不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第182話 徳政にまつわる相論と桜井松平家の服属

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 土呂本宗寺を発った石川彦五郎家成率いる軍勢は次なる目的地である針崎勝鬘寺も速やかに制圧。針崎勝鬘寺に籠もる一揆勢は土呂本宗寺の人々と同じく狼狽している様子であった。

 最も武闘派の門徒武士が揃っていることもあり、石川彦五郎が踏み込んでくると長槍を引っ提げた筧助太夫正重、渡辺半蔵守綱・半十郎政綱、蜂屋半之丞貞次、渡辺源蔵といった者たちが飛び出し、行く手を遮った。

「彦五郎殿!これはいかなることにござるか!軍勢を率いて寺へ踏み込むなど!」

「実は今朝がた、殿は上和田の浄珠院にて一揆方との和睦を成立させられたのじゃ」

「なにっ!まこと和睦へとこぎつけたとか!?」

「うむ。どこぞの門徒武士が大久保党を通じて殿に和議を申し入れたとのことが発端ぞ。ゆえ、殿が今朝したためた起請文には一気に加わった者共を赦免し、帰参も許すことを記しておられる。すなわち、今ここにいるそなたらも殿はお許しになるとの仰せ。誰をどうするのか、それについての沙汰はおって入るであろうから、それまで騒ぐことなく待っておくように」

 石川彦五郎づてに一揆参加者の赦免を聞いた門徒武士の中で、真っ先に槍を捨てたのは槍半蔵こと渡辺半蔵。その隣でうつむきがちであった蜂屋半之丞も続けて白樫三間柄の長槍を手放し、家康からの命を承引することを表明した。

 武闘派の筆頭ともいえる者たちが次々と武装を解いていく様子に、寺内の門徒武士らは落ち着きを取り戻し、平穏を取り戻していく。

 その後、佐々木上宮寺と野寺本證寺にも家康方と一揆方とで和議が締結された旨が伝わっていくと、寺から門徒武士らは次々に退去し始め、抵抗するような強硬派が表れることなく終結へと向かっていったのである。

「殿、四ヶ寺とも門徒武士が寺から退去したとのこと。大半が再び殿へ仕えることを望む者らばかりにございますれば、彼らの処遇について、改めて殿より判物を遣わす必要もあろうかと」

「左様であったか。彦五郎、此度はまことご苦労であった。門徒武士らより信頼の厚いそなたにしか頼めぬこと、わしの予想を超える働きをしてくれたことに感謝しておる」

「勿体なきお言葉。これにて一向宗寺院が有する拠点は無力と化しましたゆえ、もはや寺側も戦う気力など二度と起こらぬでしょう。これにて、三河は安泰にございます」

「そう……じゃな」

 石川彦五郎の発した三河は安泰との言葉を聞いてなお、家康は未だ浮かない表情のままであった。そのことの意味を石川彦五郎は察するには至らなかったが、その真意を半年の後には知ることになる。

 一向宗寺院の拠点を制圧し、門徒武士らを退去させたことで、一向一揆の武力は解体されたに等しかった。しかし、一揆とのいざこざはそれだけで解決するほど安易なものではなかったのである。

「蔵人佐殿、相論について相談したきことがござる」

「おお、伯父上。相論とは何事にございますか」

「そなたが承認した徳政がことよ」

「徳政にございますか?」

 家康が三河一向一揆蜂起時に深溝松平家をはじめとした自分に従う諸将に対して承認した売買・賃借関係の破棄、すなわち徳政。水野下野守信元が言うには、これが相談したいことなのである。

「よいか、そなたは味方する家臣や一族の一向宗寺院との売買や貸借にまつわる事柄を破棄させた。それは戦が続いておる間は良かったのじゃが、先日和睦を締結させたことで一向宗寺院の寺内町は売買や賃借によって得た土地や米銭が保証されることとなった。どうじゃ、何か気づかぬか」

「某が出した徳政が一向一揆と和睦を締結したことによって無意味なものとなってしまったということにございますか」

「そうじゃ。貸した銭は返さずともよい。そう言われて数ヵ月後にやはり返せと言われておるようなもの。それゆえ、相論になっておるということじゃ」

「なるほど、某にも理解できましてございます。ともすれば、両者ともに納得のいくよう裁断せねばなりませぬな」

 家康の発言内容に水野下野守は大きく頷く。徳政は無効なのだから貸している米や銭は返せと主張する寺院側。一度徳政によって無効になったのだから返す必要はないと返答する諸将。

