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第5章 飛竜乗雲の章
第190話 二連木戸田氏の従属
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吉田城攻めを控えた永禄七年五月十二日。岡崎城で戦支度に追われる家康のもとに予期せぬ来客があった。
「なに、来客とな!」
「はっ!なんでも戸田家の縁者であるとか」
「戸田の縁者とな……?」
書院にて家老・酒井左衛門尉忠次に東三河経略についての指示を伝える書状を記していたところへ来客の取次があったのである。しかも、それを取り次いできたのは先の三河一向一揆にて内通を疑われて家康のもとへ帰参した戸田三郎右衛門忠次であった。
その戸田三郎右衛門を伴い、広間へ足を踏み入れると、来客らしい青年のほかに、継母にあたる田原御前が同席していたのである。
「これは継母上も同席くださるとは驚き入ってございます。して、此度の同席、いかなるわけにございましょうか」
「理由はただ一つ。此度目通りを願った者が妾の甥に他なりませぬゆえ」
「なんと、継母上の甥と……!?」
家康は目を見開き、目の前で深々と頭を下げている青年へと視線を移す。だが、田原御前の発言から、目の前にいる青年が何者であるか、おおよその見当がついていた。
「もしや、貴殿は二連木城主の戸田主殿助重貞殿ではござらぬか」
「いかにも!某が二連木城主を務めております、戸田主殿助にございまする!」
「やはりそうであったか。わしを訪ねてくる者で、継母上の甥となれば限られて参るゆえな」
「さすがは松平蔵人佐殿。御見それいたしました。さっそく本題に入りまするが、此度伺候させていただきましたのは、我ら二連木戸田家は今川を離れ、松平方へ従属せんがためにございますれば」
戸田主殿助ら二連木戸田氏が松平へ従属する。これは家康にとって吉報以外の何物でもなかった。
「二連木城は吉田城のすぐ東に位置する要衝。そこが当家方となれば、吉田城攻めは大いに有利に進められよう」
「はい。間もなく松平との大戦になると吉田城下は大騒ぎになってもおりますれば、そこへ我らが松平方へ転じたと判明すれば、城兵らも戦意を喪失することとなりましょう」
「なるほど。それはもっともなこと。じゃが、何故此度当家に従属することを決められたか、その理由をお聞きしたい」
「はっ、実はそちらにおります、叔母上から幾度と書状を受けてのことにございます。『蔵人佐殿は一向一揆を鎮められれば、必ずや東三河制圧に動きます。そうなれば、二連木戸田は松平と戦うこととなり、下手をすれば滅ぼされることにもなりましょう。妾は嫁ぎ先と実家がこのような形で干戈を交えることは望みませぬ。ここは妾のためにも、家名存立のためにも松平方へ転じていただきたく思います』と、かような文面の書状を受けたのでございます。これを父や弟にも伝えましたところ、松平方へ帰属することの同意を得られたのです」
家康は裏で田原御前がそのような調略を仕掛けていたとは知らず、これまた驚かされ、当の本人を見やる。すると、それが恥ずかしかったのか、田原御前は手にした扇子で顔を隠してしまう。
それを見て笑いながら、家康は再び戸田主殿助へと向き直る。
「じゃが、主殿助殿。貴殿は人質を吉田城へ出しておるはず。もし今、離反が知られては人質の身の上が危うくもなろう」
「ご心配くださりありがとうございまする。されど、人質がことは解決しておるのです」
「ほう、解決しておると」
「ええ、人質としていた母は本日助け出したところにございますれば」
すでに吉田城へ人質として出していた戸田主殿助の母は救出済み。その手際の良さに家康も感心したが、どのようにして人質を救出したのか、試みに聞いてみたくなった。
「試みに問うが、いかにして守りの堅い吉田城から人質を救出なされたのか」
「はっ、それは簡単なことにございます。先ほども蔵人佐殿が申されたように、二連木城は吉田城からそう離れておりませぬ。それゆえ、他のどの国衆よりも容易に吉田城へ訪れられまする」
