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第5章 飛竜乗雲の章
第191話 下地砦攻め
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永禄七年も水無月へ入り、梅雨が残していった肌にまとわりつくような湿気と初夏の暑さが重なる嫌な時分に、酒井左衛門尉忠次率いる松平勢の先陣が今川方の東三河における要衝・吉田城へと兵を進めていた。
軍勢の中頃を進む酒井左衛門尉は長年の戦友・大原左近右衛門惟宗へ語り掛ける。
「吉田城の周囲には三つの砦がある。一つは豊川を挟んで北西にある下地砦。そして、南には喜見寺砦じゃ」
「存じておる。まずは吉田城の対岸に位置する下地砦。ここを攻略せねば、城攻めすら行えぬ」
「いかにもじゃ。まずはここを死ぬ気で落とさねばならぬ」
大原左近右衛門は黙ってうなずき、愛用の槍を担いで戦場へと赴いていく。そうして結集した松平勢二千五百は下地砦正面に布陣し、西から東へと放たれる鉄砲の音を合図に攻めかかった。
「殿の旗本衆として、一番槍は誰にも渡さぬ!」
「ちっ、平八郎めが図に乗りおって!先陣はこの蜂屋半之丞じゃと軍議にて先日決まったばかりだと申すに!」
軍議にて定められた配置を無視するかのように血気に逸る本多平八郎忠勝が槍を片手に猛然と突き進んでいく。それにあてられて蜂屋半之丞貞次や大久保喜六郎忠豊といった若武者らが我こそが一番乗りをと血眼になって砦攻めを開始する。
「我らも後れを取ってはならぬ!良いか!吉田城におる大原肥前守めは我が弟、左近を処刑した憎い奴!我ら形原松平がその首級を上げ、左近の墓前に供えてくれようぞ!」
三年前、龍拈寺にて処刑された人質たち。その中には、今形原松平勢を指揮して勇敢に戦う松平紀伊守家忠の弟・左近もいたのだ。弟が無惨に殺害された日から三年。ようやくその雪辱を果たす時に恵まれたのである。
「おお、紀伊守殿は勇ましい。よしっ、我らも後れを取るな!吉田城におる大原肥前守めは我が妹と父が愛した妻を殺害した奴じゃ!あやつの一族郎党に至るまで、一兵たりとも生かしておくな!進めっ!」
形原松平勢に負けられぬと前進を開始するのは松平玄蕃允清宗率いる竹谷松平勢であった。上之郷城攻めの後に家督を譲られ、代替わりしてなお家中の今川方への憎悪が拭い去られることはなく、今日まで明確な殺意となって残留していた。
愛する者を奪われた悲しみと憎悪が今、吉田城代・大原肥前守資良にぶつける天運に恵まれた形原・竹谷の両松平勢は先頭を行く本多平八郎らを追い越す勢いで追随していく。
「まず一人!」
大久保喜六郎が長槍をぶん回して目の前の足軽を突き伏せると、それを鼻で笑った本多平八郎が即座に二人を討ち果たす。
「おのれ、平八郎!それはわしへの当てつけか!年下の分際で生意気な!」
「へっ!年上と申せど、五ツしか違わぬではないか!第一、自分より弱い奴を敬うなどわしにはできぬ!」
「なんじゃと!今一度申してみよ!」
「おう!やるか!」
敵中にあって喧嘩をおっぱじめ、あまつさえ味方同士で槍を向け合う本多平八郎と大久保喜六郎。そんな二人に喝を入れたのはひと際長身の目立つあの男であった。
「このたわけ者が!」
「おお、義兄者!聞いてくだされ!平八郎の奴が!」
「聞いておったわ!あのような軍律を破るならず者の言葉など一々真に受けるでないわ」
愛用の白樫三間柄の長槍を担いでいない方の手で大久保喜六郎の肩を優しく叩く蜂屋半之丞。彼の妻の弟にあたる者が大久保喜六郎であるため、二人は義理の兄弟でもある。
