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私の推しは、にーろくふです
めぐるんちゃんを賭けて勝負だっ
しおりを挟む「なんか愛が逃避行だったよー」
そんなことを言いながら、将棋クラブに健が戻ってきた。
なかなか戻ってこないと思ったら、出前を頼みに行ったはずなのに、自分でおかもちを持って帰ってきている。
手が足らないからか、若林も連れて。
「いやー、田中先生、消されてましたよ~」
とおかもちをテーブルに置きながら、相変わらずよくわからないことを若林が言う。
今日は珍しく、将棋を打っている、いつものおじいさんに付き合っていた田中だが、若林に気を取られそうになった。
いや、棋士たるもの、いついかなるときも平常心でなければ。
そう田中が思ったとき、
「これこれ、見ました?」
オムライスなどをおかもちから出して並べている健の側で、若林が小脇に挟んでいた週刊誌を開き、見せてくる。
「そんなものは……」
読まない、そう田中が言おうとしたとき、
「めぐるん先生の熱愛報道ですよ」
と若林が言った。
いつもは絶望のタヌキの目を思い出すと平常心になれるのだが。
今、その絶望のタヌキが俺に絶望を与えてくる……。
ページいっぱいの白黒写真の中で、めぐるが長身の若い男と楽しげに笑い合っている。
「……いや、久門じゃないか」
「そうなんですよっ。
なぜ、僕じゃないんでしょうね~っ」
と叫ぶ若林が羽織っているストライプのシャツの下。
濃紺のTシャツには、英語で『Shut up! 』と書いてある。
俺の心の内を表しているのだろうか……?
それにしても、なんで、久門なんだ?
と田中はずっと悩んでいたが、この二人はもうその話題は散々語ってきたらしく、どうでもいいようで。
ずっとタコスの話をしていた。
「タコスがどうかしたのか?」
と健に訊くと、
「いや、ビックリ。
あの店、メニューにタコスがあったんだよー」
と言う。
「タコス?
あったじゃないか、前から」
それがどうした、という口調で言うと、
「いや、やっぱり怖いですね~。
よく見てますね、田中先生は。
なのに、なんで週刊誌の記者に気づかないんでしょうね」
と若林が言い出す。
いや、気づくかっ。
「あのー、若林さん、動揺させないでください。
大事な対局も近いんで」
と苦笑いして後ろから言う師匠に、若林が言った。
「田中先生、動揺なんてします?」
健が無言で盤面を指差す。
「あれっ?
なんか一気に押され気味になってますね」
いや、このおじいさんが強いのもあるんだが。
……まあ、動揺しているのも確かだ。
「ちょっと苦手な早指しだからかな?」
そうフォローを入れてくれる健に若林が訊く。
「早指しって、若い人の方が有利なんじゃないんです?」
「それがそうとも言えないんですよね。
個人のスタイルもありますし」
周りでごちゃごちゃ言うな。
いや、集中集中。
そう。
あの絶望のタヌキの目を思い出して……と思ったが。
今日、思い浮かんだのは、ほんとうにタヌキの姿をした、絶望のタヌキで。
しかも、タヌキなのに、空港にいて、似合いのタヌキと手をつないで立っていた。
こっちのタヌキは、もしや、久門っ?
めぐると恋に落ちると、タヌキになる呪いにかかるのだろうか?
そんなめぐるが乗り移ったかと思うような妄想に取り憑かれている横で、健たちが言っている。
「あれっ?
これ、おじいさん、勝つんじゃない?」
「そういえば、もうすぐ竜王戦ですね。
『田中竜王、おじいさん相手に防衛できず――』」
記事の見出しを作るな。
「どうします?
