とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら

文字の大きさ
23 / 30

23

しおりを挟む
「遺言…?」
「ええ、私の愚かな…息子。骨の髄まであの女にしゃぶられるところだったわ」

ルーリアの甘言に唆されるまま、ジェームズは彼女の雇った私的な弁護士を通して遺言を遺していた。

もし戦争で何かがあって自分が死んだら、今の妻であるエラではなく、恋人であるルーリアに自分の財産権を譲る、と。

「そんな遺言、法的に効力があるのですか?」
「あるといえば、ある、ないといえばない、といったところ、かしら。でもあの女がその遺言を逆手に取って裁判を起こしたら、ある程度の効力はきっとあるし、それからとてつもない醜聞になるのは避けられないのは、分かるでしょう?」

それで彼との入れ替わりを考えたわけだ。
戦争からジェームズが生きて帰ってきた時点でこの遺言は失効するが、その上で彼が心を入れ替えたように見せかけて、ルーリアと別れたとしたらさすがの彼女も2度と近づいてこないだろう。

義母は彼に戦争から出来るだけ早く戻るように言ったが、その時には勇敢で明晰な彼は部隊の中心的存在であり、結局は戦争が集結するまで留まった。

その間に義母はルーリアの対策を考えていた。

ただ単に別れる、と言ってもあのしたたかな愛人が納得しないのは分かっていた。ルーリアに、何がしかの違和感を嗅ぎつけられて、彼が偽物だと騒ぎ立てられたら面倒なことになる。だからこそ手紙が来ても彼らは無視をし続け、しびれを切らしたルーリアが公衆の面前で近寄ってくるのを待ち、どんな手を使ってでもルーリアに彼が本物であるということを人々の前で認めさせる必要があった。その上で彼女をこれ以上ないくらいに完膚なまでに切り捨てる。


「そう…だから…貴方は突然私に……興味があるふりをし始めたのね…」



エラが呟くと、彼がきっぱりと首を横に振った。

「それは違う」
「…違う?」

彼は美しい瞳に熱を込めて、彼女を見つめた。

「俺は以前から君を知っていた…君にずっと惹かれていたんだ」

義母が哀しそうに微笑んだ。

「信じてあげて、エラ。彼がこれを引き受けたのも、エラのためでもあったの。貴女は素敵な女性ですものね…私の息子は見る目のない、本当に救いようもない子だった…」
「エラ、後で…俺に釈明の機会を与えてほしい、今はとりあえず彼女に続きを話してもらうのでいいだろうか」

(ああもう…何が何だか分からないわ…)

エラは目を瞑り、頷いた。


義母は、出征した後の息子が寝起きしていた部屋を片付けていて、詳細に書かれた日記を何冊も見つけた。全くもって意外なことに息子は丁寧に日記を書く人間だったのだ。義母は何日もかけてそれを読み、改めて自分の息子の愚鈍さに絶望した。しかし、出征直後にこの日記を見つけたことにより、義母は息子がどんな遺言をルーリアに遺したかも知り、入れ替わる作戦を企てることになった。

彼も屋敷に戻ってきてから、その日記を執務室で読みこみ、ジェームズの記憶を自分のもののようにするべく暗記した。覚えたと確信すると、日記は暖炉で燃やした。

蠍の入れ墨についても、ジェームズはご丁寧に原案を日記に挟み込んでいたし、入れ墨をいれた場所も詳しく書き記されていて、その紙を手に帰還してすぐに彼はその入れ墨を彫りに行った。エラに行き先を告げずに出かけ、夜に戻ってきて、軽装のエラと浴室から出た瞬間にばったり会ったあの日のことだ。

ジェームズは、ルーリアとの会話も詳細に書き記していた。勿論、エラへの罵詈雑言も全て。

(それで…本人しか知らないことも知っていたのね…)


義母が、戦争に行った人間は顔貌が変わることもあるし、今までと違うような人間になるかもしれない、と最初からエラに言っていたこと。

戦争の間にジェームズと頻繁に手紙を交換していた義母が、彼が心を入れ替えた、と散々言い続けていたこと。

戻ってきたジェームズがまるで別人のように感じられたこと。

彼が執務室で仕事をするようになった後から、エラと思い出話も詳細に渡って話をするようになったこと。

ジェームズが使っていた部屋の私物が片付けられていたこと。


それぞれ点としての違和感だった出来事が、今やっと線として繋がった。




「エラ」

義母が囁いた。

「貴女は私を…愚かな母親だと、家の利益ばかり考えるような、人の心がない悪魔のような女だと、思うのでしょうね」

しおりを挟む
感想 230

あなたにおすすめの小説

わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない

鈴宮(すずみや)
恋愛
 孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。  しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。  その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

戻る場所がなくなったようなので別人として生きます

しゃーりん
恋愛
医療院で目が覚めて、新聞を見ると自分が死んだ記事が載っていた。 子爵令嬢だったリアンヌは公爵令息ジョーダンから猛アプローチを受け、結婚していた。 しかし、結婚生活は幸せではなかった。嫌がらせを受ける日々。子供に会えない日々。 そしてとうとう攫われ、襲われ、森に捨てられたらしい。 見つかったという遺体が自分に似ていて死んだと思われたのか、別人とわかっていて死んだことにされたのか。 でももう夫の元に戻る必要はない。そのことにホッとした。 リアンヌは別人として新しい人生を生きることにするというお話です。

元婚約者が愛おしい

碧井 汐桜香
恋愛
いつも笑顔で支えてくれた婚約者アマリルがいるのに、相談もなく海外留学を決めたフラン王子。 留学先の隣国で、平民リーシャに惹かれていく。 フラン王子の親友であり、大国の王子であるステファン王子が止めるも、アマリルを捨て、リーシャと婚約する。 リーシャの本性や様々な者の策略を知ったフラン王子。アマリルのことを思い出して後悔するが、もう遅かったのだった。 フラン王子目線の物語です。

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

処理中です...