「ふむ、それもそうじゃな。さりとて、某からの問いの答えとはなってはおらぬが……」
「はい。それはこれからお話しいたしまする」
家康からの問いかけに対し、戸田主殿助は武勇伝を語るかのように少々得意げな様子で語り始める。
「某はまず、城代の大原肥前守と双六を打ちに吉田城を訪れたのです」
「ほう、双六とな」
「ええ、城代としてのお勤めご苦労様です。お疲れでしょうし、息抜きがてら双六でも打ちませぬかと提案したのでございます」
「なるほど、それに大原肥前守は応じたわけじゃな」
戸田主殿助は口角を上げながらこくりと首を縦に振る。家康もそれまでの話を整理しながら、戸田主殿助の次なる言葉を待つ。
「大原肥前守と某が双六を打って油断を誘う間に、城内へ持ち込んだ大唐櫃を担いだ家臣らが母のいる北の長屋へと向かったのでございます」
「なるほど大唐櫃か。さしずめ、その中にお母上を入れたうえで城外へ担ぎ出したのではあるまいか」
「ご名答にございまする!某が城代と双六を打っている間に一部の家臣らが母を救出して二連木城へ。某は何食わぬ顔で残る家臣らを引き連れて城を出たのでございます。そうして城を父と弟に託して、こちらへ参った次第に」
「いや、見事!主殿助殿は実に機転が利く御仁じゃ!」
家康はそこまで聞くと、一つ膝を打った。実に計算しつくされた人質救出劇であったためである。ここまで周到に、一人の犠牲を出すことなく母を救ったことは称賛に値する行いであった。
「お褒めに預かり恐悦至極に存じまする」
「貴殿の所領一千貫文は安堵といたすゆえ、案ずるに及ばず。今後の活躍次第では知行の加増も約束しようぞ」
「かたじけのうございます!」
「感謝されるほどのことではござらぬぞ、主殿助殿。そなたは我が継母の甥にあたる。ともすれば、我らは血の繋がりこそないが、従兄弟の間柄といっても差し支えなかろう」
伯母の伝手を使って初めて対面した人物に従兄弟同然の間柄であると言われ、戸田主殿助は感極まっている様子であった。しかし、彼以上に鼻をすすりながら嬉し涙を懐紙で拭っているのは、田原御前の方であった。
「主殿助殿はただちに本領の二連木へ戻り、戦支度を始められよ。来月頭には家老の酒井左衛門尉忠次を先鋒とした軍勢を吉田城へ進軍させる。そこへ、野田城の菅沼新八郎定盈や八名郡の西郷孫九郎清員、設楽越中守貞通といった東三河の国衆らの軍勢も増派したうえで城攻めを行うゆえ、それをお待ちいただきたい」
「ははっ!委細承知いたしました!二連木にてその日を心待ちにしておりまする!では、これにて失礼いたしまする!」
慌ただしい対面とはなったが、二連木城の戸田主殿助らを味方に引き入れることができたのは大きかった。吉田城代の大原肥前守は西からの侵攻は想定していても二連木城のある東側からの敵襲は想定していないと思われるからである。
そして、戸田主殿助と対面し、二連木戸田氏の転属を画定させた二日後の五月十四日。新たに従属を願う者からの書状が鳥居彦右衛門尉元忠より家康へ披露される。
「殿、こちら大塚城の岩瀬河内守より当家に従う旨の起請文にございまする」
「おお、大塚城も紆余曲折を経て我らに再び味方することを決めたか。ならば本領である大塚郷を安堵とし、一層の忠勤に励むよう書状を送っておくとしようぞ」
「それでよろしゅうございましょう。これにて平坂街道沿いで当家に逆らう者は皆無となりましてございます。おそらく、先日から牛久保城の周囲へ付城を構築し始めたことの効き目であろうかと」
「そうであろう。この調子で牛久保城の牧野勢が動きを封じ込め、その隙に吉田城を制圧することが叶えば、東三河経略に王手をかけたも同然じゃ」
「いかにも!加えて、左衛門尉殿からの書状も届いておりまする」
「なに、左衛門尉からか」
岩瀬河内守からの従属を誓う起請文を受理すると、続けて差し出された家老・酒井左衛門尉忠次からの書状へ視線を落とす。
「うむ、左衛門尉指揮する先鋒部隊の数は二千五百。その麾下に加わるのは一揆勢から帰参した蜂屋半之丞と大原左近右衛門。そこへ従属しておる幡豆郡の小笠原摂津守安元、形原の松平紀伊守家忠、竹谷の松平玄蕃允清宗といった者らも加わっておるゆえ、それくらいの兵数ともなろうか」
