ご先祖さまの証文のせいで、ホテル王と結婚させられ、ドバイに行きました

菱沼あゆ

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さようなら、旦那様

こんなこと言ったら、殴られるかもしれないけど

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「そう悪くないホテルだったな。
 眺めもいいし」
と桔平は窓からの景色を眺めながら言っていた。

 次の回がはじまったドバイ・ファウンテンも微かにだが、見えるようだった。

 今まで泊まったホテルの中では地味な方だったが、普通のホテルよりは格上な感じだ。

「なにか呑むか?」
と桔平はミニバーを見ながら訊いてくる。

 首を振ると、桔平はベッドに腰掛け、立ったままの真珠を見上げた。

「なんで逃げた。
 俺のことが嫌いか」

 少し迷ってだが、
「いいえ」
と真珠は言った。

「……でもよくわからないんです。
 今まで誰も好きになんてなったことないから」

「俺もそうだ」
と桔平は意外なことを言う。

「だからかな。
 なにも上手くいかないんだ。

 お前のことが気になるのに、五年もどうしていいかわからずに放置してみたり。

 だから、俺の妻に会わせろと取引相手に言われたとき、上手くかわすこともできたんだが、これがお前を呼び寄せる最後のチャンスかなと思った。

 でも、一緒にモルディブに行っても、海中ヴィラに泊まっても。

 砂漠のホテルに泊まっても。

 俺は仕事のときみたいに、強く押してはいけなかった。

 ほんとうに欲しいものは、手を伸ばせば伸ばすほど、遠ざかっていくもんだと初めて知ったよ」

 自分を見つめる桔平の視線に真珠は落ち着かなくなり、目線を床に落とした。

「……それ、ちょっとわかります」

 そう真珠は言った。

「いつも私もそうです。
 取ろうとすればするほど落ちて行って届かないんです」

「お前にもそんな経験があるのか」

 ちょっと寂しそうに桔平は言った。

「はい。
 間違って燃やさないゴミを燃やすゴミ袋に入れてしまったとき、ゴミを取ろうとすればするほど、袋の中に落ちていって、とれなくなってしまうんです」

 桔平は沈黙した。

「あれはもどかしいですよね」

「……俺のもどかしさが伝わってなによりだが、その設定だと、俺にとって、お前は『間違って捨てたゴミ』になってしまうんだが」

 いや、私なりに真剣に考えてみたのですが……。

 上手く答えられなかったようだ、と思ったが。

 その程度の例えしか出てこないくらい恋愛経験がないのは伝わったようだった。

 桔平はちょっと笑って、真珠の腕をつかむと、膝の上に座らせた。

「いや、えっとっ。
 恥ずかしいのでっ」
と真珠は逃げ出そうとしたが、肩と腰をホールドされる。

 何故、私なんですか? と真珠は桔平に訊いた。

 どう考えてもこんな人が自分を好きとか信じられない気がしたからだ。

「あなたが狙えば落ちない女なんていないでしょうに」

「そうかもしれないが、狙ったことがないのでわからない。
 そもそも、お前以外、狙うつもりもない」

 ……俺が嫌いか? とまた問われる。

「……嫌いではないです。
 あなたの仕事ぶりを知って、尊敬はしてました」

 真珠は桔平の本気に応えようと、頑張って、迷う心の内を整理するように話してみる。

「子どもの頃、まだうちが裕福だった頃、よく泊まっていた歴史あるホテル。

 廃業寸前だったのをあなたが買い取りましたよね?

 我が家を含め、常連さんたちはみな、不安がっていましたよ。

 今どきの若造が、みんなの思い出の染み付いたこのホテルをどんな風に変えてしまうんだろう、とか。

 でも、あなたは新しいものを取り入れながらも。
 ちゃんと私たちの愛したホテルの雰囲気をそのまま残してくれた」

 カジュアルな格好で行っても大丈夫だが。

 特別な夜には、ちゃんとしたおめかしをして過ごすのも似合う、そんなホテルに仕上がっていた。

 そうか、と言う桔平はちょっと嬉しそうだった。

「確かに古くから馴染みのお客様がたは、この若造が、と心配しておられただろろうな。

 お前の家でもということは、もしかして、そう思っておられたのは、お父上か」

 真珠は沈黙する。

「……もしや、お前か」

 誰が若造だっ、と耳を引っ張られた。

「いやいやいやっ。
 でも結局、いいホテルにしてくれたっていう。
 いいお話だと思ったんですけどね~?」

 何処がだっ、と怒鳴ったあとで、桔平は真珠に顔を近づけ、脅すように言う。

「……無理やりその若造のものにされた気分はどうだ?」

「汚されたのは私の戸籍だけで、心も身体も汚されてませんよ」

「じゃあ、今すぐ、そのどちらも汚してやろうかっ」
と脅されたが、この人が無理やりどうかしてくるような人ではないのは知っていた。

 真珠が視線を合わせ、ちょっと笑うと、案の定、桔平は照れたように視線をそらしてしまう。

「……あの砂漠のホテルで迷子になったとき、ちょっと心細くて。
 有坂さんの姿を見つけて、すごく嬉しかったです」

 そう言うと、桔平は嬉しそうだった。

 だが、そこでやめておけばよいのに、真珠は、つい、いろいろと想像してみる。

「まあ、誰が現れても嬉しかったかもしれないですけどね、あの場合」

「……お前はどうしてそう、冷静にならなくていいところで冷静なんだ」

 桔平はそんな恨み言を言ってきたが、
「確かに、侑李が現れても嬉しかっただろうな」
と素直に認める。

 まあ、そうですね……。

「羽島さんだったら?」

「嬉しいですね……」

 桔平は自分で話を振っておいて、
「やめようか」
と言った。

「どんどん『俺に会えて嬉しい』の価値が下がってく気がする」

 困ったように眉をひそめる桔平がおかしくて、笑ってしまった。

 なんだろう。
 上手く言えないけど、この人のこういうところは好きだな、と思う。

 自信満々にグイグイ来るのかと思いきや、いきなり、待てよ? と立ち止まるというか。

 経営者としては大事なことかもしれないが。

 恋をするときには間違っている。

 私がグイグイ行く性格なら、ちょうどいいカップルだったのかもしれないけどな、と真珠は思っていた。

 組み合わせとタイミングが悪いのかな、私たち。

 有坂さんは、結婚式の日に私を好きになったと言ってくれた。

 私はその結婚式の日に、自由にしてていいと言ってくれた、この人に深く感謝した。

 そして、離れている五年の間に、その仕事ぶりを見て感心して。

 それから、ここ数日、一緒に過ごして。

 ……こんなこと言ったら、殴られるかもしれないけど。

 なんかこの人、可愛いところがあるな、と思った。

 有坂さんのこと、嫌いじゃないけど。

 ひとつ、困ったことがあるとしたら。

 まだ恋かどうかもわからないのに、私たちは結婚している、ということだろうか――。

 笑ったせいで、ちょっと溶けた緊張の隙間を突くように、桔平は真珠の肩に触れ、キスしてきた。

「……しまったな」

「え?」

「ここが思い出のホテルになってしまうじゃないか」

 しょうがない、買い取ろう――。

 そう言って、桔平は真珠を抱きしめる。



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