 この双方が納得する条件で取りまとめる必要があるとあっては、並の人間では到底捌ききれない極めて厄介な事柄である。

「伯父上、どうか調整をお頼みできませぬか」

「蔵人佐殿では無理か」

「某が入っては寺院側から不公平との意見も出ましょう。ゆえに、ここは当家に従う諸将と三河の一向宗寺院の言い分を聞き、公平に裁断することができるは伯父上をおいてほかにはございませぬゆえに」

「じゃが……」

 水野下野守としても、このような面倒は話は断りたかった。しかし、家康の言うように、下手に家康が関与しては寺院側から不公平との言い分が出てしまい、かといって寺に忖度したのでは諸将から反感を買ってしまうことになる。

 ともすれば、どちらにも肩入れすることなく、両者に働きかけることのできる立場にいる水野下野守が適任ということになってしまう。

「兄上」

 そこへやって来たのは、家康の生母であり、水野下野守にとって異母妹にあたる於大の方であった。

「ここは引き受けてはくださいませぬか。妾が腹を痛めて産んだ子にございます。この妹を案じるならば、この子の頼みを引き受けてやってはいただけませぬか」

「されど、わしは織田家に従属している国衆じゃ。勝手な真似はできぬ」

「では……」

「早合点するでない。小牧山城の織田殿へ談判し、この相論の解決に当たる旨を承諾していただいて参ろう。さすれば、蔵人佐殿よりの頼みについて引き受けても構わぬ。ここで後腐れのないよう捌いておかねば、第二第三の一向一揆を誘発することにもなるゆえな」

 てっきり断られるものだとばかり考えていた家康と於大の方。それだけに、水野下野守が相論の解決に尽力してくれるとの返答は何よりも有り難い返答なのであった。

 そうして水野下野守が寺院側と家康方諸将との徳政をめぐる調整を担うこととなるが、この相論は同年師走まで継続され、長期化することになってしまうのである。

 一方で、如月から弥生へと月が移り変わった頃、家康のもとへ家老・石川与七郎数正を通じてある申し出があった。

「ほう、桜井城の松平監物より書状とな」

「はい。どうも赦免を願い出て参った様子。某としても図々しいにもほどがあるかと思いましたが、裁断は殿に委ねようと考え、こうして取り次がせていただいた次第に」

「確かにわしに背いておきながら、形勢不利と見れば赦免を嘆願して参るとは、図々しい。されど、ここで桜井松平を許さず処断したとなれば、他の反抗勢力は一層抵抗を強めてしまう」

「では、お許しになると?」

 怪訝そうな表情を浮かべる石川与七郎に対し、家康は引きつった笑みを浮かべて小さく頷いた。本心でいえば、一向一揆以前に背いた者たちまで赦免したくはないのだ。

 もし帰参を許したとて、再び背かれたのでは大きな損失を被ることとなる。なるべく、禍根はこの機会に断っておきたいというのが本心であった。

 しかし、石川与七郎に言ったように許さなければ、他の反抗勢力が降伏を申し出てくることはなくなり、徹底抗戦を挑んでくる可能性が高まってもしまう。であれば、赦免するのもやむなし、という決断の方が良いようにも考えられるのだ。

「では、与七郎。桜井松平家は先代の内膳正清定殿は正室として織田備後守信秀公の妹君を迎えてもおられた累世の御家門ゆえ、赦免すると申し伝えてはくれぬか」

「はっ、承知いたしました!然らば、監物殿へその旨を伝え、岡崎へ出仕して参るよう申し伝えておきまする」

「頼む」

 石川与七郎が家老らしい風格を身に纏って退出していくと、家康は手元に西三河の絵図を広げ、桜井城の松平監物家次へ印をつけていく。

「これにて、残すは東条城の吉良義昭、八ツ面城の荒川甲斐守義広、幡豆郡寺部城の小笠原左衛門佐広重、大草の松平昌久、上野城の酒井将監忠尚。それ以前から当家に従わぬ大給城の松平和泉守親乗や足助鱸氏のみ。桜井松平が恭順の意を示したとなれば、これに続く者が出て来るやもしれぬな」

 ――再び蔵人佐殿に従属するのでお許し願いたい。

 そう言ってくる者らが出て来るであろうことは容易に家康も想像できた。

 ましてや、奥三河の作手奥平家や名倉奥平家も従属を願い出てきたとあっては、加茂郡の酒井将監や足助鱸氏、大給松平家にとって今川方からの支援が断たれるどころか、東からも攻め込まれる恐れもあるため、降伏を願い出て来る可能性は高かった。

 これは予期していたよりも早期に叛乱が集結するのでは。そう考える家康のもとを翌日にも訪問してきたのは、石川与七郎を仲介役に服属を申し出てきた桜井城の松平監物とその息子二人であった。

「蔵人佐殿、この度は離反した罪をお許しいただき、感謝の念に堪えませぬ。桜井松平家は松平宗家へ従属し、一層忠勤に励みまする」

「うむ。監物殿が離反したと聞いた時は肝が冷えたわ。桜井城は矢矧川を渡河するうえで重要な拠点ゆえな」

「はっ、ははっ。されど、金輪際蔵人佐殿へ背くような真似はいたしませぬ……!ごほっ、ごほっ!」

「け、監物殿いかがなされた!」

 突如として咳き込み、広間の中央で突っ伏す松平監物。そんな父の様子に、長男・与一郎忠正が駆け寄り、次男・與次郎は不安げな眼差しで父や兄を見守っている。

 広間で対面してすぐから顔色が優れない様子ではあったが、こうして咳き込むなどとは家康にとっても想定外であった。

「蔵人佐殿、申し訳ござらぬ……。実は、この冬のうちに体調を崩してしまい、このような有り様。もはや蔵人佐殿に抗おうという気力も湧いてきませぬ」

「なるほど、それゆえに赦免を願い出てきたということか」

「は、はい。某が体調を崩して以降は、そこにおる長子の与一郎が指揮を執っておりましたが、何分にも戦の経験が浅く……」

「たしか齢は某の二ツ下にございましたな」

 家康からの問いかけに松平監物は口元を右手で抑えながら、小さく頷く。気分の優れない父の言葉を引き取るように長男・松平与一郎が発言していく。

「天文十三年の生まれにございますれば、齢二十一となります」

「そうであろう。四年前の桶狭間合戦前に会うた折には十七じゃと申しておったゆえ、それを思い出したのじゃ。されど、そなたの弟は幼いようじゃが幾つになるか」

 四年も前のことを覚えていたのかと松平与一郎は面食らうも、家康の視線が弟・與次郎へ注がれていることに気づき、弟へ返答するよう視線でもって促していく。

「む、六ツになりまする!」

「そうか、六ツか。それならば我が嫡男の竹千代と齢は同じか。よき遊び相手ともなろうゆえ、折を見て訪ねてやってくれ」

「はっ、はいっ!」

 息子と同い年の少年が頑張って返事をしているのが何だか微笑ましく、自然と家康の表情は與次郎の父や兄に向けるものとはまったく違う温かみのあるものとなっていた。

「蔵人佐殿。どうか何卒、この子らを引き立ててやってはいただけませぬか」

「ははは、離反しておいて虫の良いことを。そう言いたい気持ちもあるが、引き受けよう。与一郎も與次郎も、曽祖父の代まで遡れば我が曽祖父と兄弟であった。松平一門が一丸となってこそ、西三河は何者にも負けぬ強き国衆たりうるのだとわしは痛感した。それもこれも、そなたらが離反したからこそ思い知らされたこと。今では感謝すらしておるのだ」

「勿体なきお言葉……!今後とも当家のこと、愚息らのこと、くれぐれもお頼み申しまする」

「うむ。監物殿が言葉、しかと胸に畳んでおくといたす。今後とも桜井松平家を頼りにしておる」

 家康の口からそこまで聞けたことによほど安心したのか、松平監物は身体の力が抜けていくように感じられた。

 家康はまだ松平監物の意識があるうちに桜井城へ帰るよう与一郎・與次郎兄弟に申し渡し、父子をそのまま桜井城へと送り出したのであった。

「これにて桜井松平家は二度と殿へ背きはいたしますまい」

「そうであろうな。わしの見たところ、監物殿はそう長くはあるまい。跡を継ぐ息子らは実直な気性と見えるし、わしに楯突くことはしまい。それが竹千代の代まで続いてくれることを願うばかりじゃ」

 自分には背かないだろう。家康の心中はそれだけでは穏やかになるものではなかった。自分の後を継ぐ竹千代の代のことまで考えてしまうのは、やはり家康も一人の子煩悩な父親であったのだ――
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