「加えて、名指しで喜六郎と平八郎を加勢に向かわせてほしいとありますが、その儀につきましてはいかがなされまするか」
「良いのではないか。喜六郎も平八郎も戦がないゆえ、暇を持て余してもおる。左衛門尉の与力として大いに働いてもらうことといたそうぞ」
「左様にございますな」
そう言って家康も鳥居彦右衛門尉も肩を揺らして笑った。旗本衆の中では誰よりも早く吉田城攻めに参陣できるのだから、本多平八郎忠勝・大久保喜六郎忠豊の両名が久々の戦と聞いて泣いて喜ぶ様が眼に浮かぶようであった。
「加えて、長らく岡崎城へ逗留しておった設楽越中守もすでに東三河入りし、旧臣らを招集してもおる。そこへ、野田菅沼勢や西郷勢だけでも千は集まろうし、二連木の戸田勢も加われば二千近くにはなろうか」
「ともすれば、殿が出張らずとも四千を超える大軍勢で吉田城攻めを行えるわけですな」
「うむ。じゃが、わしも本隊を引き連れて進むゆえ、六千に迫る数となろう。それを見知って、牛久保城と田原城が戦意喪失してくれるのが最上であろう」
「まことですな」
三河一統に王手をかけようとしている松平方の軍勢。その総数を聞けば、牛久保城の牧野民部丞も田原城の今川在番衆も恐れおののくことであろう。それが家康の見立てであり、鳥居彦右衛門尉も大いに同意するところであった。
「そうじゃ、殿。なんでも形原松平家の紀伊守殿へ正室として嫁いだ酒井雅楽助殿の娘が懐妊したと耳にしましたが」
「それはわしも耳にしておる。男子であれば嫡男ともなる。そして、そなたのところもようやく子が生まれると聞いたが、奥方の体調はどうじゃ」
「さすがは殿。すでにお耳に入ってございましたか。妻の体調はいたって健康にございます。某の妻は松平紀伊守殿とは姉妹に当たりますゆえ、紀伊守殿のお子とは従兄弟にあたる間柄となりまする」
「おお、そうであったな。これまた嫡男であったならば、大いに目出度きこと。まもなく左衛門尉のところも子が生まれるとのことゆえ、生まれればわしの従弟ともなる。産まれなんとする命が多いことは、実に喜ばしいことぞ」
「左様にございますな。ここは生まれてくる子供らのためにも、何より殿の御為にも是が非でも勝たねばなりませぬな!」
産まれてくる子供のためにも、戦に勝って生きて戻ろう。そう意気込みを新たにする鳥居彦右衛門尉をはじめとする旗本衆らを引き連れ、六月頭に家康はついに岡崎城を出陣したのである。
岡崎城を発った家康本隊は岩略寺城へ入ると、先鋒隊として出陣を控えている酒井左衛門尉からの歓待を受けた。
「殿!よくぞお越しくださいました!」
「ははは、三河一統の仕上げとも呼べる戦に大将が出張らぬでは後々まで笑い者となるであろう。左衛門尉こそ、功を焦るあまり抜かるでないぞ」
一見すると落ち着いているように見える酒井左衛門尉だが、張り切りすぎて空回ることがしばしばあることを幼少の頃から見知っている家康は、相変わらず張り切っている酒井左衛門尉をたしなめていく。
「はっ、肝に銘じておきまする!それと殿、先日水野家臣である高木主水助清秀へ高木氏の故地である三河大岡郷領知の判物を与えたとのことにございますが、それは真にございましょうか」
「うむ。水野家臣といえども、功のあった者を賞さなかったとあっては以後我らに援軍として来る者らの士気にもかかわる。また、渥美郡田原城の攻略は土居の本多豊後守に委ねることとし、上首尾に運んだ暁には渥美郡での知行宛行を約束する判物も発給しておる。決して、譜代を軽く見ておるわけではないゆえ、案ずるでない」
「それを聞き安堵いたしました」
「加えて、そなたにもこの通り知行宛行の判物を用意しておる」
家康は土居の本多豊後守広孝だけでなく、酒井左衛門尉に対しての知行宛行を約束する判物をしっかり用意していたのである。
「なんと!某を吉田城主とし、東三河の統治を一任くださると!」
「うむ。東三河衆の寄親となり、統率してもらいたい。それを成せるはそなたしかおらぬと見ての命じゃ」
「有り難く拝受いたしまする!然らば、吉田城攻めの先鋒、気張って参りまする!」
