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第4章 苦海の章
第183話 幡豆小笠原氏の屈服と妹婿との別れ
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家康が桜井松平家を服属させた永禄七年三月。
この月、関東では上杉弾正少弼輝虎が信濃での武田軍の動きを察知して上野国和田城攻めを取りやめ、本国越後へと帰国。
同じ頃には日本の副王とも呼ばれ、畿内を制する天下人・三好修理大夫長慶の権勢にも陰りが見え始めていた。
そして家康とも近いところでいえば、三日には同盟者・織田上総介信長の実父である織田備後守信秀の十三回忌を迎えたといったところであろうか。それは信長が当主となってから十二年の歳月が経過したことと同義であった。
ともあれ、そんな日本各地で様々な動きがある中で、岡崎城の家康のもとへ訃報が届けられる。
岡崎城の家康を訪ねてきたのは一向一揆蜂起時に援軍として駆け付けて三河池尻の地を加増された本多修理亮光忠。その弟・隼人佑忠次の両名であった。
「おお、これは修理亮殿。それに、隼人佑殿もお越しとは、さては東三河で変事が起こったのでござろうか」
「変事と申せば変事にございまする。去る四日、父の助太夫忠俊が居城である宝飯郡伊奈城にて息を引き取りましてございます」
「なんと、そうであったか。助太夫殿が亡くなられたか……。家康、心底よりお悔やみ申し上げる」
「殿よりそのように仰っていただければ、泉下で父も浮かばれましょう」
父が亡くなる様を思い出したのか、涙腺を崩壊させる弟・隼人佑を尻目に感謝の言葉を述べる本多修理亮。だが、彼としても慕ってきた父を失ったことは悲しいに違いなかった。
「それで、此度岡崎へ登城したは父の訃報を報せるためだけではございませぬ」
「そうであろうな。訃報を報せるだけならば、書状を使者に届けさせるであろう。わしもそなたら兄弟が揃ってこれへ参ると左衛門尉より知らされた時点で直に知らせたい何かがあるのではと考えておった」
「さすがは殿にございます。実は家督のことで相談したきことがあり、お許しをいただくべく登城して参った次第にございます」
「ほう、家督がことか。当然、長男でもある修理亮殿が継承なされるのが筋じゃと思うが、そうではないのか」
家康の言葉に首肯する本多修理亮・隼人佑兄弟。死去した本多助太夫の長男が修理亮で、隼人佑は三男。となれば、当然長男である本多修理亮が家督を継承する。それが武家社会の常識であった。
「いかにも。されど、某は所労もあり、当主の務めが全うできるとも思えませぬ。それゆえに、ここにおる弟の隼人佑に家督を継がせたいのです。そのお許しとお墨付きをいただきたく、こうして殿を訪ねて参った次第」
本人の申す通り、本多修理亮は先日会った時よりも頬のあたりの肉が落ちたのをはじめ、全体的にやせ細ったようにも見える。
それだけに、家康としても本多修理亮が実の弟である隼人佑へ家督を継承させたいと考えるのは無理もないと感じた。
「良かろう。所労とあっては致し方なきこと。ゆえ、本多隼人佑忠次が家督を継承することを認めようぞ」
「ありがとう存じます」
「殿!これからは兄の分も奉公して参る所存にございます!今後ともよろしくお頼み申します!」
本多修理亮光忠・本多隼人佑忠次の兄弟からの願いを受け入れ、家督相続のことを認めた家康。
まだ齢十八と若い本多隼人佑が宝飯郡伊奈城主となることに不安がないわけではなかったが、その点については家老の酒井左衛門尉忠次も近くにいるので大丈夫であろうと判断してのことであった。
「それと殿に報告したきことがございます」
「なんじゃ、隼人佑。報告とは」
「はい。実はこちらへ参る前に兄の修理亮ともう一人の兄である光典とも相談したうえでのことなのですが、家臣の戸田小栗を吉田城へ派遣いたしました」
「なに、吉田城とな!?」
吉田城といえば、今川氏の東三河支配の最重要拠点であり、城代として大原肥前守資良が入り、今なお頑強に抵抗を続けている地である。そこへ、使者を派遣したとは一体どういうことなのか、家康は目を見張った。