「おう、元一揆勢の半之丞殿ではござらぬか!」
「ちっ、放っておけば言いたい放題抜かしおって!わしもさっき二人始末したわ!この調子でいけば、お主が一人倒す間に二人は倒せるであろうよ」
「おのれっ!ならばどちらが多く首級を挙げるか勝負じゃ!」
「望むところよ!」
当初喧嘩していた大久保喜六郎を置き去りに、どちらが多くの敵を倒すかで勝負し始める本多平八郎と蜂屋半之丞。二人の姿はみるみるうちに遠くなり、あっという間に大久保喜六郎の視力をもってしても見えないほどに小さくなってしまう。
「あの平八郎めが……!」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えながら今川兵を早々に二人討ち取った蜂屋半之丞。彼が目指すのは下地砦であった。本多平八郎との勝負も大事ではあるが、何よりも優先せねばならないのは下地砦の制圧。それを成すために、単騎で敵中へと駆け入っているのが現状である。
「ちっ、従者どもも見失ってしもうたし、この際じゃ。一人で暴れ回ってやろう」
そう思い、下地砦へと単騎で前進していく蜂屋半之丞の前に、びっこを引く一人の男が現れた。その男は玉込めの済んだ火縄銃を手にしている。
「行く手を阻む奴は何者だ!某は松平蔵人佐が家臣!蜂屋半之丞じゃ!」
「おお、そなたが名高き蜂屋半之丞か!その名は東三河にまで轟いておるぞ!」
「おう、わしのことを知っておったか!ならば悪いことは言わぬ!死にたくなければ失せろ!」
「はははっ!お主の三間柄の長槍が届く前にこの種子島がそなたを冥途へ送っておるであろう!」
びっこを引く男は口角を右に吊り上げ、冷たい銃口を蜂屋半之丞の頭部へ向ける。男が引き金を引けば、蜂屋半之丞は銃弾を受ける。その大きな図体では避けることなどできまい。暗にそう言っているかのようであった。
「お主、名は何と申す」
「河井正徳じゃ!今なら逃げても恥とはなるまい」
「ほざけ!敵を前に逃げるなど、蜂屋半之丞の意地が許さぬ!」
「来るか、半之丞!」
「おうっ!」
河井正徳が引き金を引くのと、蜂屋半之丞が地面を蹴って槍を前方へ繰り出すのはほぼ同時であった。
周囲の音すべてを打ち消す轟音とともに放たれた鉛玉は少しそれたものの蜂屋半之丞の顔面へ。対する白樫三間柄の長槍は河井正徳の腹部を刺し貫いた。
顔面を撃たれたまま血を流してあおむけに倒れる蜂屋半之丞。かたや腹部を刺されてうつ伏せに倒れた河井正徳。両名は轟音を聞いて飛んできた従者たちに担がれて退散し、一騎打ちは痛み分けという結末を迎えた。
蜂屋半之丞が銃弾に倒れた後も、下地砦をめぐる松平勢と今川勢の激しい攻防戦は依然として繰り広げられていた。
「よしっ!敵が怯みだしたぞ!今ぞ、押し出せ!」
四十三の戦場を経て、十七度自ら槍を交えたことを誇りとする老将・大原左近右衛門は自ら槍を手に取り、今川勢と戦う味方を鼓舞し続けていた。
齢四十九ともなれば戦の進退は十二分に心得ていた。それゆえに、今こそ前進の時だと味方を励まし、先頭きって下地砦へと攻めかかる。
しかし、今川勢とて必死であり、攻め寄せる松平勢に向けてありたっけの矢玉を浴びせ、砦へ攻め込ませないと懸命に守る。その中で、悲劇が起きた。
「ぐっ!」
「左近右衛門様!」
城内から放たれた弾丸が馬上で陣頭指揮を執る大原左近右衛門の胸部を穿ち抜いたのである。側にいた従者らが落馬した主人を抱き起こすも、出血多量で助かる見込みはないに等しかった。
「左近右衛門様!」
「おお、お主らか。どうやらわしはここまでのようじゃ……」
「そのような弱気なことを申されてはなりませぬ!」
