馬様が絶対に傷つきそうなことを口にするのだから。
ドクドクと血管を流れる血の音が妙にうるさい。
恐る恐る飛鳥馬様のお顔を見上げて、意を決して口を開いた。
裏切り者だと罵られるかもしれない。
もうその優しい瞳を向けてくれないかもしれない。
わたしたちの名前をつけられない曖昧なカンケイは、ここで終息を迎える。
それでも、いい。それが1番、都合がいい。
「───西ノ街、10代目霜華派皇帝、天馬伊吹は、わたしの“彼氏”です」
だからわたしは、伊吹くんが西ノ街の皇帝であったということを、あたかも最初から知っていたフリをする。
どうか、今だけはわたしのウソに気づかないで───。
皇神居で飛鳥馬様の手を温めたあの後、部屋に入ることなく飛鳥馬様に連れられて、ベンツに乗り込んだ。
「あやちゃん、今日は本当にありがとう。いい気晴らしになった」
わたしの隣で静かに凪いだ声音でそう囁く飛鳥馬様。
お礼を言われるようなこと、何もしてないのに……。
それにわたし、随分と失礼なことばかりしてしまっていたような……。
「い、いえ……っそんな、」
「あやちゃん。おれがいい気晴らしになって言ってんだから、それでよくない?何を反抗する必要があるの」
「べ、別に反抗しようとしていたわけじゃ……!」
そこまで言って、顔をバッと正面に背ける。
飛鳥馬様の漆黒の瞳にこれ以上見つめられて耐えられる自信がなかった。
「あーやーちゃん。ねぇってば」
「……は、はい。何でしょうっ」
「なんで目ぇ逸らすの」
わたしの反応を愉しむような、そんな声。
口調が随分と崩れた飛鳥馬様は、不躾かもしれないけど、ちょっとだけかわいい。
そんなことを思い気が緩んだおかげか、めちゃくちゃ緊張して強く握りしめていた拳の力が、ふっと抜けていく。
「……もしかして、まだおれのことが怖い、とか?」
なぜか途切れ途切れに、少し抑揚のない声でそう呟くのが隣から聞こえ、わたしは反射的に顔をそちらに向けて、口を開いていた。
「そ、それは違います……っ。違うんです、ただ…」
「ただ?」
わたしの続きの言葉を、優しげな表情を浮かべて静かに待つ飛鳥馬様。
肘掛けに頬杖を付いて、ゆったりとしたお姿でこちらを見据えるその姿は、誰が何と言おうと美しい。
「あまりにも、飛鳥馬様が美しすぎて、お綺麗で……」
「ふふっ、なにそれ。あやちゃん、おもしろいこと言うね」
「こっ、これは冗談などではなく本気でそう思っていて……!」
わたしの言葉を真剣には受け取ってくれないのがひどくもどかしい。
飛鳥馬様には、かっこいいという言葉より綺麗とか、美しいとか、そっちの言葉が似合うのに……。
本人は、それに気づいていないのだろうか。
……もしそうなら、それはかなり重症だけれど。
「───かっこいいって言ってよ」
「……っへ?」
低いトーンで落とされたその言葉。
わたしの聞き間違いかと思って、飛鳥馬様を2度見してしまう。
だけどそこには、静かに微笑みながら挑発的な瞳でこちらを見つめるお姿があるばかり。
自分に自信がある人って、なんて美しいんだ。
まっすぐに前を向いているだけで、胸を張って生きる姿だけで、その人がこんなにも眩しく映る。きっとそれは、飛鳥馬様だけでなく全人類に共通していること。
「あ、飛鳥馬様は美しい、とオモイマス……」
「なんでカタコト?てか、おれが言ってほしいの、その言葉じゃねぇんだけど」
ううっ……、口調が崩れた飛鳥馬様の威力、凄まじすぎる……っ!
俯いていたわたしの頬に、ひんやりとした冷気がかかる。
それが飛鳥馬様の手だと気づいた時には、わたしはもう漆黒の闇に吸い込まれそうになっていた。
飛鳥馬様の大きな手が、わたしの頬を撫で、顎下に持っていかれ、ゆっくりと優しく顔を上を向かせられた。
「おれ、あやちゃんにはかっこいいって言われたいのになあ」
「……っ、」
「わたしじゃなくても、飛鳥馬様には沢山そう言ってもらえる女性がいるのではないのですか……」
どうして、わたしなの。どうして、わたしに限定するの。
わたしがその言葉を言わなくても、飛鳥馬様なら「かっこいい」と言ってくれる女性の方々が沢山いるだろうに。
「……もう、あやちゃんのばか」
「…えぇっ。ば、ばか……??」
唇をキュッと引き結んで、拗ねたように眉をしかめる飛鳥馬様の、不機嫌な声。
「他の女なんて……、いない。おれには、あやちゃんだけ」
だから、“だけ”って何なんですか……!!
もしや飛鳥馬様、誰か1人を限定しないと気がすまない性分なのですね!?
1人で焦り、テンパる高校2年、16歳、七瀬彩夏。
ちなみにまだ誕生日(9月24日)は来ていない。
「そんな……、どうして、なんで。…なんで、わたし……?」
敬語を使わないと失敬に当たるだとか、飛鳥馬様の反応が怖いだとか、そういうことは一切考えられず、語彙力が崩壊する。
「…自分で考えれば。そんなの」
倒置法……。
飛鳥馬様がわたしからフイッとお顔を逸らしたのは、これが初めて。
お人形のように綺麗で浮世離れしたお顔から、呑み込まれそうになるくらい暗く深い漆黒の瞳から、耐えきれなくなって目を逸らすのはいつもわたしだったから。
あれ…、ちょっと暗くて見えづらいけど、飛鳥馬様の頬っぺたちょって赤くない……?
ほんのりと微かに桜色に染まっている、飛鳥馬様の陶器のように綺麗な色白の頬。
「あ、飛鳥馬様……。体調、優れないのですか」
「……」
む、無 反 応……。
心配になって、顔色を窺おうと試みるも。
さっき以上に顔を逸らされて、今度は体ごと背けられる。
「む、無視はよくないと思いますよ~~…?」
勇気を出して、言ってみる。
普段わたしの口からは決して出ないようなことを。
それでも
「…………」
・・・
沈黙がさっきよりも長くなったような……?
仁科さんが運転するベンツの走行音だけが、車内に響き渡る。
体ごと背けられてしまったものの、飛鳥馬様の両耳は後ろからでも真っ赤っ赤に染まっているのがよく見える。
「……あすま──」
「…一旦黙ろうか」
ふいに、飛鳥馬様が振り向き、その漆黒の瞳に捕らわれたと思った瞬間。
唇に温かな温もりが触れた。
キスをされている───そう気づいたのは、冷静さを取り戻した時。わたしの腰に回された腕が、わたしを離さないとでも言うように強く引き寄せる。
何度も何度も違う角度から唇を落とされる。飛鳥馬様のことしか考えられなくて、必死にキスに応えた。
「……彼氏がいるのに、イケナイ子だね。おれに抱きしめられてるのに、突き放さないなんて」
そっと唇を離したかと思うと、そう不敵に微笑む飛鳥馬様。
「……っ、~~!」
飛鳥馬様はいじわるだ。私がどんなに足掻こうとしたところで男の人の力には到底敵わないのに。
「…それとも、おれにこうされるの、いやじゃない?」
わたしの肩に顎を乗せて、甘えたように頬をすり…、と掠る飛鳥馬様。
低い低音ボイスが、耳のすぐ近くで響いて甘く痺れる。
「………っ、ぇぁ」
口元から漏れる、聞いたことのない甘すぎる声。
自分のものとは信じ難くて、目に涙が浮かぶ。
恥ずかしい、恥ずかしすぎるよ~~!
