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第4章 苦海の章
第179話 八面合戦
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暁降ち、西尾城の松平・水野連合軍は早朝より騒々しかった。なぜ騒がしいのかと問われれば、それは出陣の支度に追われていたからである。
「皆の者!これより我らは平坂街道を東進し、八ツ面城へ向かう!城主の荒川甲斐守は我が妹婿であり、吉良家出身の者ゆえ気後れしておる者も多かろう!じゃが、情けは無用じゃ!三河に無益な兵乱をもたらす者は何人たりとも放逐せねばならぬ!さあ、出陣じゃ!」
家康の演説に咆哮をあげ、西尾城の大手口より出撃していく松平・水野連合軍は高揚した戦意を抱いたまま途中で三手に分かれ、東へと進んでいく。一つは松平勢の先陣、もう一つは家康率いる先陣を除く松平勢。最後の一つが水野下野守信元率いる水野勢であった。
そうして最も数の少ない松平の先陣の行軍速度たるや疾風迅雷であり、家康や水野下野守の到着を待たずして、八ツ面城の正面に布陣し、城内の荒川勢に向けて鬨の声を上げたのである。
「申し上げます!」
八ツ面城の広間で朝餉の最中であった荒川甲斐守義広と正室の市場姫、そして三人の子供たちが仰天する大声で一人の武者が駆け込んでくる。それに驚き、末っ子の姫が声を上げて泣き始めてしまう。
「小平太!このたわけ者めが!姫が泣き出してしもうたではないか!」
「も、申し訳ございませぬ!されど、一大事にございます!」
「一大事じゃと!」
「はっ!丸に三つ葉葵の旗を掲げた軍勢、およそ五百が城外に布陣!鬨の声を上げ、今にも攻めかからんとしておる由!」
丸に三つ葉葵の旗を掲げた軍勢。それだけを聞けば、城主・荒川甲斐守も今傍らで娘をあやしている正室の異母兄・家康麾下の軍勢が攻め寄せてきたことはすぐにも理解しえた。
そして、市場姫は号泣する娘をあやし、あとの息子二人に大丈夫だと言い聞かせながらも、心の内ではついに兄が軍勢を率いてきたのだと、生きた心地がしなかった。
「五百ならば城におる主力だけでも撃退できよう」
「はい!城の守りに必要な兵を除けば、同数の兵を動員できまする!それを率いて打って出ましょうや!」
「それでよい!わし自ら行かずとも、そなたで事足りよう。ただちに兵を率いて打って出よ!敵もまさか打って出てくるとは思っておらぬであろうし、容易に陣形を崩せようぞ」
「そういたしまする!では、ご免!」
荒川家臣・馬場小平太は主君よりの許しを得ると、ただちに荒川勢を結集して城外へと繰り出す。
「門を開けっ!敵は城しか見ておらぬで油断しておる!一気に駆け散らしてしまえっ!」
馬場小平太の指示で開いた門より打って出た荒川勢は勢いよく城外の松平先陣と衝突。激しい白兵戦が展開されていく。荒川勢の勢いに恐れをなしたのか、たちまち松平先陣は西へと後退を開始する。
「へっ、敵は弱腰ぞ!このまま血祭りにあげてしまえっ!者ども、追うぞ!」
武功を稼ぐ絶好の機会。ようやく体が温まってきたところで敵が退き始めたこともあり、荒川勢は獲物に飢えた猛獣が逃げる獲物を追うように南西へ、南西へと進んでいく。
「ちっ、逃げ足の速い奴らめ!待てっ!待たぬか!」
荒川甲斐守の家臣で最も勇猛果敢な馬場小平太は自ら先陣を切り、逃げる松平勢へと追いすがる。あと少しで追いつくかと思われた刹那、北西と南東の二方向から鬨の声が発される。
「こ、小平太殿!北西のあの旗は!」
「厭離穢土欣求浄土……!家康自らやって来たと申すか!」
「小平太殿!南東より迫ってくる軍勢は水野沢瀉の旗!水野勢かと思われます!」
「くそっ、我らはまんまと誘い出されたということか!こうなっては致し方ない!追撃は中止!ただちに城へ戻れっ!戻るのだ!」
もはや馬場小平太たち荒川勢にとって、逃げる以外に選択肢はなかった。北西からは三倍近い松平本隊、南東からは四倍近い水野勢が直進してくるのであるから。
しかし、荒川勢が八ツ面城へ戻るなど、そうは問屋が卸さない。
手筈通りに南西へ後退していた松平先陣が絶妙な頃合いで荒川勢へ襲いかかり、退くに退けない状況へ追い込む。
「さすがは伯父上じゃ。こうまで綺麗に敵を罠にかけるとは……!皆の者!この好機を逃すでないぞ!かかれっ!」
家康の号令一下、旗本衆も含めた松平勢が総力を挙げて目の前の荒川勢を殺戮するべく、突撃を開始する。それに後れを取るまいと水野勢も槍先揃えて猛攻を仕掛け、荒川勢を殲滅していく。
八倍近い敵に三方向より総攻撃を開始されたのでは、もはや荒川勢に成す術などなかった。虎の子を仕留めようとしたら、左右から虎の両親に待ち伏せを喰らった猟師の末路たるや悲惨なものである。
「おのれっ!家康めっ!水野めっ!」
四方を取り囲まれた大将・馬場小平太は傷つきながらも、城を目指して移動していく。だが、次の瞬間には背部に幾筋もの矢を受け、落馬してしまう。
「敵方の大将をお見受けいたす!」
「荒川甲斐守が家臣!馬場小平太じゃ!来れる奴は何者ぞ!」
「拙者、松平蔵人佐家康が家臣!天野三郎兵衛康景なり!いざ!」
平時であれば勇将と名高き馬場小平太であったが、すでに大勢よりなぶられた後では勝負にすらならなかった。
瞬く間に勝敗が決し、馬場小平太の首元へ天野三郎兵衛の太刀が食い込んでいく。しばらくもみ合った末に、聞こえたのは天野三郎兵衛の雄叫びであった。
「敵将馬場小平太!天野三郎兵衛康景が討ち取ったり!」
天野三郎兵衛が右手に掲げる首級を見て、松平・水野連合軍は士気が最高潮に達し、対する荒川勢の士気はどん底へ転落していく。
馬頭原の戦いと同様、一方的な殲滅戦となった合戦模様は這う這うの体で八ツ面城へ逃げ込んだ足軽らの証言によって城主・荒川甲斐守へと報じられる!
「なにっ!馬場小平太が討たれ、打って出た味方の大半が討ち取られたと!?」
「はっ!敵は勢いに乗り、この城へ攻め寄せて参るかと……!」
そんな足軽の証言を頷けるように、城外からは四千近い敵が発する鬨の声が城内の者らを委縮させる。
「くっ!急ぎ守兵をかき集め、城の守りを固めさせよ!」
「はっ、ははっ!」
荒川甲斐守は苛立ちの籠った声で側にいた家臣へと守備を固めるよう厳命。家臣らは一礼して退出し、一家だけが取り残された広間は、そこだけが別次元へと隔離されたのかと思うほどに静寂な空間であった。
「あなた様、城攻めが始まるのでしょうか」
「案ずるな。そなたは子供たちの世話をしておればよい」
「は、はい」
市場姫は足元で状況が理解できず、周囲をきょろきょろと見回す三人の子供たちの頭をそっと撫で、安心させようと試みる。一方で、そのすぐ隣で胡坐をかく荒川甲斐守の心中は穏やかではなかった。
松平勢だけでなく、水野勢も加えた数千もの軍勢での城攻め。それは荒川甲斐守が考える中で、最悪の筋書きであった。城内の手勢は攻め手の十分の一にも満たない以上、ものの数日で城は焼け落ち、自分たちは虜囚とされてしまうのではないか。
悪い方へ考え始めると止まらないのが人間の性というものである。それは、吉良家という名門に生まれ、別家を興した荒川甲斐守とて同じ事であった。