「当家が今川家へ従属していた頃、某は人質として吉田城で幾度と大原肥前守と会っておりますゆえ、その伝手を活かして降伏を呼び掛ける使者を派遣したのでございます」
「なるほどの。して、首尾は?」
本多隼人佑は静かに首を横に振り、家康の言葉への返答とした。さすがに今川家の重臣・大原肥前守がそう易々と説得に応じるはずもなかった。
「相分かった。ならば、説得は以後も続けよ。一度上手くいかなかったからと諦めてはならぬ。堅牢な吉田城を攻めずに済むなら、それに越したことはないのじゃ」
「では、居城へ戻り次第、再び戸田小栗を吉田城へ向かわせまする」
「うむ。首尾よく参れば、知行も加増することを約束するゆえ、励んでくれよ」
知行の加増を約束されたこともあり、伊奈城の本多兄弟は一層吉田城代・大原肥前守の説得を粘り強く続けていくことになる。
そうして永禄七年三月も目まぐるしく過ぎていく。家康は西三河での敵対者を屈服させていきながら、帰参した家臣たちの処遇や東三河経略についても熟慮していく必要があった。
卯月へと月が替わった頃、家康は今川方へ攻勢をかけるべく、戦支度に追われていた。その真っただ中の四月七日。一つの戦がまた終わりを迎えようとしていた。
「蔵人佐殿……いえ、殿!此度は我らの請いを容れていただき、ありがとう存じまする!」
岡崎城の広間にて額を床にこすりつけんばかりに頭を下げているのは正装に身を包んだ幡豆郡寺部城主・小笠原左衛門佐広重。
その隣で同じく頭を下げているのは、彼の舅で齢五十四になる幡豆郡欠城主・小笠原摂津守安元とその子で齢三十二となる小笠原丹波守安次の両名であった。
「うむ。そなたの舅である摂津守が荒川甲斐守の抑えを担った功績でもって婿であるそなたの赦免を願い出て参ったゆえ、それを聞き入れたまでのこと。そなたが感謝せねばならぬのは、舅の方じゃ」
「はっ、ははっ!今後は殿のもとで誠心誠意奉公させていただきまする!」
「それでよい。先に使者にも述べさせたとおり、そなたら幡豆郡の小笠原一族は所領安堵といたす。一切処罰はせぬものとする。されど、左衛門佐。そなたの顔を見る限り、いっそのこと罰を受けた方が良かったと言いたげな顔をしておる」
「はっ、はい……!」
「そう思うならば、今後の東三河経略で功を立てよ。周囲から離反した者じゃと疑惑の眼差しを向けられるであろうが、それをも払しょくする働きをしてみせよ。それがわしのためでもあり、何よりそなたのためともなる。良いな?」
「ははっ!この小笠原左衛門佐広重、これよりの東三河経略で殿をもあっと言わせる戦をしてみせまする!」
それでよい、と小笠原左衛門佐の言葉を聞き、家康は首肯する。そのやり取りを側で聞いていた小笠原摂津守・丹波守父子も安心したのか、ほっと胸をなでおろしていた。
「そうじゃ、丹波守」
「はいっ!」
「そなたの妻は深溝松平家の出であったな」
「いかにも。三年前の善明堤の戦いにて討ち死にいたしました松平大炊助好景殿の娘を正妻としておりますれば」
「うむ。くれぐれも妻の実家との付き合いは大事にせよ。左衛門佐のように、妻の実家がそなたの助けとなることもあるやもしれぬ」
「お言葉、肝に銘じておきまする」
家康からの言葉を素直に受け取る小笠原丹波守。その様子に、名が出た小笠原左衛門佐は少し気恥しそうに頬をかき、小笠原摂津守がそんな娘婿の背中を強く叩き、豪快に笑う。実に同族同士仲の良い空間が形成されていた。
だが、その中で一人、家康は小笠原丹波守にかけた言葉をじっくりと味わい直していた。
なぜなら、妻の実家との付き合いを大事にせよと言った自分もかつて関口家の引き立てで今川家では親類衆という立場を手に入れた過去があったためである。
しかし、その関口家との連絡も途絶えて久しい。風の便りでは、自分が今川家を離反してしまったことですっかり今川家中での発言力はなくなってしまい、事あるごとに内通を疑われていると耳にしているからだ。
――世話になった関口刑部少輔氏純とその夫人は今そうしているのだろうか。
今川方と戦うたびにちくりと胸が痛む。何せ、二人の長女・駿河御前は岡崎城近くの築山にある屋敷で子どもたちと幸せに暮らしているのだから。戦場に居ても、妻子と会っても家康の胸を針で刺すような痛みは消えることなどなかった。