片喰紋の旗を翻らせ、意気揚々と岩略寺城を出陣していく酒井左衛門尉率いる先発隊。かくして、吉田城攻めの幕が上がろうとしていた――
「なに、来客とな!」
「はっ!なんでも戸田家の縁者であるとか」
「戸田の縁者とな……?」
書院にて家老・酒井左衛門尉忠次に東三河経略についての指示を伝える書状を記していたところへ来客の取次があったのである。しかも、それを取り次いできたのは先の三河一向一揆にて内通を疑われて家康のもとへ帰参した戸田三郎右衛門忠次であった。
その戸田三郎右衛門を伴い、広間へ足を踏み入れると、来客らしい青年のほかに、継母にあたる田原御前が同席していたのである。
「これは継母上も同席くださるとは驚き入ってございます。して、此度の同席、いかなるわけにございましょうか」
「理由はただ一つ。此度目通りを願った者が妾の甥に他なりませぬゆえ」
「なんと、継母上の甥と……!?」
家康は目を見開き、目の前で深々と頭を下げている青年へと視線を移す。だが、田原御前の発言から、目の前にいる青年が何者であるか、おおよその見当がついていた。
「もしや、貴殿は二連木城主の戸田主殿助重貞殿ではござらぬか」
「いかにも!某が二連木城主を務めております、戸田主殿助にございまする!」
「やはりそうであったか。わしを訪ねてくる者で、継母上の甥となれば限られて参るゆえな」
「さすがは松平蔵人佐殿。御見それいたしました。さっそく本題に入りまするが、此度伺候させていただきましたのは、我ら二連木戸田家は今川を離れ、松平方へ従属せんがためにございますれば」
戸田主殿助ら二連木戸田氏が松平へ従属する。これは家康にとって吉報以外の何物でもなかった。
「二連木城は吉田城のすぐ東に位置する要衝。そこが当家方となれば、吉田城攻めは大いに有利に進められよう」
「はい。間もなく松平との大戦になると吉田城下は大騒ぎになってもおりますれば、そこへ我らが松平方へ転じたと判明すれば、城兵らも戦意を喪失することとなりましょう」
「なるほど。それはもっともなこと。じゃが、何故此度当家に従属することを決められたか、その理由をお聞きしたい」
「はっ、実はそちらにおります、叔母上から幾度と書状を受けてのことにございます。『蔵人佐殿は一向一揆を鎮められれば、必ずや東三河制圧に動きます。そうなれば、二連木戸田は松平と戦うこととなり、下手をすれば滅ぼされることにもなりましょう。妾は嫁ぎ先と実家がこのような形で干戈を交えることは望みませぬ。ここは妾のためにも、家名存立のためにも松平方へ転じていただきたく思います』と、かような文面の書状を受けたのでございます。これを父や弟にも伝えましたところ、松平方へ帰属することの同意を得られたのです」
家康は裏で田原御前がそのような調略を仕掛けていたとは知らず、これまた驚かされ、当の本人を見やる。すると、それが恥ずかしかったのか、田原御前は手にした扇子で顔を隠してしまう。
それを見て笑いながら、家康は再び戸田主殿助へと向き直る。
「じゃが、主殿助殿。貴殿は人質を吉田城へ出しておるはず。もし今、離反が知られては人質の身の上が危うくもなろう」
「ご心配くださりありがとうございまする。されど、人質がことは解決しておるのです」
「ほう、解決しておると」
「ええ、人質としていた母は本日助け出したところにございますれば」
すでに吉田城へ人質として出していた戸田主殿助の母は救出済み。その手際の良さに家康も感心したが、どのようにして人質を救出したのか、試みに聞いてみたくなった。
「試みに問うが、いかにして守りの堅い吉田城から人質を救出なされたのか」
「はっ、それは簡単なことにございます。先ほども蔵人佐殿が申されたように、二連木城は吉田城からそう離れておりませぬ。それゆえ、他のどの国衆よりも容易に吉田城へ訪れられまする」
「ふむ、それもそうじゃな。さりとて、某からの問いの答えとはなってはおらぬが……」
「はい。それはこれからお話しいたしまする」
家康からの問いかけに対し、戸田主殿助は武勇伝を語るかのように少々得意げな様子で語り始める。