「いや、これも一向一揆に乗じて殿に背いた天罰じゃ。甘んじて受け入れねばならぬ……」
視界も薄れ、もはやあれほど騒々しかった剣戟の音すらも聞こえなくなっていくことに死を感じる大原左近右衛門。従者たちが涙を流す間にも、生命の灯火は勢いを弱め、がくりとうなだれてしまう。
「左近右衛門様っ!」
従者たちが主人の死を受け入れられず、悲鳴を上げるのをよそに松平勢の先陣は下地砦の門を打ち破り、柵を引き倒して砦内へと攻め込み、火をかけていく。
開戦から一刻経たぬ間に対岸の下地砦から昇る火の手を見て、吉田城内にいる今川勢は呆然とした。
「城代様!」
「おう、藤三郎殿か」
豊川を挟んだ北西よりもくもくと昇る火煙を櫓の上から遠望する城代・大原肥前守のもとへ駆け寄った若武者は二年前に竹千代との人質交換によって今川氏へと身柄を引き渡された鵜殿兄弟の弟・藤三郎氏次であった。
「下地砦が陥落したとはまことにございまするか!?」
「うむ。見てみよ、あの火が立ち上る砦こそ下地砦じゃ」
「なっ、何故城代様はそうも落ち着いておられるのですか!」
「今さら焦ったとて焼け落ちた砦を奪い返すことは叶わぬ。今はただ城の防備を固め、駿府よりの援軍が到着するまでの間、松平勢の攻撃を凌ぐのみぞ」
達観したような物見で呑気に戦況を捉える大原肥前守のやり方は若い鵜殿藤三郎にとって実にもどかしいものであった。しかし、老練な大原肥前守の言うことはもっともであり、若い鵜殿藤三郎が論破できるような相手ではなかった。
そこへ、城の北東部を見回っていたはずの鵜殿兄弟の兄・新七郎氏長が青ざめた表情で櫓下まで駆けこんでくる。
「肥前守殿!一大事にござる!」
「新七郎殿か!何事ぞ!」
「見れば分かりまする!どうか、東側の櫓までお越しくださいませ!」
齢十六となった少年・鵜殿新七郎氏長に言われるまま、城東の櫓へ登った大原肥前守は目の前の光景に目を疑った。
城東に約二千もの敵兵が出現し、丸に一枚鷹の羽、丸に釘抜き紋、三つ盛り十二葉菊、六曜の旗が林立していたのだから、驚かずにはいられなかった
「丸に一枚鷹の羽は八名郡の西郷勢、丸に釘抜き紋は野田菅沼勢、三つ盛り十二葉菊は設楽勢の旗。豊川三人衆揃い踏みであるのに加えて、裏切り者の二連木戸田の六曜紋の旗が翻っておるではないか……!」
松平勢に下地砦を陥落させられてなお平静を保っていた大原肥前守であったが、松平蔵人逆心以来三年もの長きに渡って今川家に歯向かう豊川三人衆の旗を見て激昂せずにはいられなかった。
そこへ自分と双六を打っている間に生母を救出してのけた裏切り者・戸田主殿助重貞も加勢しているというのだから、怒りは最高潮に達しようとしていた。
しかし、対する西郷勢の西郷孫九郎清員は母を、野田菅沼勢の菅沼新八郎定盈と設楽越中守貞通は正室を大原肥前守に処刑され、恨み骨髄に徹している面々ばかり。
明確な殺意に東西から挟まれた吉田城代・大原肥前守のもとへ、さらなる一報がもたらされる。
「申し上げます!下地砦跡に厭離穢土欣求浄土の旗を確認!松平蔵人佐が本隊が到着したものと思われまする!」
「なっ、蔵人佐が来たと申すか!して数は!」
「はっ!下地砦を陥落せしめた先陣と合わせ、四千近い数になるかと……!」
「城代様、東側の敵と合わせれば敵は総勢六千にはなりましょうぞ!」
家臣や鵜殿藤三郎に言われずとも、そのようなことくらい大原肥前守にも分かっている。城兵は千五百もいない状況を考慮すれば、四倍近い敵に包囲されることとなる。
いかに堅牢な吉田城とはいえども、遠州での飯尾豊前守の叛乱が鎮圧できていない中で駿府からの援軍を待って籠城を続けるのは無謀に等しい。援軍に来れるとすれば田原城の朝比奈肥後守くらいだが、合流したとしても敵の半数にも満たない。