「――殿、では我らはこれにて失礼いたしまする」
小笠原左衛門佐の言葉で現実へと引き戻された家康は短く大儀であったとだけ告げる。そして、次なる来客が西尾城主・酒井雅楽頭政家の郎党らによって庭先へ曳かれてくるのであった。
「殿、仰せの通り荒川甲斐守を捕縛して参りました」
「大儀であった。於市とその子らはどうしておる」
「築山のお屋敷で御前様とお話になられておりまする」
「そうであったか。では、こちらでのことが片付き次第、築山を訪ねるとする」
齢四十四となり、老境に差し掛かっている酒井雅楽頭は白髪混じりの頭を下げると三歩ほど下がり、後事を家康に託す姿勢を取る。
そうして広間から縁側へと進み出た家康は庭先で跪かされている虜囚・荒川甲斐守義広を睥睨する。その構図は文字通り勝者と敗者の様相を呈していた。
「わしは今しがた幡豆郡寺部城の小笠原左衛門佐らの所領安堵を認めたところじゃ」
「はっ、存じておりまする」
「そなたは今こう思っておろう。何故降伏を願い出た時期は同じであるのに、こうも待遇が違うのか、と」
「め、滅相もございませぬ!そのようなことは断じて……!」
弁解しようとする荒川甲斐守であったが、家康の静かに怒気を帯びた瞳を前に、それ以上言い返すことができなかった。
「よいか。幡豆郡の小笠原一族は所詮は外様じゃ。されど、そなたは違う。名家吉良家の出であり、わしの妹婿でもある」
「……はい」
「これを同族の桜井松平家と同じように赦免し、所領安堵したならば市井之徒はいかが思うであろうか」
「……わ、分かりませぬ」
「松平蔵人佐家康は身内に甘い奴じゃ。たとえ離反し、干戈を交えようとも同族や妹婿に一切の処罰を与えぬ腰抜けぞ。そのような評価が下されることとなろう。かように誤解されては後世までそしりを受けることは免れぬ」
荒川甲斐守は家康の言葉を聞き、何も答えることができなかった。桜井城の松平監物や幡豆郡寺部城の小笠原左衛門佐のように自分も帰参が許されるのではないか。一瞬でも抱いた淡い希望は完全に打ち砕かれた。
「そなたは妻子ともども斬首が妥当である、というのがわしの意見じゃが――」
「蔵人佐殿!某はいかなる処罰を受けても構いませぬ!ですからどうか、妻や子どもたちの命だけはお助けくださいますよう……!」
「早合点するでない。義兄の話は最後まで聞くものじゃ。そなたの妻子一族も打ち首にするつもりであったが、離反を招いたのはこの家康の不徳の致すところ。それゆえ、罪を減じることとし、三河よりの追放を命じる」
「追放と……!?斬首でもなく……」
「そうじゃ。死ぬまで三河の地へ足を踏み入れることは許さぬ。どこへなりとも落ちていくがよい。それが死よりも辛い罰になろう。その代わり、そなたの妻子の命は保証する。わしは何も妹や幼い甥姪を手にかけるほど冷酷無比な人間ではない」
自分が三河国より追放される代わりに、自分の妻子はおとがめなし。それを他ならぬ家康の口から聞けたからか、荒川甲斐守はぼろぼろと大粒の涙をこぼす。
「義弟殿、これが今生の別れともなろう。よもや、このような別れとなろうとは思わなんだが、くれぐれも体を労わって、達者に暮らせよ。そなたの妻は責任をもって面倒を見る。そなたの子息についても一門衆として取り立て、娘についても良き相手を見つけて参るゆえ、案ずることはない」
「それならば、思い残すことはございませぬ。愚かにも義兄に逆らった愚弟をお許しくださいませ……」
家康は俯く荒川甲斐守を見下ろし、こぼれそうになる何かを押し留めながら、すぐ傍に控える酒井雅楽頭へ目配せする。
「者ども、荒川甲斐守を引っ立てよ!我らが手で謀反人を三河より叩き出すのだ!」
酒井雅楽頭の掛け声で家人たちが荒川甲斐守を縛り付ける縄を引き、強引に連れ去っていく。吉良一族という三河の名家に生まれながら、その三河を永久追放されることになる。
よもや、このような結末を迎えようとは、本人をはじめ、誰も考えていなかったに違いない。まさしく神のみぞ知る、ということであろう。