「某はまず、城代の大原肥前守と双六を打ちに吉田城を訪れたのです」
「ほう、双六とな」
「ええ、城代としてのお勤めご苦労様です。お疲れでしょうし、息抜きがてら双六でも打ちませぬかと提案したのでございます」
「なるほど、それに大原肥前守は応じたわけじゃな」
戸田主殿助は口角を上げながらこくりと首を縦に振る。家康もそれまでの話を整理しながら、戸田主殿助の次なる言葉を待つ。
「大原肥前守と某が双六を打って油断を誘う間に、城内へ持ち込んだ大唐櫃を担いだ家臣らが母のいる北の長屋へと向かったのでございます」
「なるほど大唐櫃か。さしずめ、その中にお母上を入れたうえで城外へ担ぎ出したのではあるまいか」
「ご名答にございまする!某が城代と双六を打っている間に一部の家臣らが母を救出して二連木城へ。某は何食わぬ顔で残る家臣らを引き連れて城を出たのでございます。そうして城を父と弟に託して、こちらへ参った次第に」
「いや、見事!主殿助殿は実に機転が利く御仁じゃ!」
家康はそこまで聞くと、一つ膝を打った。実に計算しつくされた人質救出劇であったためである。ここまで周到に、一人の犠牲を出すことなく母を救ったことは称賛に値する行いであった。
「お褒めに預かり恐悦至極に存じまする」
「貴殿の所領一千貫文は安堵といたすゆえ、案ずるに及ばず。今後の活躍次第では知行の加増も約束しようぞ」
「かたじけのうございます!」
「感謝されるほどのことではござらぬぞ、主殿助殿。そなたは我が継母の甥にあたる。ともすれば、我らは血の繋がりこそないが、従兄弟の間柄といっても差し支えなかろう」
伯母の伝手を使って初めて対面した人物に従兄弟同然の間柄であると言われ、戸田主殿助は感極まっている様子であった。しかし、彼以上に鼻をすすりながら嬉し涙を懐紙で拭っているのは、田原御前の方であった。
「主殿助殿はただちに本領の二連木へ戻り、戦支度を始められよ。来月頭には家老の酒井左衛門尉忠次を先鋒とした軍勢を吉田城へ進軍させる。そこへ、野田城の菅沼新八郎定盈や八名郡の西郷孫九郎清員、設楽越中守貞通といった東三河の国衆らの軍勢も増派したうえで城攻めを行うゆえ、それをお待ちいただきたい」
「ははっ!委細承知いたしました!二連木にてその日を心待ちにしておりまする!では、これにて失礼いたしまする!」
慌ただしい対面とはなったが、二連木城の戸田主殿助らを味方に引き入れることができたのは大きかった。吉田城代の大原肥前守は西からの侵攻は想定していても二連木城のある東側からの敵襲は想定していないと思われるからである。
そして、戸田主殿助と対面し、二連木戸田氏の転属を画定させた二日後の五月十四日。新たに従属を願う者からの書状が鳥居彦右衛門尉元忠より家康へ披露される。
「殿、こちら大塚城の岩瀬河内守より当家に従う旨の起請文にございまする」
「おお、大塚城も紆余曲折を経て我らに再び味方することを決めたか。ならば本領である大塚郷を安堵とし、一層の忠勤に励むよう書状を送っておくとしようぞ」
「それでよろしゅうございましょう。これにて平坂街道沿いで当家に逆らう者は皆無となりましてございます。おそらく、先日から牛久保城の周囲へ付城を構築し始めたことの効き目であろうかと」
「そうであろう。この調子で牛久保城の牧野勢が動きを封じ込め、その隙に吉田城を制圧することが叶えば、東三河経略に王手をかけたも同然じゃ」
「いかにも!加えて、左衛門尉殿からの書状も届いておりまする」
「なに、左衛門尉からか」
岩瀬河内守からの従属を誓う起請文を受理すると、続けて差し出された家老・酒井左衛門尉忠次からの書状へ視線を落とす。
「うむ、左衛門尉指揮する先鋒部隊の数は二千五百。その麾下に加わるのは一揆勢から帰参した蜂屋半之丞と大原左近右衛門。そこへ従属しておる幡豆郡の小笠原摂津守安元、形原の松平紀伊守家忠、竹谷の松平玄蕃允清宗といった者らも加わっておるゆえ、それくらいの兵数ともなろうか」
「加えて、名指しで喜六郎と平八郎を加勢に向かわせてほしいとありますが、その儀につきましてはいかがなされまするか」