何より、援軍が城へ入ったとしても永禄の飢饉が続く現状では満足のいく兵粮の備蓄はない。大原肥前守の見るところでは、三月耐えられれば上々、といったところであった。
「殿!」
「今度はなんじゃ!」
「はっ!敵方の本多隼人佑と申す者が使者として参っております!」
「ほう、伊奈城主の本多隼人佑がか」
敵方が寄こした伊奈城主・本多隼人佑忠次は齢十八と若いが、これまで幾度となく吉田城を明け渡すよう使者を派遣してきた人物。家康の直臣よりはまだ話も通じるであろう、というのが大原肥前守が導き出した結論であった。
「よし、会おう。広間へ通せ」
そのように家臣へ命じると、大原肥前守は鎧兜を脱ぐことなく広間へ足早に移動していく。そこには与力でもある鵜殿兄弟も同伴のうえであった。そうして大原肥前守が広間へ到着すると、一足早く広間へ通された本多隼人佑が正座して待機していたのである。
「おう、隼人佑殿。お勤めご苦労」
「はっ、肥前守殿におかれましてはますますご健勝のことと存じまする」
「ははは、下手な口上はやめよ。して、此度城へ参ったは降伏を勧告せんがためであろう」
「いかにも。以前より使者を通じて申し伝えておりました通り、籠城衆の命は取りませぬゆえ、三河よりお立ち退きいただきたく。兵糧も枯渇し、援軍も間に合わぬ現状では籠城したとて益はございますまい」
本多隼人佑の意見をふん、と鼻で笑う大原肥前守であったが、おそらく敵にも城内の事情が漏れていると見て相違なかった。
――ともすれば、ここは勧告に従い、再起を図る方がよい。
もはや大原肥前守の返答は自ずと定まっていた。
軍勢の中頃を進む酒井左衛門尉は長年の戦友・大原左近右衛門惟宗へ語り掛ける。
「吉田城の周囲には三つの砦がある。一つは豊川を挟んで北西にある下地砦。そして、南には喜見寺砦じゃ」
「存じておる。まずは吉田城の対岸に位置する下地砦。ここを攻略せねば、城攻めすら行えぬ」
「いかにもじゃ。まずはここを死ぬ気で落とさねばならぬ」
大原左近右衛門は黙ってうなずき、愛用の槍を担いで戦場へと赴いていく。そうして結集した松平勢二千五百は下地砦正面に布陣し、西から東へと放たれる鉄砲の音を合図に攻めかかった。
「殿の旗本衆として、一番槍は誰にも渡さぬ!」
「ちっ、平八郎めが図に乗りおって!先陣はこの蜂屋半之丞じゃと軍議にて先日決まったばかりだと申すに!」
軍議にて定められた配置を無視するかのように血気に逸る本多平八郎忠勝が槍を片手に猛然と突き進んでいく。それにあてられて蜂屋半之丞貞次や大久保喜六郎忠豊といった若武者らが我こそが一番乗りをと血眼になって砦攻めを開始する。
「我らも後れを取ってはならぬ!良いか!吉田城におる大原肥前守めは我が弟、左近を処刑した憎い奴!我ら形原松平がその首級を上げ、左近の墓前に供えてくれようぞ!」
三年前、龍拈寺にて処刑された人質たち。その中には、今形原松平勢を指揮して勇敢に戦う松平紀伊守家忠の弟・左近もいたのだ。弟が無惨に殺害された日から三年。ようやくその雪辱を果たす時に恵まれたのである。
「おお、紀伊守殿は勇ましい。よしっ、我らも後れを取るな!吉田城におる大原肥前守めは我が妹と父が愛した妻を殺害した奴じゃ!あやつの一族郎党に至るまで、一兵たりとも生かしておくな!進めっ!」
形原松平勢に負けられぬと前進を開始するのは松平玄蕃允清宗率いる竹谷松平勢であった。上之郷城攻めの後に家督を譲られ、代替わりしてなお家中の今川方への憎悪が拭い去られることはなく、今日まで明確な殺意となって残留していた。