一向に反応のないわたしを不思議に思ったのか、飛鳥馬様が「あやちゃん……?」と不安そうな声音で顔を上げた。
その時───
「え……」
「…~~いっ、今は見ちゃだめ……っ!」
驚いたような飛鳥馬様の声と、敬語も語彙力も失ったわたしの慌てたようなか細い声。
顔中に血液がぶわぁっと昇り、飛鳥馬様のお耳に負けないくらい真っ赤っ赤になったそれを、見られてしまった。
こんなにも赤く染まった顔を見られてはいけない相手に、見せてしまった。
本当は、飛鳥馬様に抱きしめられたその瞬間から血液が逆流すように沸騰して、真っ赤に染め上げられていた自分の顔。
「…っ、それって、ちょっとはおれのこと意識してくれてるって受け取ってもいいの?」
うわずった声。いつもより幾分か高いそれは、飛鳥馬様らしくない余裕のない声。
だけどそこには、微かな期待も確かに見え隠れしていて……。
「は、い……っ」
そう答える以外に、他の答えなんて見つからなかった。
ああ、ああ……、ごめんなさいっ、伊吹くん。
こんなにも最低なわたしを、どうか許して。
あなたのいない所で、他の男の人の腕の中にいることに“幸せ”を感じてしまったわたしを、赦して。
……こんな感情を抱くからには、わたしはやらなければならない。
しっかりと心を決めて、固く揺るがない決意を持って、言わなければいけない。
「───彼氏に、別れを告げます」
ひどく緊張した、硬い声だった。
わたしと飛鳥馬様の息遣いの他には何も聞こえない車の中で、そう言ったわたしの声は震えていたけれど、そこには確かな決意と、静かな絶望があった。
ごめんね──…、伊吹くん。わたしを心から愛して、慈しんで、ずっと大切にしてきてくれたのに。
どうして、わたしはこんななんだろう。
今目の前に見えた幸せだって、いつか幻のように消え去っていってしまうのに。
相手が飛鳥馬様だろうと誰であろうと、幸せを感じられなくなるのは時間の問題なのに。
「……っ、本当に?」
ほら、今だってすぐに分かる。
やけに嬉しそうな上ずった声が、わたしの鼓膜に虚しく響いた。
───『彩夏は幸せになってはいけない。お前はね、他人を不幸にばかりする疫病神なんだから』
血も涙もない冷酷なその言葉が脳裏をよぎる。
───『私だって、辛いのよ。あんたを産んでしまったせいで、生活が苦しくなって……!!お父さんの看病でただでさえ気が病んでいるのに、あなたを養うお金も稼がなくちゃならない。……どうして、どうして。私ばかりこんなに頑張らないといけないのよ!?どうして私だけが苦しまないといけないのよ!?あなたなんて───っ』
だめだよ彩夏。この先は決して思い出しちゃダメ。
その言葉だけは絶対に言われたくなかった。1番言ってほしくなかった人物に、容赦なく傷つけられたんだから。
傷つくのは、一度で十分なの……。
もう2度と、あんな思いはしたくないの。
「……はい。もう、逃げません」
「……、そっか」
きっと、何に対して逃げないのか、飛鳥馬様は賢いから言葉の裏を読み取ってすぐに理解したのだろう。
霜蘭花から随分と離れ、車はわたしの家に向かって走り続けている。
何の音も発さない静かな走行音がわたしの心を落ち着けた。
妖しげに煌々とした光を発する満月が、スモークガラス越しに車内に洩れ出ている。
その光が飛鳥馬様の頬を照らし、何とも言えない幻想的な雰囲気が漂う。
「月が綺麗だね」
しばらく見惚れたように飛鳥馬様の横顔を眺めていたから、突然こっちを向かれた時は驚いた。
ふんわりと穏やかに微笑む飛鳥馬様の表情からは、今このお方がどんな感情を抱いているのかは分からない。
“月が綺麗ですね”
それは、夏目漱石が唱えた「月が綺麗ですね」を「I love you」と訳した表現として受け取らないといけないのかな……?
わたしは、そんな風に受け取るのは心底嫌なのだけど。
こんなにも見目麗しくて優しい人を、わたしのせいで不幸になんてしたくないんだもん。
わたしみたいな疫病神は、もう誰とも結ばれることなく生きていくほうが精神的にずっと楽。
そんな気持ちで飛鳥馬様の瞳を見つめるけれど、そこには別に大した意味はなさそうにも思えた。
「…はい。綺麗です」
だから、わたしはその言葉を笑顔で返した。
飛鳥馬様がこう何度もわたしの前に自ら現れる理由が、わたしに対して何か特別な情を抱いているという可能性は薄そうに思えたから。
だから、視線を外したその先で、わたしの言葉に飛鳥馬様が恍惚と頬を真紅に染めているとは誰も思わないでしょ……?