「殿!城の外をご覧くださりませ!」
「城の外じゃと……?」
護衛として傍に近侍していた家臣が城の外を指さす。それにつられて、荒川甲斐守も格子窓より外へと視線を移す。すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「馬鹿な、北へ移動してゆく……!あり得ぬ、情けでもかけたつもりか……!?」
――もうお前など戦う価値もない。
そう言わんばかりに、松平・水野連合軍の姿が北へ北へと小さくなっていくのである。城を攻められ、今日明日にも落城するのだと思っていた荒川甲斐守は全身から力が抜けたように、床に座り込んだ。
「あなた様!」
夫の異変に気づいた市場姫が駆け寄り、抱き起こす。荒川甲斐守はそんな愛妻へ言い聞かせるように言葉を発した。
「ははは、そなたの兄は我らを滅ぼすつもりはないそうな。見よ、北へ悠々と引き揚げていくわ……」
「お気を確かに!」
極限まで張り詰めていた緊張の糸が切れた代償は大きかった。市場姫は家臣らに命じて夫を寝所まで運ばせると、小さくなってしまった兄の軍勢を涙ながらに見送るのだった。
そうして荒川勢に対して完封勝利を収めた家康は水野家の援軍とともに北上して何処へ向かったのか。それは矢矧川を渡河してすぐにある藤井城であった。
「勘四郎殿はおられるか!」
「これは、蔵人佐殿!そして下野守殿!昨日、大軍で矢矧川を渡河し、西尾城へ向かったことは存じておりまするが、当城へ立ち寄られたということはすでに合戦は終わられたのでしょうや」
「うむ。つい先刻八ツ面城の荒川勢を完膚なきまでに叩きのめしてやったところじゃ」
「左様にございましたか。さっ、立ち話も何でございます。ひとまず、城内で休息を取っていかれてはいかがか」
家康より三ツ年上で齢二十六となる藤井松平家当主・松平勘四郎信一の言語態度たるや堂々たるものであった。しかし、家康はその申し出を謝絶し、一つ別な願い事を告げていく。
「すまぬが、本日中にもう一合戦せねばならぬ。その合戦に貴殿にも参陣してもらおうと思い、立ち寄ったのじゃが」
「……なるほど。蔵人佐殿にそう申されては、否とは申せませぬ。当家の軍勢は五百に満たぬ小勢なれど、存分にお使いくだされ」
「うむ。すまぬが、これも一向一揆を鎮めんがための戦じゃ」
「そのことは十二分に理解しておりまする。そうでなければ、目と鼻の先に野寺本證寺がある当家も一揆方に与しておりましょうほどに」
「いや、それもそうじゃ。では、ともに参ろうぞ」
織田軍との戦いぶりで名声を高め、尾張・三河に武名を轟かせた松平勘四郎が参陣する。その意義は兵士らの士気を鼓舞することも狙いのうちであったが、そもそも勇将・松平勘四郎を加えることで勝率をより高めることが第一の狙いでもあった。
家康は藤井松平勢も加えると、藤井城を出陣。野寺本證寺攻めを開始するかに思われた。しかし、これまた連合軍の進む先は異なっていた。まるで野寺本證寺を無視するかのように隊列を組んで行軍し、素通りしていくのである。
「蔵人佐殿、野寺本證寺を攻められぬですか」
「勘四郎殿とてよく存じておろう。野寺本證寺は本堂と寺内町を堀と土塁で囲み、さながら城郭のようじゃ。それを力攻めなどしては、犠牲など計り知れぬ。兵らを死ぬことが分かり切っている戦場へ投じるのは、わしとしても心苦しいのじゃ」
家康の説明は松平勘四郎にも納得のいく内容であった。数が十倍以上いるとはいえ、城のように守りを固められている野寺本證寺を力攻めなどしては、多くの死傷者を出すことは容易に想像がつく。
