17 / 30
3
17
しおりを挟む
それから向かった病院でも孤児院と同じ様に夫は堂々とした態度で落ち着いており、これからもブラウン家は資金の援助を続けることを約束し、院長を喜ばせていた。
「今の時分、病院内部の視察は奥様には少し刺激が強いかも知れませんので、ご主人様だけで…」
と院長がこちらに気を遣って言うので、エラは彼の意向を汲んで承知した。エラを院長室に待たせたまま、院長とジェームズは主に怪我をしている傷痍軍人が収容されている階へ向かった。
比較的清潔に保たれている設備もまともな病院というだけあって、ジェームズの目にはそこまでひどい状態には見えなかったが、やはりまだ若い女性であるエラには、手足が欠けていたり、ケロイド状の火傷を負っていたり、銃で撃たれた痕が残る患者たちを院長は見せたくなかったのだろう。
だだっぴろい部屋にところ狭しとベッドが並べられている中を院長がジェームズに説明しながら歩いていく。しかし、一人の男がベッドから立ち上がって、信じられないとでもいうようにジェームズに声をかけた。
「まさか…ブラウン少尉か?」
ジェームズは、右手のないその初老の男の顔に見覚えがあった。
「マッケンジー中佐」
家へと向かう帰路の馬車で、ジェームズはいつになく言葉数が少なかった。とりたてて不機嫌だというようには見受けられなかったが、心ここにあらず、といった感じで、最近のジェームスにしては珍しかった。エラに対してはにこやかに振る舞うものの、明らかに何かに気を取られているのは間違いなく、家に戻ると、彼はエラに視察に出て遅れた分の仕事をするから、自分を気にせず先に寝ていていいと言った。
寝支度をしてベッドに入ったエラは、今日彼に買ってもらった香水の瓶を手にしたまま考え込んでいたが、瓶をベッドサイドテーブルに置くと、以前ジェームズが使っていた部屋を覗いてみることにした。
その部屋は彼らの寝室とは真逆の奥に位置していて、エラは今まで一度も足を踏み入れたことがなかったのである。
ジェームズが戦争に出征した後に、洋服は義母が片付けていたのは知っていたが、まだジェームズの細々とした日用品は手つかずに残してある、と彼女が言っていた気がしたので、前に使っていた香水の瓶を見てみようと思ったのである。一度メイドが持ってきたのを見たことがあっただけなので、その記憶が正しいのかを確かめたくなったのだ。しかし、部屋のドアを開けてみて驚いたことに、そこにあったはずのジェームズの私物は何一つ残っていなかった。
(捨ててしまったのかしら…?それとも執務室に移したの?)
エラの知らない間に、結局義母が片付けたのかもしれない。なんとなく釈然としないものを感じながらも、彼女は寝室へと戻っていった。
「この前視察に行った病院の…パーティですか?」
「ええ、資金を集める慈善活動として、パーティがあるのよ。だから家族で出席することになったわ」
「…承知しました」
義母が朝食の席でそう切り出したので、エラは頷いた。しかし夫はなかなか返事をしない。エラがジェームズの顔を窺うと、彼の瞳は憂いを帯びてぼんやりと何か考え事をしていた。
「ジェームズ、ちゃんとエラをエスコートしなきゃ駄目よ?」
義母がそう言うと、彼は瞬く間に快活な青年に戻り、分かっているよ母さん、と頷いたのだった。
その日は初冬にしてはそこまで肌寒くなかったので、エラは外套を羽織って庭園に出た。ブラウン家の庭師は年中庭園を綺麗に整えてくれていて、草花が好きなエラを和ませてくれる。ジェームズにないがしろにされてささくれだった心をどれだけ癒やしてくれたのか。
「エラ」
執務室で仕事をしていると思っていた夫が後ろから声をかけてきたので、彼女は驚いて振り返った。
「ジェームズ、どうされたの?」
「これを、君に。今日の花だ」
彼はあれから毎日一輪ずつ花を贈ってくれるのだ。
ジェームズが白い花をそっと差し出したその真剣な顔を見て、エラは既視感を覚えて目を瞬いた。彼がまだ幼い頃、どこかの庭園でこうやって花を差し出されたことがなかったか…?あれはまだ、ジェームズが婚約者でもなんでもなかった頃で、あの少年がジェームズだったかも覚えていないが…ううん、きっとそうだ。
(ジェームズはもう忘れているかも知れないけど…私達にも素敵な思い出が1つはあったんだわ)
「エラ?」
「なんでもないわ。ありがとう、ジェームズ」
彼女は白い花を受け取ると、顔をほころばせた。
「スノードロップね、なんて可愛らしい」
エラの笑顔を見て、ジェームズはとても嬉しそうに微笑んだ。
「今の時分、病院内部の視察は奥様には少し刺激が強いかも知れませんので、ご主人様だけで…」
と院長がこちらに気を遣って言うので、エラは彼の意向を汲んで承知した。エラを院長室に待たせたまま、院長とジェームズは主に怪我をしている傷痍軍人が収容されている階へ向かった。
比較的清潔に保たれている設備もまともな病院というだけあって、ジェームズの目にはそこまでひどい状態には見えなかったが、やはりまだ若い女性であるエラには、手足が欠けていたり、ケロイド状の火傷を負っていたり、銃で撃たれた痕が残る患者たちを院長は見せたくなかったのだろう。