愛する者を奪われた悲しみと憎悪が今、吉田城代・大原肥前守資良にぶつける天運に恵まれた形原・竹谷の両松平勢は先頭を行く本多平八郎らを追い越す勢いで追随していく。
「まず一人!」
大久保喜六郎が長槍をぶん回して目の前の足軽を突き伏せると、それを鼻で笑った本多平八郎が即座に二人を討ち果たす。
「おのれ、平八郎!それはわしへの当てつけか!年下の分際で生意気な!」
「へっ!年上と申せど、五ツしか違わぬではないか!第一、自分より弱い奴を敬うなどわしにはできぬ!」
「なんじゃと!今一度申してみよ!」
「おう!やるか!」
敵中にあって喧嘩をおっぱじめ、あまつさえ味方同士で槍を向け合う本多平八郎と大久保喜六郎。そんな二人に喝を入れたのはひと際長身の目立つあの男であった。
「このたわけ者が!」
「おお、義兄者!聞いてくだされ!平八郎の奴が!」
「聞いておったわ!あのような軍律を破るならず者の言葉など一々真に受けるでないわ」
愛用の白樫三間柄の長槍を担いでいない方の手で大久保喜六郎の肩を優しく叩く蜂屋半之丞。彼の妻の弟にあたる者が大久保喜六郎であるため、二人は義理の兄弟でもある。
「おう、元一揆勢の半之丞殿ではござらぬか!」
「ちっ、放っておけば言いたい放題抜かしおって!わしもさっき二人始末したわ!この調子でいけば、お主が一人倒す間に二人は倒せるであろうよ」
「おのれっ!ならばどちらが多く首級を挙げるか勝負じゃ!」
「望むところよ!」
当初喧嘩していた大久保喜六郎を置き去りに、どちらが多くの敵を倒すかで勝負し始める本多平八郎と蜂屋半之丞。二人の姿はみるみるうちに遠くなり、あっという間に大久保喜六郎の視力をもってしても見えないほどに小さくなってしまう。
「あの平八郎めが……!」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えながら今川兵を早々に二人討ち取った蜂屋半之丞。彼が目指すのは下地砦であった。本多平八郎との勝負も大事ではあるが、何よりも優先せねばならないのは下地砦の制圧。それを成すために、単騎で敵中へと駆け入っているのが現状である。
「ちっ、従者どもも見失ってしもうたし、この際じゃ。一人で暴れ回ってやろう」
そう思い、下地砦へと単騎で前進していく蜂屋半之丞の前に、びっこを引く一人の男が現れた。その男は玉込めの済んだ火縄銃を手にしている。
「行く手を阻む奴は何者だ!某は松平蔵人佐が家臣!蜂屋半之丞じゃ!」
「おお、そなたが名高き蜂屋半之丞か!その名は東三河にまで轟いておるぞ!」
「おう、わしのことを知っておったか!ならば悪いことは言わぬ!死にたくなければ失せろ!」
「はははっ!お主の三間柄の長槍が届く前にこの種子島がそなたを冥途へ送っておるであろう!」
びっこを引く男は口角を右に吊り上げ、冷たい銃口を蜂屋半之丞の頭部へ向ける。男が引き金を引けば、蜂屋半之丞は銃弾を受ける。その大きな図体では避けることなどできまい。暗にそう言っているかのようであった。
「お主、名は何と申す」
「河井正徳じゃ!今なら逃げても恥とはなるまい」
「ほざけ!敵を前に逃げるなど、蜂屋半之丞の意地が許さぬ!」
「来るか、半之丞!」
「おうっ!」
河井正徳が引き金を引くのと、蜂屋半之丞が地面を蹴って槍を前方へ繰り出すのはほぼ同時であった。
周囲の音すべてを打ち消す轟音とともに放たれた鉛玉は少しそれたものの蜂屋半之丞の顔面へ。対する白樫三間柄の長槍は河井正徳の腹部を刺し貫いた。