しかし、その行為は武士でもない野寺本證寺の僧兵らに屈辱を塗りつけ、怒髪衝天して怒らせるのには十分すぎた。
「おのれ!家康めっ、我らの眼前を悠々と通り過ぎるなど侮るのも大概にせよ!」
「我らも土呂や針崎、佐々木の味方と同じく容易に捻り潰せると見くびっておるのであろう!許せぬ!」
「仏敵松平め!無間地獄に落としてくれよう!」
もはや野寺本證寺の住持・空誓であっても薙刀を片手に打って出ようとする僧兵や門徒武士らを制御することは不可能であった。
「上人、燃え滾る僧兵どもや武士らを静止することは難しいかと思われます。もはや打って出て一戦交えるよりほかはございません」
「……やはりそうなりましたか。では、支度をいたしましょう」
野寺本證寺へ合流していた桜井円光寺の住持・順正に促され、ついに総大将として担ぎ上げられた空誓も出撃を決め、武装を開始する。法衣に鎧を重ね、秘蔵の鉄棒を手に取る。
冷静沈着を装う空誓であったが、すぐ隣で樫木の八角の大棒を引っ提げて立つ桜井円光寺の住持・順正と同じく怪力の持ち主として名が通っていた。そんな二人が先頭に立ち、野寺本證寺を出撃したことは大いに一揆勢を勇気づけた。
「さあ、今こそ仏敵松平家康を討滅する時!かかりなさい!」
空誓の号令で三百余りの人数が松平・水野連合軍へ遮二無二突進を開始すると、それに気づいた連合軍は鮮やかに反転し、迎撃を開始する。
「皆の者!まんまと我らに手向かう賊が釣りだせたぞ!ここで勝利すれば、三河の四ヶ寺すべての主力を撃滅したこととなる!この戦で一向一揆を幕引きとする気概で臨めっ!」
馬首を反転させた家康が馬上で刀を抜いて兵たちを鼓舞し終えると、野寺本證寺の一揆勢との決戦が幕を開けるのであった――
「皆の者!これより我らは平坂街道を東進し、八ツ面城へ向かう!城主の荒川甲斐守は我が妹婿であり、吉良家出身の者ゆえ気後れしておる者も多かろう!じゃが、情けは無用じゃ!三河に無益な兵乱をもたらす者は何人たりとも放逐せねばならぬ!さあ、出陣じゃ!」
家康の演説に咆哮をあげ、西尾城の大手口より出撃していく松平・水野連合軍は高揚した戦意を抱いたまま途中で三手に分かれ、東へと進んでいく。一つは松平勢の先陣、もう一つは家康率いる先陣を除く松平勢。最後の一つが水野下野守信元率いる水野勢であった。
そうして最も数の少ない松平の先陣の行軍速度たるや疾風迅雷であり、家康や水野下野守の到着を待たずして、八ツ面城の正面に布陣し、城内の荒川勢に向けて鬨の声を上げたのである。
「申し上げます!」
八ツ面城の広間で朝餉の最中であった荒川甲斐守義広と正室の市場姫、そして三人の子供たちが仰天する大声で一人の武者が駆け込んでくる。それに驚き、末っ子の姫が声を上げて泣き始めてしまう。
「小平太!このたわけ者めが!姫が泣き出してしもうたではないか!」
「も、申し訳ございませぬ!されど、一大事にございます!」
「一大事じゃと!」
「はっ!丸に三つ葉葵の旗を掲げた軍勢、およそ五百が城外に布陣!鬨の声を上げ、今にも攻めかからんとしておる由!」
丸に三つ葉葵の旗を掲げた軍勢。それだけを聞けば、城主・荒川甲斐守も今傍らで娘をあやしている正室の異母兄・家康麾下の軍勢が攻め寄せてきたことはすぐにも理解しえた。
そして、市場姫は号泣する娘をあやし、あとの息子二人に大丈夫だと言い聞かせながらも、心の内ではついに兄が軍勢を率いてきたのだと、生きた心地がしなかった。
「五百ならば城におる主力だけでも撃退できよう」