「良いのではないか。喜六郎も平八郎も戦がないゆえ、暇を持て余してもおる。左衛門尉の与力として大いに働いてもらうことといたそうぞ」
「左様にございますな」
そう言って家康も鳥居彦右衛門尉も肩を揺らして笑った。旗本衆の中では誰よりも早く吉田城攻めに参陣できるのだから、本多平八郎忠勝・大久保喜六郎忠豊の両名が久々の戦と聞いて泣いて喜ぶ様が眼に浮かぶようであった。
「加えて、長らく岡崎城へ逗留しておった設楽越中守もすでに東三河入りし、旧臣らを招集してもおる。そこへ、野田菅沼勢や西郷勢だけでも千は集まろうし、二連木の戸田勢も加われば二千近くにはなろうか」
「ともすれば、殿が出張らずとも四千を超える大軍勢で吉田城攻めを行えるわけですな」
「うむ。じゃが、わしも本隊を引き連れて進むゆえ、六千に迫る数となろう。それを見知って、牛久保城と田原城が戦意喪失してくれるのが最上であろう」
「まことですな」
三河一統に王手をかけようとしている松平方の軍勢。その総数を聞けば、牛久保城の牧野民部丞も田原城の今川在番衆も恐れおののくことであろう。それが家康の見立てであり、鳥居彦右衛門尉も大いに同意するところであった。
「そうじゃ、殿。なんでも形原松平家の紀伊守殿へ正室として嫁いだ酒井雅楽助殿の娘が懐妊したと耳にしましたが」
「それはわしも耳にしておる。男子であれば嫡男ともなる。そして、そなたのところもようやく子が生まれると聞いたが、奥方の体調はどうじゃ」
「さすがは殿。すでにお耳に入ってございましたか。妻の体調はいたって健康にございます。某の妻は松平紀伊守殿とは姉妹に当たりますゆえ、紀伊守殿のお子とは従兄弟にあたる間柄となりまする」
「おお、そうであったな。これまた嫡男であったならば、大いに目出度きこと。まもなく左衛門尉のところも子が生まれるとのことゆえ、生まれればわしの従弟ともなる。産まれなんとする命が多いことは、実に喜ばしいことぞ」
「左様にございますな。ここは生まれてくる子供らのためにも、何より殿の御為にも是が非でも勝たねばなりませぬな!」
産まれてくる子供のためにも、戦に勝って生きて戻ろう。そう意気込みを新たにする鳥居彦右衛門尉をはじめとする旗本衆らを引き連れ、六月頭に家康はついに岡崎城を出陣したのである。
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「殿!よくぞお越しくださいました!」
「ははは、三河一統の仕上げとも呼べる戦に大将が出張らぬでは後々まで笑い者となるであろう。左衛門尉こそ、功を焦るあまり抜かるでないぞ」
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「はっ、肝に銘じておきまする!それと殿、先日水野家臣である高木主水助清秀へ高木氏の故地である三河大岡郷領知の判物を与えたとのことにございますが、それは真にございましょうか」
「うむ。水野家臣といえども、功のあった者を賞さなかったとあっては以後我らに援軍として来る者らの士気にもかかわる。また、渥美郡田原城の攻略は土居の本多豊後守に委ねることとし、上首尾に運んだ暁には渥美郡での知行宛行を約束する判物も発給しておる。決して、譜代を軽く見ておるわけではないゆえ、案ずるでない」
「それを聞き安堵いたしました」
「加えて、そなたにもこの通り知行宛行の判物を用意しておる」
家康は土居の本多豊後守広孝だけでなく、酒井左衛門尉に対しての知行宛行を約束する判物をしっかり用意していたのである。
「なんと!某を吉田城主とし、東三河の統治を一任くださると!」
「うむ。東三河衆の寄親となり、統率してもらいたい。それを成せるはそなたしかおらぬと見ての命じゃ」
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百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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