この月、関東では上杉弾正少弼輝虎が信濃での武田軍の動きを察知して上野国和田城攻めを取りやめ、本国越後へと帰国。
同じ頃には日本の副王とも呼ばれ、畿内を制する天下人・三好修理大夫長慶の権勢にも陰りが見え始めていた。
そして家康とも近いところでいえば、三日には同盟者・織田上総介信長の実父である織田備後守信秀の十三回忌を迎えたといったところであろうか。それは信長が当主となってから十二年の歳月が経過したことと同義であった。
ともあれ、そんな日本各地で様々な動きがある中で、岡崎城の家康のもとへ訃報が届けられる。
岡崎城の家康を訪ねてきたのは一向一揆蜂起時に援軍として駆け付けて三河池尻の地を加増された本多修理亮光忠。その弟・隼人佑忠次の両名であった。
「おお、これは修理亮殿。それに、隼人佑殿もお越しとは、さては東三河で変事が起こったのでござろうか」
「変事と申せば変事にございまする。去る四日、父の助太夫忠俊が居城である宝飯郡伊奈城にて息を引き取りましてございます」
「なんと、そうであったか。助太夫殿が亡くなられたか……。家康、心底よりお悔やみ申し上げる」
「殿よりそのように仰っていただければ、泉下で父も浮かばれましょう」
父が亡くなる様を思い出したのか、涙腺を崩壊させる弟・隼人佑を尻目に感謝の言葉を述べる本多修理亮。だが、彼としても慕ってきた父を失ったことは悲しいに違いなかった。
「それで、此度岡崎へ登城したは父の訃報を報せるためだけではございませぬ」
「そうであろうな。訃報を報せるだけならば、書状を使者に届けさせるであろう。わしもそなたら兄弟が揃ってこれへ参ると左衛門尉より知らされた時点で直に知らせたい何かがあるのではと考えておった」
「さすがは殿にございます。実は家督のことで相談したきことがあり、お許しをいただくべく登城して参った次第にございます」
「ほう、家督がことか。当然、長男でもある修理亮殿が継承なされるのが筋じゃと思うが、そうではないのか」
家康の言葉に首肯する本多修理亮・隼人佑兄弟。死去した本多助太夫の長男が修理亮で、隼人佑は三男。となれば、当然長男である本多修理亮が家督を継承する。それが武家社会の常識であった。
「いかにも。されど、某は所労もあり、当主の務めが全うできるとも思えませぬ。それゆえに、ここにおる弟の隼人佑に家督を継がせたいのです。そのお許しとお墨付きをいただきたく、こうして殿を訪ねて参った次第」
本人の申す通り、本多修理亮は先日会った時よりも頬のあたりの肉が落ちたのをはじめ、全体的にやせ細ったようにも見える。
それだけに、家康としても本多修理亮が実の弟である隼人佑へ家督を継承させたいと考えるのは無理もないと感じた。
「良かろう。所労とあっては致し方なきこと。ゆえ、本多隼人佑忠次が家督を継承することを認めようぞ」
「ありがとう存じます」
「殿!これからは兄の分も奉公して参る所存にございます!今後ともよろしくお頼み申します!」
本多修理亮光忠・本多隼人佑忠次の兄弟からの願いを受け入れ、家督相続のことを認めた家康。
まだ齢十八と若い本多隼人佑が宝飯郡伊奈城主となることに不安がないわけではなかったが、その点については家老の酒井左衛門尉忠次も近くにいるので大丈夫であろうと判断してのことであった。
「それと殿に報告したきことがございます」
「なんじゃ、隼人佑。報告とは」
「はい。実はこちらへ参る前に兄の修理亮ともう一人の兄である光典とも相談したうえでのことなのですが、家臣の戸田小栗を吉田城へ派遣いたしました」
「なに、吉田城とな!?」
吉田城といえば、今川氏の東三河支配の最重要拠点であり、城代として大原肥前守資良が入り、今なお頑強に抵抗を続けている地である。そこへ、使者を派遣したとは一体どういうことなのか、家康は目を見張った。
「当家が今川家へ従属していた頃、某は人質として吉田城で幾度と大原肥前守と会っておりますゆえ、その伝手を活かして降伏を呼び掛ける使者を派遣したのでございます」
「なるほどの。して、首尾は?」
本多隼人佑は静かに首を横に振り、家康の言葉への返答とした。さすがに今川家の重臣・大原肥前守がそう易々と説得に応じるはずもなかった。