“月が綺麗ですね”に“はい、綺麗です”と答えた場合、夏目漱石によるとそれは相手の告白を受け入れたことになる。
わたしは後に、この時もっと真剣に物事を考えてから、飛鳥馬様に対する返事を返せばよかったと深く後悔することになる。
♦
自分の家に向かうに連れ、わたしの心臓がバクバクと鼓動する音が大きくなっていくようだった。
スマホは家においてきたまま。電源も切っていない。
そして、只今の時刻は車内に取り付けられている電子版から見て23時を過ぎている。
家を出てから、もう2時間以上が経過しているなんて……。
わたしの顔は真っ青を通り越して真っ白に染まっていた。
わたしがこんなにも狼狽えている理由。
──それは、伊吹くんからの電話にあった。
伊吹くんは、毎日必ず、夜に電話をかけてくる。
伊吹くんに3コール以内に電話に出てと言われたあの日から、わたしは忠実にそれを守ってすぐに電話に出られていた。
そんなわたしが、今日は何度電話をかけても出ない。
伊吹くんは心配を通り越して怒り心頭だろう。
……ほんと、どうしようっ。
わたしが恐るべき存在は、今や飛鳥馬様だけでなく伊吹くんだって例外とは言えないのに。
そんなことも忘れて、飛鳥馬様との約束に頭がいっぱいになって、スマホを家に置き忘れてくるなんて……。
わたしのばかっ、アホ……!!
「あ、あすま様……っ、もうここで降ろしてもらって、大丈夫なので…っ!」
伊吹くんがわたしの家の前にいたらマズい。
他の男の人と出掛けていたと知られたら、伊吹くんが何をしてくるか分からない。
伊吹くんも東ノ街の人間なのだから、飛鳥馬様の名前こそは知っていても、そのお顔までは分からないだろう。
だから、この街の皇帝だということを知らずに飛鳥馬様に対して失礼な言動をとってしまったりしたら、恐らく死刑に当たる。
いくらわたしがもう伊吹くんのことを好きじゃなくなってしまったからといって、身近な人がそんな残酷な目に遭うのは耐えきれない。
「……?どうして?家の前まで送ってくよ。それに、またおれがあやちゃんを抱いて運んであげないとだしね」
意地悪く妖艶に微笑んだそのお姿に、一体どのくらいの女性が恋に堕ちていくことだろう。
それでも、わたしにとっては白い顔をさらに真っ白くさせるだけのことだった。
「そ、それはそうなのですが……。飛鳥馬様のお手を煩わせてばかりで、迷惑じゃないかと思って……」
何とか今ここで降ろしてもらうための口実を必死に考える。
「あやちゃんに対して迷惑だと思うことなんて、今までもこれからも一度たりともないよ」
「(うぐ、……っ)」
声にならない呻き声が吐き出される。
これはわたしの技量が足りないんじゃなくて、挑んだ相手が悪かったのだ。
決して、わたしの話術が優れていないわけではない。
「あ、あはは…」
今の状況に心が折れないようにそんな言い訳をしながら、愛想笑いを浮かべることしか出来ない。
飛鳥馬様の言葉の端々に感じられるわたしへの特別扱いには、気づかないフリをした。
それから3分が経過した後。
その間もわたしは何度も「今ここで降ろして欲しい」と飛鳥馬様に懇願したが、飛鳥馬様がそれに動じることはなかった。
だから、問答無用で絶望の淵に立たされているわたしは、もう何もかもを諦めたように死人みたいに精気のない顔をしていた。
この人、明日死ぬのかな。
わたしの今の表情を見て、誰もがそんな失礼なことを思うだろう。
わたしの家の目の前に佇む人影は、きっと幻影なんかじゃないんだろう。
視力が昔から良いこのわたしが、見間違えるはずない。
ベンツの眩いライトが、目の前の人物を照らす。
相手はまだわたしの存在に気づいていない。
この車の窓がスモークガラスで、運転席と後部座席の間が分厚く上質な布で仕切られていて、良かったと思ったのは今が初めて。
「飛鳥馬様、只今彩夏様のご自宅に着きました。……しかし、何者かが彩夏様のご自宅の前に」
私が確かめて参ります、という言葉を残して、仁科さんはベンツのドアを開け、迷いない足取りで伊吹くんに近づいていく。
そのスーツの後ろ姿を、不安な面持ちで窓から見つめる。
だけど、仁科さんはすぐに“慌てた様子”でベンツの止めてあるわたしたちの所へ戻って来た。
どうした、のかな……?
不安に煽られながら、窓の外を覗き込むと、後部座席の飛鳥馬様が座っている方の窓がコンコンと叩かれた。
仁科さんのただならぬ雰囲気に、飛鳥馬様は目を丸くして車の窓を開けるためのスイッチを押す。
窓の向こうの景色がクリアに見えて、視界が開ける。
ハァハァと肩で息をする仁科さんに、わたしと飛鳥馬様どちらとも目を見開いた。
「何があった、真人」
冷静な飛鳥馬様の声が降り注ぐ。
こんな時でも皇帝は狼狽えないのか。
さすがと言わざるを得ない。
「…ハァッ、ハァッ、飛鳥馬、様……っ!!あの者が、あのお方が、───西ノ街の皇帝、天馬伊吹がおりました!!」
飛鳥馬様の瞳が、剣呑な色に染まる。
仁科さんのその言葉に、わたしは気を失いそうになった。
……え、なんで、なんで。
伊吹くんが、西ノ街の皇帝……?
うそ、嘘だよ。誰か嘘だと言ってよ……っ!嘘だよね!?
「……それは、本当か?どうしてあいつがあやちゃんの家の前に……、」
その声は、並々ならぬ動揺を隠しきれていなかった。
このお方が、平静じゃいられなくなる相手だ。
伊吹くんが西ノ街の皇帝だということに、間違いはない───。
わたしはどうするべき……?
絶体絶命のこの時に、鈍くなったわたしの頭では何も考えられない。
生理的に流れる涙が頬を伝い、制服の上に染みを作っていく。
そんなわたしを、飛鳥馬様が呆然とした表情で振り返った。
「……っ、!あやちゃん、どうして泣いてるの」
「……ぁ、えっと、これは…」
どう言い訳したものか。
とりあえず留まることを知らない涙を両手で拭い、涙に濡れた瞳で飛鳥馬様を見据える。
飛鳥馬様はわたしに構っている暇はないだろうに、西ノ街の皇帝のことは置いといてわたしを第一に優先してくれる。
漆黒の瞳に垣間見える、わたしを心配する色。
このお方のことを一度じゃなく何度も冷酷だと思ってきたことが恥ずかしくなるくらい、その瞳は慈愛に満ちていた。
「わ、わたしのことは放っておいてください……」
飛鳥馬様からの心配を無下にするなんて失礼だとは思うけれど、今だけはどうか放っておいて欲しい。
今のわたしに、受け答えなんて出来ないから。
「どうしてそんなこと言うの。おれにとってはさいゆーせん事項なんだけど。あやちゃんの涙」
拗ねた口調で、膝に腕を置いて頬杖を付き、首を傾げてこちらを見据える飛鳥馬様の冷たい手が、ゆっくりとわたしの涙を拭う。
ひんやりとした手の感触が腫れた瞼に気持ちいい。
「……ん」
飛鳥馬様の手にまだ触れていたくて、わたしは自分の手でそれを掴み、瞼に押し付けた。
「もー、何してんの。かわいいんだけど」
明るい声が、飛鳥馬様がご機嫌なことを教えてくれる。
わたしは悪い女だ。
本当に、どこまでも。
わたしは今から、飛鳥馬様が絶対に傷つきそうなことを口にするのだから。
ドクドクと血管を流れる血の音が妙にうるさい。
恐る恐る飛鳥馬様のお顔を見上げて、意を決して口を開いた。
裏切り者だと罵られるかもしれない。
もうその優しい瞳を向けてくれないかもしれない。
わたしたちの名前をつけられない曖昧なカンケイは、ここで終息を迎える。
それでも、いい。それが1番、都合がいい。
「───西ノ街、10代目霜華派皇帝、天馬伊吹は、わたしの“彼氏”です」
だからわたしは、伊吹くんが西ノ街の皇帝であったということを、あたかも最初から知っていたフリをする。
どうか、今だけはわたしのウソに気づかないで───。
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