OL 万千湖さんのささやかなる野望

菱沼あゆ

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ささやかなる弁当

……昨日、なにがありましたっけ?

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 爽やかな月曜の朝。

 新米警察官の田中洋平たなか ようへいは自転車に乗って、港をパトロールしていた。

 ん? 不審な車が……と洋平は海に向かってとまっている大きなセダンを見つめる。

 自転車から降り、近寄っていった。

 中を覗くと、二人の男女が眠っている。

 なんだ、カップルか、と思ったが。

 運転席と助手席で眠る二人の手は、古いロープで縛られていた。

 何故か、女の反対側の手首にはもうひとつのロープがつながっていて、黒い瓶がその先に縛り付けられていたが。

 洋平は、祖父に聞いた昔の心中話を思い出していた。

 波に揉まれても離れ離れにならないように、お互いの手首を紐で結び合い、海に飛び込んだりしていたと。

 心中……?

 えっ? 心中っ?

「110番っ!」

 洋介は思わず叫んでいた。

 いや、お前が警官だ、と誰かが見ていてたら、言ってくれたことだろうが。

 警官になりたての洋介は動転していた。

「おっ、起きてくださいっ」
と洋介は慌ててドアを叩く。

「心中ですかっ?
 起きてくださいっ」

 心中なら起きないだろうし。

 そもそも、万千湖たちは海に飛び込んでもいなかったのだが……。



「話してる間中、ずっとペンギンに見られてて怖いんですけど」

 その警官、田中洋平は後部座席を気にしながら、起きた万千湖たちに、そんなことを言ってきた。

 職務質問を受け、今の呼気を確認されたあと、
「あのー、今度から気をつけてくださいね。

 ……ビックリするので」
と田中巡査に言われた。

 まあ、よく考えたら、なにも違法なことはしていない。

 罪といえば、おまわりさんをビックリさせたことくらいだろうか。

 すみません、と万千湖は苦笑いして謝る。

「でも、目が覚めたら、お巡りさんに顔覗き込まれてるなんて滅多にないことなんで、驚きました~」

「まず、ロープで縛り合ってることに驚いてください……」
と言われてしまったが。
 


 酒臭い車内の窓を全開にし、万千湖たちは出発した。

「うわ~、手に荒縄で縛られたようなあとがっ」

 赤く痣のようになっているおのれの手首を見ながら万千湖は叫ぶ。

「ようなっていうか。
 荒縄そのものだったが……」

 会社に行く前に、家に戻って着替えなければならないのだが、もうかなり時間がヤバイ。

「ある意味、お前と心中だな。
 二人で遅刻とは……」
と駿佑が呟く。

「あの、私はその辺に落としていってください。
 自力で帰りますので」
と言ったが、どうせ帰り道だからいい、と言われる。

「待っててやるから、さっと着替えてこい。
 その代わり、俺が着替えるのも待っててくれ」
と言われた。

 はい、すみません、と言いながら、万千湖は頭の中で走って家に入り、スーツに着替えるまでのシミュレーションをする。

 そして、気づいた。

「あ、そういえば、車で寝てしまったので、昨日のこと、日記に書けませんでした」

「毎日、日記書いてるのか」

 感心だな、とちょっと褒められる。

「いや~、それが書き始めたら、意外と続いてて。
 自分でもビックリしてるところです」

 ビル街を歩く通勤途中の人たちを眺めながら、万千湖は自分も、ああやって働く人たちの中に入れてるの、不思議だな、と思っていた。

 半年前の生活からは想像もつかないことだからだ。

「最近思うんですよ。
 日記が私の心の安定剤になってるのかなって。

 日々の楽しいことや、初めての体験でビックリしたこととか。

 いろいろ書いているうちに、これでよかったって。
 この未来で間違いなかったって確信できて嬉しいから書いてるのかなって」

「……お前の口から初めてまともな話を聞いた気がするな」

 いや、どういう意味なんですか……と万千湖は苦笑いする。

 商店街のイベントから、なんとなくで始まった「海と太陽」だったが、意外に人気が出てしまったので。

 ほんとうに解散してしまってよかったのか、ずっと迷いもあった。

 応援してくれた人たちに申し訳ないという思いもあったしーー。

 最初に脱退を言い出したのはサヤカだった。

 みんなの中心的存在だったサヤカが辞めるのなら、とみんなで解散を決めた。

 みんなもういい大人になっていて、それぞれのやりたいことが出来ていたせいもある。

「……なんにもなかったんですよね~」

 窓の外を見ながら、ぼそりと万千湖は呟いた。

「私だけなにもなかったんですよ。
 将来やりたいことが。

 毎日が楽しくて。
 みんなと過ごしてて起こる、どんなささやかなことも嬉しくて。

 今いる場所がなくなったらどうなるんだろうとか考えてなくて。

 なにもかも失いそうになって初めて、あんなこともこんなこともあったなーとか思い出して。

 ……いろいろ書きとめておけばよかった。

 きっと、もう忘れてしまった楽しいことや大切な思い出もいっぱいあったに違いないのにって思いました」

 なんの話がわからないだろうに、駿佑は黙って聞いてくれていた。

「私、それで日記を書きはじめたのかもしれません」
と万千湖は言った。

「今度は全部書き残しておきたくて。
 どんな小さな楽しいことも」

「……そうか。
 じゃあ、待っててやるから、書いてこい、日記」

 ありがとうございます。
 でも、大丈夫です、と万千湖は笑った。

「スマホにメモしときますから。
 えーと、昨日……、

 昨日、なにかありましたっけね?」
と万千湖は小首を傾げる。

「……いっぱいあっただろう」

「あっ、そうだっ。
 住宅展示場に植えてあったコキアが真っ赤に紅葉してて、ふわふわで綺麗だったですっ」

 そのとき、視界にあの宝くじ売り場が入った。

 万千湖は思わず、身を乗り出すと、通り過ぎていく宝くじ売り場を振り返り見つめた。

「『やっぱり、一等出てました』とか、看板出てないですかね~?」

「待て」
と駿佑が言う。

「昨日一日で印象に残ったことはそれか?」
「えっ?」

「俺を縄で縛ったろっ」

 誤解を招くような表現ですね……。

「1800万の家を買ったろっ」

 まだ契約はしてませんけどね。

「警官に叩き起こされて、職質受けたろっ」

「それは今日ですよ~」
と揉めているうちに、万千湖のマンションに着いていた。


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