昨日、あなたに恋をした

菱沼あゆ

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完璧だったはずの男

勉強しろと言ったら、家中の鉛筆を削り始めるやつっているよな

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「お世話になりました。
 ありがとうございました」
と日子は玄関先で深々と頭を下げた。

 帰って着替えてから出社するのだ。

 だが、日子が誠孝の部屋から出たとき、日子の部屋の隣の中野さん夫婦も出てきてしまった。

 ……早朝、男の人の部屋から出てくるところを見られてしまいましたよ、と焦りながらも日子は、

「お、おはようございますっ」
と中野さん夫婦に頭を下げる。

 仲良くご夫婦でウォーキングに行くところだったらしい老夫婦は笑顔で、日子と誠孝に挨拶してきた。

 誠孝も頭を下げる。

 日子は誠孝を振り向き、もうエレベーターに向かっている中野さんご夫妻にも聞こえるように言った。

「……お、おしょうゆ貸してくださって、どうもありがとうございましたっ」

「どんなごまかし方だ。
 早朝からか。

 しかも、お前、しょうゆ持ってないぞ」

 一応、気を使ってか、小声で誠孝はそう突っ込んできた。



 そのあと、日子が職場に行き、働いていると、いきなり裕子からの襲撃を受けた。

「楓さ~んっ」
と背後から抱きつかれる。

 わあああああああっと日子はフロアに響き渡る悲鳴を上げてしまった。

 テンキーがっ!

 押された弾みで大量の7が打ち込まれ、なんだかめでたい感じになったが、なにもめでたくはなかった。

 しかも、動揺して、ついた手がデスクではなく、キーボードに当たっていて、謎のスペースが画面上に増えまくり、

 ウイルスっ!?
と思ってしまったが、犯人は自分だった。

「うう……。
 楓さん、ごめんなさい~っ」

「は? え?
 なにがっ?」
と慌てながらも振り返る。

「私のせいですよねっ」

 この今打ち込み中のデータの惨状がっ!?
と思ったが、違った。

「郁美さんが、あんたが日子の家に行くとか言い出すから、日子、掃除しなきゃって追い詰められて、日々弱ってってるよって」

 いや、郁美さんも来るんですよね……と思ったが、まあ、郁美は片付けなくていいとは言っていた。

「ごめんなさいっ。
 美しい楓さんの顔にできてしまったその目の下のクマは私のせいですよねっ」

 いや……、これは深夜まで沙知見さんとゲームやってたせいです、ごめんなさい。

 泣いて謝られ、日子の方が申し訳なくなったとき、裕子が言った。

「楓さんっ、私、お手伝い致しますっ」

「えっ? なにを?」

「楓さんのおうちのお片付けですっ」

「……えーと、それ、なんのために?」

「……私たちが遊びに行くとき、片付いてるようにですかね?」

 意味なかったですね、と裕子は笑っていた。

「あのっ。
 でも、部屋とか片付いていなくても、楓さんは楓さんですよっ。
 いつも素敵ですっ」

 あの、ありがたいんですが。

 あまり大きい声で言わないで欲しいかな~なんて……。

 はは……と日子は苦笑いし、なんだかわからないが、礼を言って仕事に戻った。



 昼休み、気を使った裕子が、
「じゃあ、日曜は、外から、みんなで楓さんのマンションを眺めて。
 あとは近くのいい感じのカフェとかでお茶しましょうよ」
と言ってくれたのだが。

「いや、私は今、片付けに燃えてるの」
と日子は言った。

 ……燃えてるだけで、やってないんだが。

 沙知見さんに美味しいご飯をご馳走になったり、ゲームやったりしてるだけで……。

「ゆーちゃんたちが来るまでには間に合わないかもだけどっ。
 頑張って、さ……っ

 ……素敵な部屋にするっ!」

 日子は自動販売機の前で、そう誓った。

 さ? と裕子と羽根と星野に小首を傾げられてしまったが。

 ほんとうは沙知見さんの部屋みたいにする、と言いたかったのだ。

「いいなあ、私も行きたいんだけど。
 その日はちょっとなー」
と羽根が言い、

「俺も行ってみたいんだが。
 出張なんだよな~」
と星野が言う。

「そっかー、残念」

 何人増えても片付けるのは一緒なので、たくさんで来てくれてもよかったんだが、
と日子が思ったとき、同じ部署の道中みちなかという三つ下の男性社員が、FAX用紙を振りながらやってきた。

「楓さん、変更出ましたよ、また~」

「大丈夫、想定済み」
と受け取ったとき、裕子が、

「FAXって家ではあんまり使わなくなりましたけど。
 職場ではまだまだ現役ですよね~」
と言いながら、ひょい、と覗き込んだ。

「やだ、沙知見さんからじゃないですか~」

 裕子は目敏めざとく変更箇所の指示とデータの下に書かれた誠孝の名前を見つけたようだ。

「なんか名前見ただけで、どきっとしちゃいますよね」

 ……そうだね。

「FAXまで輝いて見えますっ」

 いい匂いがしてきそうだよね。

 確かに輝いてるし、と日子は思ったが、光沢のある紙なので、電灯の光に照らされて、ちょっと眩しいだけだった。



「勉強しろと言ったら、家中の鉛筆を削り始めるやつっているよな」

 そんな声が真後ろでし、日子はフカフカのホコリとりを手にハッと振り返った。

 悪いことをしていて、見咎みとがめられた気分になってしまう。

 ドラッグストアで背後に立っていた東城がなにを言いたいのかわかる気がしたからだ。

「掃除をしろと言ったら、まず、いろんな掃除グッズを買ってしまう。
 そして、大部分使わない」

 うっ。

 東城は近くにあった排水溝のつまりを解消する洗剤を取りながら言う。

「いや、お前は偉いぞ。
 俺はすでに、掃除グッズを買うことすら放棄していたからな」

 はあ、ありがとうございます、と礼を言っていいところなのかわからないながらも、日子は礼を言った。

「まあ、今は自宅なんで。
 自分の部屋以外は掃除しなくていいんだが」
と言う東城は、親に帰りに洗剤を買ってこいと言われたらしい。

「ご飯が自動的に出てくるのはいいな。
 風呂も沸いてるし。

 でも、いろいろうるさいこと言われるから、やっぱ、一人暮らしに戻りたいかな」

 そこで、東城はこちらを見て言った。

「なにも聞かないんだな」

「え?」

「俺が前の仕事、クビになった理由とか」

 はあ、と日子は曖昧な返事をする。

 実は、この間、高校のときの友だちとメールしたとき、ぼんやりとは聞いていたのだが。

 先輩がなにも語らないのに、詮索するのも悪いかなと思い、突っ込んで訊いてはみなかったのだ。

 東城は、ちょっと笑うと、ぽんぽん、と学生時代のように日子の頭を叩いた。

「土曜、俺は手伝えないが、頑張れよ」

「はいっ、ありがとうございますっ。
 頑張りますっ」

 部活の大会前のような意気込みで、日子は言った。



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