おじいさん、竜王名乗れますよ」
と若林が言うと、おじいさんは笑っている。
「すみません。
スランプを加速させないでください……」
とオムライスを手に師匠が言っていた。
「いらっしゃいませ~。
あっ、久門さんっ」
めぐるが、サインして週刊誌を飾れとかよくわからないことを言い出す常連さんや百合香を止めていたとき、ガラガラと食堂のガラス戸を開け、久門がやってきた。
「こんにちはー。
あれ? 田中いないの?」
「いつもいるわけじゃありませんよ……」
と苦笑いしてめぐるが言ったとき、久門の視線がテーブルの上に広げてあるあの週刊誌を向いた。
「僕も買ったよ、それー。
顔の角度いまいちだったんだけどさ」
「あのっ、久門さんのところにも発売前に確認の電話、ありました?」
「あったあった。
あの日、空港にいらっしゃいましたか? って言うから、はいって言ったよ。
天花めぐるさんとお付き合いされてるんですかって確認されたから、いいえって言ったんだけどね」
「すみません。
なんかご迷惑おかけしちゃって」
「いやいや。
めぐるんちゃんが謝るとこじゃないでしょ。
でも、それで気づいたんだよね。
めぐるんちゃんは田中といい雰囲気ですよって教えようかなと思ったんだけど、なんか教えたくなくてやめたんだよね」
……いや、まず、教えようととしないでください。
別にいい雰囲気だと感じたこともないですし、と思ったとき、久門が言った。
「僕、もしかして、めぐるんちゃんのこと、かなり気に入ってるのかな~」
めぐるの手にあるマジックと週刊誌を見て、
「あ、もしかして、サイン?」
と久門は訊いてくる。
「僕もしようか?」
ぜひっ、とその週刊誌の持ち主のおじさんが言う。
気前よくサインする久門を横から眺めながら、
「上手いですね」
とめぐるが言うと、
「書道は十段だから。
田中竜王とは一味違うよ」
確かに、書道は一味違うようだ、と飾ってある田中のサインをチラと見て思った。
「ありがとうございます。
これ、ここに飾ろうよ」
とおじさんはご機嫌で言う。
結局、一緒にサインさせられてしまっためぐるは、
いや、これ飾ると、この記事の内容を認めているみたいになってしまうのだが。
久門さんにも失礼じゃないだろうか、と思っていたが。
久門は気にせず、
「ここがいいですかねー」
とか言いながら、百合香が持ってきたタブレットスタンドに週刊誌を広げ、カウンターに立てている。
そのとき、田中が健と一緒に、何故かおかもちを返しにやってきた。
「いらっしゃ……
あ~、ありがとうございます。
おかもち、他にもあるから別に大丈夫だったんですけど」
いや……と言いながら、久門を見た田中だったが、サインの書かれた週刊誌を見て、息を呑む。
「お前……、よく書道十段と一緒にサイン書いたな」
「いや、そっちか」
と健が言っていた。
「田中」
と久門は腕を組み、田中を見据えて言う。
「今度の対局。
めぐるんちゃんを賭けて勝負だ」
「いや、結構だ」
断られたっ。
「……めぐるんちゃんを賭けて勝負だっ」
と久門は仕切り直す。
「ほんとうに結構だ」
やっぱり、断られたっ。
「なんなんですかね、これ。
私、告白もしてないのに、フラれてるみたいになってるんですけど」
とめぐるは近くにいた健に訴える。
「いや……単に、そういう賭けが好きじゃないってことじゃない?」
この人、言葉足りないから、と田中と付き合いの長い健は言う。
「おい、久門。
田中、調子取り戻してきてるぞ。
そもそもお前、取り戻してない状態の田中と当たって、この間負けてるだろ」
久門は沈黙した。
「じゃあ、どこかで誰かに勝つ」
一気に目標が低くなったーっ。
「めぐるんちゃん」
と久門はホスト顔負けな感じに、片膝をつき、めぐるの手をとって言う。
「誰かに勝ったら、僕と結婚してくれるかい?」
めぐるは手をとられたまま固まっていた。
誰かって誰なんですか?
そして、そのどこの誰ともわからない人に私の運命が託されてるのはなぜなんですかっ。
「おい、目標低すぎだろ」
そんな健の言葉に、わかった、と久門が立ち上がる。
「じゃあ、俺の命運を竜王戦に託そうっ。
田中が防衛できなかったら、めぐるんちゃんは僕と結婚する!
これでどうだっ」
「待て。
お前、竜王戦のトーナメント、即行負けてたろ……」
と言う健に、
「だから、僕がこいつを倒すとは言ってない」
と久門は言う。
「挑戦者がお前を倒したら、お前は、めぐるんちゃんの前を去り。
めぐるんちゃんは僕と結婚する。
これでどうだっ?」
――いや、なぜ、人任せっ。
ぼそぼそと健が田中に訊く。
「……誰だっけ?
トーナメント勝ち残ってたの」
「黒木田だろ」
「黒木田名人かー」
と健は渋い顔をする。
「そうだ。
お前が俺の次に苦手な黒木田だっ」
「……いや、ほんと、なんでお前、そんなに久門、苦手なの」
と健が田中に向かって呟く。
――将棋のタイトルでは、竜王と名人が一番格上なんだっけ?
だから、田中さんは他のタイトルも持ってるけど、田中竜王って呼ばれてるって聞いたな。
竜王より少し下か、ほぼ同格だという、名人のタイトルを持つ黒木田さん。
田中さんが苦手意識があるだけの久門さんと違って、ほんとうに強そうだな、と少々失礼なことをめぐるは思ったが。
久門自身も、
「さあ、田中竜王!
黒木田名人に勝てるかなっ」
と思いっきり、虎の威を借りはじめる。
「……いや、ほんとうに結構だ」
と田中は繰り返していたが。
ちょっとだけ、こちらを窺い見ていた。
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