「はい!城の守りに必要な兵を除けば、同数の兵を動員できまする!それを率いて打って出ましょうや!」
「それでよい!わし自ら行かずとも、そなたで事足りよう。ただちに兵を率いて打って出よ!敵もまさか打って出てくるとは思っておらぬであろうし、容易に陣形を崩せようぞ」
「そういたしまする!では、ご免!」
荒川家臣・馬場小平太は主君よりの許しを得ると、ただちに荒川勢を結集して城外へと繰り出す。
「門を開けっ!敵は城しか見ておらぬで油断しておる!一気に駆け散らしてしまえっ!」
馬場小平太の指示で開いた門より打って出た荒川勢は勢いよく城外の松平先陣と衝突。激しい白兵戦が展開されていく。荒川勢の勢いに恐れをなしたのか、たちまち松平先陣は西へと後退を開始する。
「へっ、敵は弱腰ぞ!このまま血祭りにあげてしまえっ!者ども、追うぞ!」
武功を稼ぐ絶好の機会。ようやく体が温まってきたところで敵が退き始めたこともあり、荒川勢は獲物に飢えた猛獣が逃げる獲物を追うように南西へ、南西へと進んでいく。
「ちっ、逃げ足の速い奴らめ!待てっ!待たぬか!」
荒川甲斐守の家臣で最も勇猛果敢な馬場小平太は自ら先陣を切り、逃げる松平勢へと追いすがる。あと少しで追いつくかと思われた刹那、北西と南東の二方向から鬨の声が発される。
「こ、小平太殿!北西のあの旗は!」
「厭離穢土欣求浄土……!家康自らやって来たと申すか!」
「小平太殿!南東より迫ってくる軍勢は水野沢瀉の旗!水野勢かと思われます!」
「くそっ、我らはまんまと誘い出されたということか!こうなっては致し方ない!追撃は中止!ただちに城へ戻れっ!戻るのだ!」
もはや馬場小平太たち荒川勢にとって、逃げる以外に選択肢はなかった。北西からは三倍近い松平本隊、南東からは四倍近い水野勢が直進してくるのであるから。
しかし、荒川勢が八ツ面城へ戻るなど、そうは問屋が卸さない。
手筈通りに南西へ後退していた松平先陣が絶妙な頃合いで荒川勢へ襲いかかり、退くに退けない状況へ追い込む。
「さすがは伯父上じゃ。こうまで綺麗に敵を罠にかけるとは……!皆の者!この好機を逃すでないぞ!かかれっ!」
家康の号令一下、旗本衆も含めた松平勢が総力を挙げて目の前の荒川勢を殺戮するべく、突撃を開始する。それに後れを取るまいと水野勢も槍先揃えて猛攻を仕掛け、荒川勢を殲滅していく。
八倍近い敵に三方向より総攻撃を開始されたのでは、もはや荒川勢に成す術などなかった。虎の子を仕留めようとしたら、左右から虎の両親に待ち伏せを喰らった猟師の末路たるや悲惨なものである。
「おのれっ!家康めっ!水野めっ!」
四方を取り囲まれた大将・馬場小平太は傷つきながらも、城を目指して移動していく。だが、次の瞬間には背部に幾筋もの矢を受け、落馬してしまう。
「敵方の大将をお見受けいたす!」
「荒川甲斐守が家臣!馬場小平太じゃ!来れる奴は何者ぞ!」
「拙者、松平蔵人佐家康が家臣!天野三郎兵衛康景なり!いざ!」
平時であれば勇将と名高き馬場小平太であったが、すでに大勢よりなぶられた後では勝負にすらならなかった。
瞬く間に勝敗が決し、馬場小平太の首元へ天野三郎兵衛の太刀が食い込んでいく。しばらくもみ合った末に、聞こえたのは天野三郎兵衛の雄叫びであった。
「敵将馬場小平太!天野三郎兵衛康景が討ち取ったり!」
天野三郎兵衛が右手に掲げる首級を見て、松平・水野連合軍は士気が最高潮に達し、対する荒川勢の士気はどん底へ転落していく。
馬頭原の戦いと同様、一方的な殲滅戦となった合戦模様は這う這うの体で八ツ面城へ逃げ込んだ足軽らの証言によって城主・荒川甲斐守へと報じられる!
「なにっ!馬場小平太が討たれ、打って出た味方の大半が討ち取られたと!?」
「はっ!敵は勢いに乗り、この城へ攻め寄せて参るかと……!」
そんな足軽の証言を頷けるように、城外からは四千近い敵が発する鬨の声が城内の者らを委縮させる。
「くっ!急ぎ守兵をかき集め、城の守りを固めさせよ!」
「はっ、ははっ!」
荒川甲斐守は苛立ちの籠った声で側にいた家臣へと守備を固めるよう厳命。家臣らは一礼して退出し、一家だけが取り残された広間は、そこだけが別次元へと隔離されたのかと思うほどに静寂な空間であった。
「あなた様、城攻めが始まるのでしょうか」
「案ずるな。そなたは子供たちの世話をしておればよい」
「は、はい」
市場姫は足元で状況が理解できず、周囲をきょろきょろと見回す三人の子供たちの頭をそっと撫で、安心させようと試みる。一方で、そのすぐ隣で胡坐をかく荒川甲斐守の心中は穏やかではなかった。
松平勢だけでなく、水野勢も加えた数千もの軍勢での城攻め。それは荒川甲斐守が考える中で、最悪の筋書きであった。城内の手勢は攻め手の十分の一にも満たない以上、ものの数日で城は焼け落ち、自分たちは虜囚とされてしまうのではないか。
悪い方へ考え始めると止まらないのが人間の性というものである。それは、吉良家という名門に生まれ、別家を興した荒川甲斐守とて同じ事であった。
「殿!城の外をご覧くださりませ!」
「城の外じゃと……?」
護衛として傍に近侍していた家臣が城の外を指さす。それにつられて、荒川甲斐守も格子窓より外へと視線を移す。すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「馬鹿な、北へ移動してゆく……!あり得ぬ、情けでもかけたつもりか……!?」
――もうお前など戦う価値もない。
そう言わんばかりに、松平・水野連合軍の姿が北へ北へと小さくなっていくのである。城を攻められ、今日明日にも落城するのだと思っていた荒川甲斐守は全身から力が抜けたように、床に座り込んだ。
「あなた様!」
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「ははは、そなたの兄は我らを滅ぼすつもりはないそうな。見よ、北へ悠々と引き揚げていくわ……」
「お気を確かに!」
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そうして荒川勢に対して完封勝利を収めた家康は水野家の援軍とともに北上して何処へ向かったのか。それは矢矧川を渡河してすぐにある藤井城であった。
「勘四郎殿はおられるか!」
「これは、蔵人佐殿!そして下野守殿!昨日、大軍で矢矧川を渡河し、西尾城へ向かったことは存じておりまするが、当城へ立ち寄られたということはすでに合戦は終わられたのでしょうや」
「うむ。つい先刻八ツ面城の荒川勢を完膚なきまでに叩きのめしてやったところじゃ」
「左様にございましたか。さっ、立ち話も何でございます。ひとまず、城内で休息を取っていかれてはいかがか」
家康より三ツ年上で齢二十六となる藤井松平家当主・松平勘四郎信一の言語態度たるや堂々たるものであった。しかし、家康はその申し出を謝絶し、一つ別な願い事を告げていく。
「すまぬが、本日中にもう一合戦せねばならぬ。その合戦に貴殿にも参陣してもらおうと思い、立ち寄ったのじゃが」
「……なるほど。蔵人佐殿にそう申されては、否とは申せませぬ。当家の軍勢は五百に満たぬ小勢なれど、存分にお使いくだされ」
「うむ。すまぬが、これも一向一揆を鎮めんがための戦じゃ」
「そのことは十二分に理解しておりまする。そうでなければ、目と鼻の先に野寺本證寺がある当家も一揆方に与しておりましょうほどに」
「いや、それもそうじゃ。では、ともに参ろうぞ」
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「さあ、今こそ仏敵松平家康を討滅する時!かかりなさい!」
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「皆の者!まんまと我らに手向かう賊が釣りだせたぞ!ここで勝利すれば、三河の四ヶ寺すべての主力を撃滅したこととなる!この戦で一向一揆を幕引きとする気概で臨めっ!」
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フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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