顔面を撃たれたまま血を流してあおむけに倒れる蜂屋半之丞。かたや腹部を刺されてうつ伏せに倒れた河井正徳。両名は轟音を聞いて飛んできた従者たちに担がれて退散し、一騎打ちは痛み分けという結末を迎えた。
蜂屋半之丞が銃弾に倒れた後も、下地砦をめぐる松平勢と今川勢の激しい攻防戦は依然として繰り広げられていた。
「よしっ!敵が怯みだしたぞ!今ぞ、押し出せ!」
四十三の戦場を経て、十七度自ら槍を交えたことを誇りとする老将・大原左近右衛門は自ら槍を手に取り、今川勢と戦う味方を鼓舞し続けていた。
齢四十九ともなれば戦の進退は十二分に心得ていた。それゆえに、今こそ前進の時だと味方を励まし、先頭きって下地砦へと攻めかかる。
しかし、今川勢とて必死であり、攻め寄せる松平勢に向けてありたっけの矢玉を浴びせ、砦へ攻め込ませないと懸命に守る。その中で、悲劇が起きた。
「ぐっ!」
「左近右衛門様!」
城内から放たれた弾丸が馬上で陣頭指揮を執る大原左近右衛門の胸部を穿ち抜いたのである。側にいた従者らが落馬した主人を抱き起こすも、出血多量で助かる見込みはないに等しかった。
「左近右衛門様!」
「おお、お主らか。どうやらわしはここまでのようじゃ……」
「そのような弱気なことを申されてはなりませぬ!」
「いや、これも一向一揆に乗じて殿に背いた天罰じゃ。甘んじて受け入れねばならぬ……」
視界も薄れ、もはやあれほど騒々しかった剣戟の音すらも聞こえなくなっていくことに死を感じる大原左近右衛門。従者たちが涙を流す間にも、生命の灯火は勢いを弱め、がくりとうなだれてしまう。
「左近右衛門様っ!」
従者たちが主人の死を受け入れられず、悲鳴を上げるのをよそに松平勢の先陣は下地砦の門を打ち破り、柵を引き倒して砦内へと攻め込み、火をかけていく。
開戦から一刻経たぬ間に対岸の下地砦から昇る火の手を見て、吉田城内にいる今川勢は呆然とした。
「城代様!」
「おう、藤三郎殿か」
豊川を挟んだ北西よりもくもくと昇る火煙を櫓の上から遠望する城代・大原肥前守のもとへ駆け寄った若武者は二年前に竹千代との人質交換によって今川氏へと身柄を引き渡された鵜殿兄弟の弟・藤三郎氏次であった。
「下地砦が陥落したとはまことにございまするか!?」
「うむ。見てみよ、あの火が立ち上る砦こそ下地砦じゃ」
「なっ、何故城代様はそうも落ち着いておられるのですか!」
「今さら焦ったとて焼け落ちた砦を奪い返すことは叶わぬ。今はただ城の防備を固め、駿府よりの援軍が到着するまでの間、松平勢の攻撃を凌ぐのみぞ」
達観したような物見で呑気に戦況を捉える大原肥前守のやり方は若い鵜殿藤三郎にとって実にもどかしいものであった。しかし、老練な大原肥前守の言うことはもっともであり、若い鵜殿藤三郎が論破できるような相手ではなかった。
そこへ、城の北東部を見回っていたはずの鵜殿兄弟の兄・新七郎氏長が青ざめた表情で櫓下まで駆けこんでくる。
「肥前守殿!一大事にござる!」
「新七郎殿か!何事ぞ!」
「見れば分かりまする!どうか、東側の櫓までお越しくださいませ!」
齢十六となった少年・鵜殿新七郎氏長に言われるまま、城東の櫓へ登った大原肥前守は目の前の光景に目を疑った。
城東に約二千もの敵兵が出現し、丸に一枚鷹の羽、丸に釘抜き紋、三つ盛り十二葉菊、六曜の旗が林立していたのだから、驚かずにはいられなかった
「丸に一枚鷹の羽は八名郡の西郷勢、丸に釘抜き紋は野田菅沼勢、三つ盛り十二葉菊は設楽勢の旗。豊川三人衆揃い踏みであるのに加えて、裏切り者の二連木戸田の六曜紋の旗が翻っておるではないか……!」
松平勢に下地砦を陥落させられてなお平静を保っていた大原肥前守であったが、松平蔵人逆心以来三年もの長きに渡って今川家に歯向かう豊川三人衆の旗を見て激昂せずにはいられなかった。