「相分かった。ならば、説得は以後も続けよ。一度上手くいかなかったからと諦めてはならぬ。堅牢な吉田城を攻めずに済むなら、それに越したことはないのじゃ」
「では、居城へ戻り次第、再び戸田小栗を吉田城へ向かわせまする」
「うむ。首尾よく参れば、知行も加増することを約束するゆえ、励んでくれよ」
知行の加増を約束されたこともあり、伊奈城の本多兄弟は一層吉田城代・大原肥前守の説得を粘り強く続けていくことになる。
そうして永禄七年三月も目まぐるしく過ぎていく。家康は西三河での敵対者を屈服させていきながら、帰参した家臣たちの処遇や東三河経略についても熟慮していく必要があった。
卯月へと月が替わった頃、家康は今川方へ攻勢をかけるべく、戦支度に追われていた。その真っただ中の四月七日。一つの戦がまた終わりを迎えようとしていた。
「蔵人佐殿……いえ、殿!此度は我らの請いを容れていただき、ありがとう存じまする!」
岡崎城の広間にて額を床にこすりつけんばかりに頭を下げているのは正装に身を包んだ幡豆郡寺部城主・小笠原左衛門佐広重。
その隣で同じく頭を下げているのは、彼の舅で齢五十四になる幡豆郡欠城主・小笠原摂津守安元とその子で齢三十二となる小笠原丹波守安次の両名であった。
「うむ。そなたの舅である摂津守が荒川甲斐守の抑えを担った功績でもって婿であるそなたの赦免を願い出て参ったゆえ、それを聞き入れたまでのこと。そなたが感謝せねばならぬのは、舅の方じゃ」
「はっ、ははっ!今後は殿のもとで誠心誠意奉公させていただきまする!」
「それでよい。先に使者にも述べさせたとおり、そなたら幡豆郡の小笠原一族は所領安堵といたす。一切処罰はせぬものとする。されど、左衛門佐。そなたの顔を見る限り、いっそのこと罰を受けた方が良かったと言いたげな顔をしておる」
「はっ、はい……!」
「そう思うならば、今後の東三河経略で功を立てよ。周囲から離反した者じゃと疑惑の眼差しを向けられるであろうが、それをも払しょくする働きをしてみせよ。それがわしのためでもあり、何よりそなたのためともなる。良いな?」
「ははっ!この小笠原左衛門佐広重、これよりの東三河経略で殿をもあっと言わせる戦をしてみせまする!」
それでよい、と小笠原左衛門佐の言葉を聞き、家康は首肯する。そのやり取りを側で聞いていた小笠原摂津守・丹波守父子も安心したのか、ほっと胸をなでおろしていた。
「そうじゃ、丹波守」
「はいっ!」
「そなたの妻は深溝松平家の出であったな」
「いかにも。三年前の善明堤の戦いにて討ち死にいたしました松平大炊助好景殿の娘を正妻としておりますれば」
「うむ。くれぐれも妻の実家との付き合いは大事にせよ。左衛門佐のように、妻の実家がそなたの助けとなることもあるやもしれぬ」
「お言葉、肝に銘じておきまする」
家康からの言葉を素直に受け取る小笠原丹波守。その様子に、名が出た小笠原左衛門佐は少し気恥しそうに頬をかき、小笠原摂津守がそんな娘婿の背中を強く叩き、豪快に笑う。実に同族同士仲の良い空間が形成されていた。
だが、その中で一人、家康は小笠原丹波守にかけた言葉をじっくりと味わい直していた。
なぜなら、妻の実家との付き合いを大事にせよと言った自分もかつて関口家の引き立てで今川家では親類衆という立場を手に入れた過去があったためである。
しかし、その関口家との連絡も途絶えて久しい。風の便りでは、自分が今川家を離反してしまったことですっかり今川家中での発言力はなくなってしまい、事あるごとに内通を疑われていると耳にしているからだ。
――世話になった関口刑部少輔氏純とその夫人は今そうしているのだろうか。
今川方と戦うたびにちくりと胸が痛む。何せ、二人の長女・駿河御前は岡崎城近くの築山にある屋敷で子どもたちと幸せに暮らしているのだから。戦場に居ても、妻子と会っても家康の胸を針で刺すような痛みは消えることなどなかった。
「――殿、では我らはこれにて失礼いたしまする」
小笠原左衛門佐の言葉で現実へと引き戻された家康は短く大儀であったとだけ告げる。そして、次なる来客が西尾城主・酒井雅楽頭政家の郎党らによって庭先へ曳かれてくるのであった。
「殿、仰せの通り荒川甲斐守を捕縛して参りました」