だだっぴろい部屋にところ狭しとベッドが並べられている中を院長がジェームズに説明しながら歩いていく。しかし、一人の男がベッドから立ち上がって、信じられないとでもいうようにジェームズに声をかけた。
「まさか…ブラウン少尉か?」
ジェームズは、右手のないその初老の男の顔に見覚えがあった。
「マッケンジー中佐」
家へと向かう帰路の馬車で、ジェームズはいつになく言葉数が少なかった。とりたてて不機嫌だというようには見受けられなかったが、心ここにあらず、といった感じで、最近のジェームスにしては珍しかった。エラに対してはにこやかに振る舞うものの、明らかに何かに気を取られているのは間違いなく、家に戻ると、彼はエラに視察に出て遅れた分の仕事をするから、自分を気にせず先に寝ていていいと言った。
寝支度をしてベッドに入ったエラは、今日彼に買ってもらった香水の瓶を手にしたまま考え込んでいたが、瓶をベッドサイドテーブルに置くと、以前ジェームズが使っていた部屋を覗いてみることにした。
その部屋は彼らの寝室とは真逆の奥に位置していて、エラは今まで一度も足を踏み入れたことがなかったのである。
ジェームズが戦争に出征した後に、洋服は義母が片付けていたのは知っていたが、まだジェームズの細々とした日用品は手つかずに残してある、と彼女が言っていた気がしたので、前に使っていた香水の瓶を見てみようと思ったのである。一度メイドが持ってきたのを見たことがあっただけなので、その記憶が正しいのかを確かめたくなったのだ。しかし、部屋のドアを開けてみて驚いたことに、そこにあったはずのジェームズの私物は何一つ残っていなかった。
(捨ててしまったのかしら…?それとも執務室に移したの?)
エラの知らない間に、結局義母が片付けたのかもしれない。なんとなく釈然としないものを感じながらも、彼女は寝室へと戻っていった。
「この前視察に行った病院の…パーティですか?」
「ええ、資金を集める慈善活動として、パーティがあるのよ。だから家族で出席することになったわ」
「…承知しました」
義母が朝食の席でそう切り出したので、エラは頷いた。しかし夫はなかなか返事をしない。エラがジェームズの顔を窺うと、彼の瞳は憂いを帯びてぼんやりと何か考え事をしていた。
「ジェームズ、ちゃんとエラをエスコートしなきゃ駄目よ?」
義母がそう言うと、彼は瞬く間に快活な青年に戻り、分かっているよ母さん、と頷いたのだった。
その日は初冬にしてはそこまで肌寒くなかったので、エラは外套を羽織って庭園に出た。ブラウン家の庭師は年中庭園を綺麗に整えてくれていて、草花が好きなエラを和ませてくれる。ジェームズにないがしろにされてささくれだった心をどれだけ癒やしてくれたのか。
「エラ」
執務室で仕事をしていると思っていた夫が後ろから声をかけてきたので、彼女は驚いて振り返った。
「ジェームズ、どうされたの?」
「これを、君に。今日の花だ」
彼はあれから毎日一輪ずつ花を贈ってくれるのだ。
ジェームズが白い花をそっと差し出したその真剣な顔を見て、エラは既視感を覚えて目を瞬いた。彼がまだ幼い頃、どこかの庭園でこうやって花を差し出されたことがなかったか…?あれはまだ、ジェームズが婚約者でもなんでもなかった頃で、あの少年がジェームズだったかも覚えていないが…ううん、きっとそうだ。
(ジェームズはもう忘れているかも知れないけど…私達にも素敵な思い出が1つはあったんだわ)
「エラ?」
「なんでもないわ。ありがとう、ジェームズ」
彼女は白い花を受け取ると、顔をほころばせた。
「スノードロップね、なんて可愛らしい」
エラの笑顔を見て、ジェームズはとても嬉しそうに微笑んだ。
366
あなたにおすすめの小説
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
戻る場所がなくなったようなので別人として生きます
しゃーりん
恋愛
医療院で目が覚めて、新聞を見ると自分が死んだ記事が載っていた。
子爵令嬢だったリアンヌは公爵令息ジョーダンから猛アプローチを受け、結婚していた。
しかし、結婚生活は幸せではなかった。嫌がらせを受ける日々。子供に会えない日々。
そしてとうとう攫われ、襲われ、森に捨てられたらしい。
見つかったという遺体が自分に似ていて死んだと思われたのか、別人とわかっていて死んだことにされたのか。
でももう夫の元に戻る必要はない。そのことにホッとした。
リアンヌは別人として新しい人生を生きることにするというお話です。
元婚約者が愛おしい
碧井 汐桜香
恋愛
いつも笑顔で支えてくれた婚約者アマリルがいるのに、相談もなく海外留学を決めたフラン王子。
留学先の隣国で、平民リーシャに惹かれていく。
フラン王子の親友であり、大国の王子であるステファン王子が止めるも、アマリルを捨て、リーシャと婚約する。
リーシャの本性や様々な者の策略を知ったフラン王子。アマリルのことを思い出して後悔するが、もう遅かったのだった。
フラン王子目線の物語です。
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる