不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第178話 西尾城からの救援要請

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 針崎勝鬘寺へ偵察に赴いた石川又四郎重政が銃撃されて岡崎城へ担ぎ込まれたことは、すぐにも家康にも伝わり、見舞いと称して彼のもとを訪れていた。

「又四郎、傷は痛むか」

「はっ、ははっ。されど、幸い弾は取り出せましたゆえ、あとはしばらく安静にしておれば治るであろうとの見立てを受けてもおります」

「ならば安堵した」

 傷口を包帯で巻かれて横たわる石川又四郎より傷の具合を聞き、思っていたほどの重傷ではなかったようで安堵した家康。傷ついた家臣を労わりながらも、偵察はどうであったか、その時の様子をゆっくり報告させていく。

「そうか。待ち伏せておったのは半之丞や半蔵、助太夫らであったか」

「はっ、はい。同道してくれた根来重内殿、布施吉次殿の両名は討たれ、自分と郎党らだけがおめおめと逃げ帰ってきてしまい……」

「そう恥じることもあるまい。わしも先月、あ奴らの伏兵にしてやられ、山中を彷徨ったほどじゃ。よくぞ生きて帰って参った。郎党らに感謝せねばなるまい」

「はい。それは、もう……。ただ、郎党らから聞いたところ、妙なことが」

 ――妙なこと。

 その一言に、家康は神経を尖らせる。一体、石川又四郎が郎党から何を聞いて妙だと思ったのか。その点が気にかかるのである。

「妙なこととはなんじゃ。申してみよ」

「はい。それが、追い討ちがなかったというのです」

「追い討ちがなかったと?」

「はい。その場で抵抗した者らは皆討ち取られましたが、逃げた者らには構うことなく針崎へ引き揚げていったというのです」

 手負いの獲物を獲物に飢えた猛獣が逃した。それくらい妙なことである、というのが石川又四郎の所感であり、家康も同感であった。

「ひょっとすると、勝鬘寺の一揆勢は後詰めを警戒したのやもしれぬ。これ以上の敵が潜んでいたとするならば、今の数では全滅の恐れがあると判断したのではなかろうか」

「あり得まする。某は二十五名ばかりで向かいましたが、郎党らの申すところでは敵も三十ほどであったとのこと。いくら伏兵とは申せ、かなり危うい賭けであると感じまする」

「それ以上の数をすぐには動かせない。それだけ消耗しているということか」

 石川又四郎からの報告の内容を総合すると、家康も頷けるものがあった。確かに、多くの死傷者を出したが、針崎勝鬘寺の一揆勢は寺を防衛するので手一杯であるという確証が得られただけでも大変な収穫である。

「又四郎、ご苦労であった。とにもかくにも今は休養を取れ。こちらは一揆勢と違って戦力は揃っておるゆえな」

「はっ、傷が癒えるまでは殿のお申しつけを守りまする。どうかご武運を」

 老骨に鞭打ち偵察してきた石川又四郎の情報を活かさないわけにはいかなかった。

 主力を壊滅させた土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、佐々木上宮寺が大人しくなった今、野寺本證寺を攻め潰せば、一向一揆勢など敵ではなくなる。

 あとは、離反した東条城の吉良義昭、妹婿の荒川甲斐守義広、幡豆郡寺部城主の小笠原左衛門佐広重、桜井の松平監物家次、大草の松平昌久、上野城の酒井将監忠尚を屈服させれば西三河を鎮定できる。

 そこまで目算できる段階まで来たのならば、家康は次の標的を野寺本證寺へと定め、戦支度にかかっていく。

 石川又四郎が偵察をした日より五日が経過した二月八日。野寺本證寺攻めに向けて甲冑を着込んでいる家康のもとへ、至急救援を要請する使者が到着する。

「殿!西尾城の酒井雅楽助殿よりの使者が到着しております!」

「何っ、西尾城からか!」

 使者の到着を告げる石川与七郎数正の表情からただ事ではないと察知した家康は慌てて使者のいる広間へと足早に向かう。

 家康が広間へ足を踏み入れると、そこには真冬の冷え切った大広間の床にじっと正座している見知った少年の姿があった。

「西尾城からの使者とはそなたであったか」

「はっ、父の命を受けて参上しました!酒井重忠にございまする!」

「よくぞ参った。口上は省く。用向きを申してみよ」

 西尾城から参った十六歳の使者・酒井重忠は深く息を吐きだすと、上座の家康と視線を合わせる。

「然らば、言上仕ります。父が籠もる西尾城の兵糧はあと数日を残すのみ。一向一揆の蜂起により岡崎城との連絡路が遮断されてしまい、今日ようやく支援を要請する使者を派遣できました」

「そ、その口ぶりでは以前にも要請の使者を出したのだな」

「はい!されど、道中で捕らえられてしまうばかり。されど、殿が土呂と針崎の一揆勢を壊滅させたことで、ようやく某も岡崎城へ支援を要請しに参れた次第」

 幾度も西尾城から援軍要請の使者が発されていたが、今の今まで家康も知らなかった。それは道中で一揆勢に阻まれていたから仕方ないとしても、股肱の臣が守る城で兵糧が枯渇していると聞いてはどうあっても罪悪感に苛まれてしまう。

「このままではあと二、三日もすれば兵糧が尽きて皆餓死してしまいまする!どうか何卒!何卒!父を、城の者らをお救いくださいませ!」

 純真な少年からの嘆願に家康は静かに頷き、そっと酒井重忠の方へ手を置いた。

「よくぞ伝えてくれた。そなたの父はな、わしが生まれた時にへその緒を切る胞刀の役を務め、駿府まで付き従ってくれた股肱の臣じゃ。その股肱の臣が今も飢えに耐えて城を堅守しているのだと知っては、居ても立ってもおられぬわ!」

 家康は足元で泣き伏す酒井重忠に笑いかけると、傍らで巌のように動かず侍している石川与七郎へと視線を移し、声を張り上げる。

「与七郎!ただちに兵糧をかき集めよ!渡砦の鳥居党へは渡河するため川沿いの警固を固めること、苅谷城の伯父上へも援軍を要請するのじゃ!」

「ははっ!もとより野寺本證寺を攻めるつもりにございましたゆえ、兵糧も兵の支度も万事整っておりますれば!今日中にも二千で出陣できまする!」

「よし、ならば渡砦と苅谷城への早馬を派遣し、兵らにも出陣を触れて参れ!」

「委細承知仕りました!」

 それまで微動だにしなかった石川与七郎であったが、家康からの命を受けると忍びのように姿を消し、出陣に向けての調整を開始する。その仕事ぶりに感心しつつ、家康も近侍たちを結集して出陣の支度を整えていく。

「重忠、そちもついて参れ!父もそなたの無事を案じておるであろうゆえな」

「ははっ!然らば、お供させていただきまする!」

 眼から溢れる雫をごしごしと袖で拭うと、不安を払拭した少年・酒井重忠は威勢よく返事をする。

 そうして極めて迅速に出陣の支度を整えた家康は二千もの兵を引き連れて岡崎城を出陣。先頭を行く家康の金溜塗具足が陽の光を受けて眩しい光を放ち、厭離穢土欣求浄土の旗は冬の風を受けて勇ましく靡く。

「殿!進路はいかがなされまするか!」

「そうじゃな、西尾城へ到着するまで敵と交戦することは避けたい。苅谷からの援軍との合流も考慮し、遠回りとなるが西尾街道へと迂回することとしようぞ」

「なるほど、それゆえ渡で矢矧川を渡河するのですな」

「さすがは三郎兵衛。気づいたか。そうじゃ、ここで矢矧川を渡河しておけば、西尾城までの道のりで渡河は最小限となる」

 地形を考慮したうえで、迅速に行軍路を決断する主君・家康の判断に天野三郎兵衛康景は舌を巻いた。何より、連歌師・宗長の句にもある『急がば回れ』の訓えを体現しているのは見事と言うほかなかった。

 かくして鳥居党の協力を得て渡にて無事矢矧川を渡河した家康率いる二千の軍勢は安祥ヶ原の西野を通過して西尾街道方面へ迂回して進軍。

 順調に行軍し、西尾街道へ差し掛かると松平勢とほぼ同数の軍勢が水野沢瀉の旗を掲げて進んでくるところであった。

「蔵人佐殿、要請通り援軍を引き連れて参った」

「伯父上、此度も援軍いただきかたじけござらぬ」

「ははは、よいよい。前にも申したが、松平と水野は一蓮托生じゃ。礼がしたいのであらば、当家の窮地に駆け付けてくれればそれでよいわ」

「では、そういたしまする。この借りは必ずやお返しいたしまする」

 馬上にて松平蔵人佐家康・水野下野守信元の両大将は言葉を交わすと、馬を並べて西尾街道を南進していく。それに続く、松平・水野連合軍は四千近い兵数が黒い一個の塊となって土煙をあげながら猛進していく。

「蔵人佐殿、此度は西尾城の救援と承っておるが、仔細やいかに」

「まずは当家が持って参った兵糧を西尾城へ入れ、一晩敵方の動きを見定めたうえで明日は八ツ面城の荒川甲斐守へ戦を挑むつもりにございますれば」

「荒川甲斐守と申せば、蔵人佐殿の妹が嫁いでおったであろう。妹の嫁ぎ先を攻めることにためらいはないか」

「ないといえば偽りになりまする。妹と荒川甲斐守は仲睦まじく、子も三人おると聞いておりますゆえ、さぞかし恨まれるでしょうが、身内だからと情けをかけては領国を治めることは叶いませぬ」

 家康が一層強く手綱を握っているのに気付いた水野下野守は、それ以上深くは聞かぬこととし、話題を変えて甥っ子とのやり取りを続けていく。

 そうしているうちに再び矢矧川を渡河する地点へ到着し、敵方の妨害を一切受けることなく西尾城へと入城した。

「殿!これほど早く援軍を入れていただけるとは思っておりませなんだ……!」

「雅楽助、泣くでない。そなたの倅から詳しい経緯は聞いておる。よくぞわしが援軍に来るまで耐え抜いてくれた。家康、心底より礼を申すぞ」

 広間で泣き崩れる酒井雅楽助政家に片膝ついて今日までの奮戦を労う家康。

 齢四十三にもなり、より一層涙もろくなった酒井雅楽助を慰めながら、家康は自分が生まれた頃から付き従ってくれている目の前の老臣を優しく労いの言葉をかけていく。それを聞き、一層酒井雅楽助は声を上げて泣く、そんな循環が形成されていく。

「もっ、勿体なきお言葉……!此度お届けくださった兵粮があれば、あと一月は凌げましょう」

「それでも一月か。やはり決着は急がねばならぬか」

「はっ、東条城や幡豆郡寺部城が敵方として健在ですし、目と鼻の先にある八ツ面城は特に捨て置けませぬ」

「よし、案ずるな。この家康が来たからには、荒川甲斐守如き小者に調子づかせるようなことは断じてさせぬ。二度とそなたを攻めようなどとは思えぬほど、徹底的に叩き潰してくれるわ」

 常の家康を知る酒井雅楽助にとって、家康の怒気を帯びたその言葉は、家康が腹の底から怒っているのだということが感じ取れてしまう。それゆえの危うさというものも同時に感じてしまうのも、老臣の性かもしれなかった。

「殿、怒りに任せての城攻めだけはなりませぬ。何事も中庸が大事にございますれば」

「むっ、怒るなという説教ではなく、怒りすぎて我を忘れるなとの訓戒であるか」

「はい。某も若い頃は石川安芸守様や鳥居伊賀守様にそれはもう諭されたものです」

「よし、ならば安芸守や伊賀守からの訓えでもあるならなおさらじゃ。よく胸に刻み込んでおこうぞ」

 老臣たちから酒井雅楽助へ、酒井雅楽助から家康へ。老人たちから若者へと引き継がれていく訓え。それを胸に、家康は一晩西尾城に陣を張り、じっと八ツ面城を睨みつけていた。

「蔵人佐殿、何を考えておる」

 そう背後から呼びかけたのは伯父・水野下野守であった。水野下野守は家康のすぐ隣へ床几を並べると、静かに頭上の月を見上げた。

「伯父上、今宵は何用にございまするか」

「ははは、用がなくては甥の顔を見に来てはならぬのか」

「いえ、そのようなことは」

 家康がかぶりをふると、水野下野守は豪快に肩を揺らして笑う。

「まあ、用ならばある。明日の八ツ面城攻めがことじゃ」

「なるほど。して、いかなるお考えにございますか」

「うむ。蔵人佐殿の目的は荒川甲斐守が西尾城を攻撃できぬようにすることであろう」

「はい。そのためにも、いかにしてあの城を攻め落としてくれようかと先ほどから寝ずに考えておりました」

「若い」

「は?」

「若いと申したのじゃ。若い奴は無駄に力を使いたがる悪癖がある。よいか、いかにすれば手を抜いて同じ成果を挙げられるか、そこをもそっと考えてみよ」

 少し馬鹿にされたようにも感じるが、家康は自分が力みすぎていることに指摘されてみてようやく気付くことができた。

「わしの考えた策じゃが、これならば犠牲を最小限に抑えつつ、城内の荒川勢に壊滅的な被害を与えられよう」

「小賢しい伯父上の策、聞かせていただきましょう」

「小賢しいは余計じゃ。まあ、聞く気になったのならばそれでよい」

 水野下野守が教示した策。それを聞き、自分では考えつきもしなかった策に、家康もにやりと笑みを浮かべるのであった――
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