「大儀であった。於市とその子らはどうしておる」
「築山のお屋敷で御前様とお話になられておりまする」
「そうであったか。では、こちらでのことが片付き次第、築山を訪ねるとする」
齢四十四となり、老境に差し掛かっている酒井雅楽頭は白髪混じりの頭を下げると三歩ほど下がり、後事を家康に託す姿勢を取る。
そうして広間から縁側へと進み出た家康は庭先で跪かされている虜囚・荒川甲斐守義広を睥睨する。その構図は文字通り勝者と敗者の様相を呈していた。
「わしは今しがた幡豆郡寺部城の小笠原左衛門佐らの所領安堵を認めたところじゃ」
「はっ、存じておりまする」
「そなたは今こう思っておろう。何故降伏を願い出た時期は同じであるのに、こうも待遇が違うのか、と」
「め、滅相もございませぬ!そのようなことは断じて……!」
弁解しようとする荒川甲斐守であったが、家康の静かに怒気を帯びた瞳を前に、それ以上言い返すことができなかった。
「よいか。幡豆郡の小笠原一族は所詮は外様じゃ。されど、そなたは違う。名家吉良家の出であり、わしの妹婿でもある」
「……はい」
「これを同族の桜井松平家と同じように赦免し、所領安堵したならば市井之徒はいかが思うであろうか」
「……わ、分かりませぬ」
「松平蔵人佐家康は身内に甘い奴じゃ。たとえ離反し、干戈を交えようとも同族や妹婿に一切の処罰を与えぬ腰抜けぞ。そのような評価が下されることとなろう。かように誤解されては後世までそしりを受けることは免れぬ」
荒川甲斐守は家康の言葉を聞き、何も答えることができなかった。桜井城の松平監物や幡豆郡寺部城の小笠原左衛門佐のように自分も帰参が許されるのではないか。一瞬でも抱いた淡い希望は完全に打ち砕かれた。
「そなたは妻子ともども斬首が妥当である、というのがわしの意見じゃが――」
「蔵人佐殿!某はいかなる処罰を受けても構いませぬ!ですからどうか、妻や子どもたちの命だけはお助けくださいますよう……!」
「早合点するでない。義兄の話は最後まで聞くものじゃ。そなたの妻子一族も打ち首にするつもりであったが、離反を招いたのはこの家康の不徳の致すところ。それゆえ、罪を減じることとし、三河よりの追放を命じる」
「追放と……!?斬首でもなく……」
「そうじゃ。死ぬまで三河の地へ足を踏み入れることは許さぬ。どこへなりとも落ちていくがよい。それが死よりも辛い罰になろう。その代わり、そなたの妻子の命は保証する。わしは何も妹や幼い甥姪を手にかけるほど冷酷無比な人間ではない」
自分が三河国より追放される代わりに、自分の妻子はおとがめなし。それを他ならぬ家康の口から聞けたからか、荒川甲斐守はぼろぼろと大粒の涙をこぼす。
「義弟殿、これが今生の別れともなろう。よもや、このような別れとなろうとは思わなんだが、くれぐれも体を労わって、達者に暮らせよ。そなたの妻は責任をもって面倒を見る。そなたの子息についても一門衆として取り立て、娘についても良き相手を見つけて参るゆえ、案ずることはない」
「それならば、思い残すことはございませぬ。愚かにも義兄に逆らった愚弟をお許しくださいませ……」
家康は俯く荒川甲斐守を見下ろし、こぼれそうになる何かを押し留めながら、すぐ傍に控える酒井雅楽頭へ目配せする。
「者ども、荒川甲斐守を引っ立てよ!我らが手で謀反人を三河より叩き出すのだ!」
酒井雅楽頭の掛け声で家人たちが荒川甲斐守を縛り付ける縄を引き、強引に連れ去っていく。吉良一族という三河の名家に生まれながら、その三河を永久追放されることになる。
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貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
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炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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