そこへ自分と双六を打っている間に生母を救出してのけた裏切り者・戸田主殿助重貞も加勢しているというのだから、怒りは最高潮に達しようとしていた。
しかし、対する西郷勢の西郷孫九郎清員は母を、野田菅沼勢の菅沼新八郎定盈と設楽越中守貞通は正室を大原肥前守に処刑され、恨み骨髄に徹している面々ばかり。
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「なっ、蔵人佐が来たと申すか!して数は!」
「はっ!下地砦を陥落せしめた先陣と合わせ、四千近い数になるかと……!」
「城代様、東側の敵と合わせれば敵は総勢六千にはなりましょうぞ!」
家臣や鵜殿藤三郎に言われずとも、そのようなことくらい大原肥前守にも分かっている。城兵は千五百もいない状況を考慮すれば、四倍近い敵に包囲されることとなる。
いかに堅牢な吉田城とはいえども、遠州での飯尾豊前守の叛乱が鎮圧できていない中で駿府からの援軍を待って籠城を続けるのは無謀に等しい。援軍に来れるとすれば田原城の朝比奈肥後守くらいだが、合流したとしても敵の半数にも満たない。
何より、援軍が城へ入ったとしても永禄の飢饉が続く現状では満足のいく兵粮の備蓄はない。大原肥前守の見るところでは、三月耐えられれば上々、といったところであった。
「殿!」
「今度はなんじゃ!」
「はっ!敵方の本多隼人佑と申す者が使者として参っております!」
「ほう、伊奈城主の本多隼人佑がか」
敵方が寄こした伊奈城主・本多隼人佑忠次は齢十八と若いが、これまで幾度となく吉田城を明け渡すよう使者を派遣してきた人物。家康の直臣よりはまだ話も通じるであろう、というのが大原肥前守が導き出した結論であった。
「よし、会おう。広間へ通せ」
そのように家臣へ命じると、大原肥前守は鎧兜を脱ぐことなく広間へ足早に移動していく。そこには与力でもある鵜殿兄弟も同伴のうえであった。そうして大原肥前守が広間へ到着すると、一足早く広間へ通された本多隼人佑が正座して待機していたのである。
「おう、隼人佑殿。お勤めご苦労」
「はっ、肥前守殿におかれましてはますますご健勝のことと存じまする」
「ははは、下手な口上はやめよ。して、此度城へ参ったは降伏を勧告せんがためであろう」
「いかにも。以前より使者を通じて申し伝えておりました通り、籠城衆の命は取りませぬゆえ、三河よりお立ち退きいただきたく。兵糧も枯渇し、援軍も間に合わぬ現状では籠城したとて益はございますまい」
本多隼人佑の意見をふん、と鼻で笑う大原肥前守であったが、おそらく敵にも城内の事情が漏れていると見て相違なかった。
――ともすれば、ここは勧告に従い、再起を図る方がよい。
もはや大原肥前守の返答は自ずと定まっていた。
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※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
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そんな関係のあたしたち。
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【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
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